非常に大きな話を8ページにまとめていて、どんな形で報告しようか迷いましたが、とりあえず書いてあることを要約して紹介し、それに関して授業に使えそうな部分を示し、最後にイスラームに関するネタ帳のようなものをつけようと思います。
まずテキストの紹介をします。最初に「はじめに」で世界システムが始まる前、グローバル化以前の前近代にも世界各地にそれぞれシステムがあったということで、さまざまな地域的なシステムのひとつにイスラームのシステムがあり、インド洋からアフリカにかけての大きな交易網が存在していたと、書いてあります。さまざまな事例があげてあり、唐や明代の中国陶磁器がはるか遠いエジプトのフスタートなどで発掘されるとか、2-202の資料「アフリカの象牙交易」では、10世紀、アフリカでとれた象牙が東アフリカからオマーンさらに、インドや中国に運ばれていっていると書いてあります。最近の入試問題を見ていたら、カーリミー商人を聞いている問題があって、私はそれではじめて気がついたくらいですが、山川を見ると二か所単語が出ていて、詳しい説明はないのですが、海上交易で活躍したとあるだけです。それがこの資料2-224「カーリミー商人とインド洋交易(12~15世紀)」に載っています。インドから中国まで活躍したということです。これは面白い資料なので、またあとで取り上げたいと思います。授業で説明することはまずないと思いますが、こういうことを知っておけば深いところから説明ができると思います。4-19は「広州のアラブ人」で、これは中国史の本を読んでいるとよく出てきます。知っている人もいると思うし、昔の資料集には出ていたと思います。広州は昔からの貿易港で、海外の人がたくさんいて、そのなかにアラブ人商人もいましたという例です。かなりぜいたくな暮らしぶりで、アラブの風習をそのまま行っていたということで、授業で抜き出して示すにはいい資料。4-45の「泉州の繁栄(13C末)」も同様の資料です。マルコ=ポーロ関係で有名な資料ですが、泉州の港での貿易の様子が書いてあります。その貿易から大カーンが莫大な税収を得ているとか、税率も書いていある。胡椒は4割4分、白檀は5割、半分取るんだと具体的に書いてあって面白い資料だと思います。4-177は「サマルカンドの繁栄」で、海とは違って陸上交易です。ティムール朝の頃ですから栄えているだろうとは思います。さまざまな民族、トルコ人、アラブ人、モロ人、アルメニア人のキリスト教徒、カトリック教徒のギリシア人、ネストリウス教徒、ヤコブ教徒って何かわかりませんが、そういういろいろな人たちが集まっているとあり、具体的なイメージとして知っておいたらよいかなと思います。こういう資料をあげて、前近代のイスラーム圏においていかに交易が頻繁におこなわれていたかというのが「はじめに」です。
このような交易な盛んな状態を、どのような形でイスラームはこれを実現したのか、というのが次です。
「共存と交易のシステム」で、まずは「物理的なインフラストラクチャー」が整備されていたということです。具体的には2-123「カイロの繁栄(14C前半・マムルーク朝)」の資料です。イブン=バットゥータがたくさん出てくるのですが、彼が記録したカイロの繁栄ということで、さまざまな人が集まってきている様子です。ラクダに乗った水売りが1万2千人とか、駄獣貸し業者が3万人、スルタンとその臣民の船がナイルに3万6千艘とか、具体的な数字を述べていて、人口も30万、繁栄ぶりの規模もわかると思います。「異人たちを歓待する」というフレーズもあって、旅する人たちが入れ替わり立ち替わり来てもよそ者を排除しない、そういうオープンさがあるのかなと思います。
2-137「ワクフの美点」は面白い資料です。これもイブン=バットゥータが、ダマスクス(マムルーク朝)のワクフが出てくる。ワクフは教科書にも出てきて、ワクフとして自分の財産を寄進し、その収益でキャラバンの泊まる宿舎やモスクが運営されると説明されるのですが、それが具体的に書いてある。こんなこともワクフでやるのか、というのが面白いところです。花嫁のお金がないときにそれもワクフで賄う、旅行者にお金がないとワクフの収益で援助するとか、あります。仕事のない人にワクフ施設の建設や管理で仕事が与えることができると書いてあります。生活の手立てもそこで見つかる。モスクのイマームとか、マドラサの朗唱役、給与付きのモスクの学生、コーランの朗唱役、墓廟の給仕雇用、生活費や衣服費の支給される修道場のスーフィーの一員に、ということです。旅行してきてお金が無くなってもワクフを頼れば旅行を続けられる。どこまで本当か、きれいに書いているかわかりませんが、本当だとすれば素晴らしい話です。とにかく、先ほどの話と同じでオープンで、客人を歓待する。そういう環境があったというのが、ここでいうインフラだと思います。ワクフに関しては、授業でも言うのですが、具体的なことはなかなかわからないのですが、こういうことを話してあげれば生徒もイメージをつかめるのではないかと思います。
次に、イスラーム法が取り上げられています。イスラーム法が商業発展の大きなポイントということです。その例として、2-98で「カーディーの任務と資格(11C初)」があるます。カーディーはイスラーム法を執行する裁判官のことで、さまざまなトラブルの調停、正当な権利の実現、ワクフの監督、刑罰の執行、交易の監督などさまざまな仕事をする。カーディーの裁判記録のようなもの、売買賃貸借、融資などイスラーム法廷で承認を受けた契約証書や法廷台帳が大量に存在するということで、たぶんいろいろなことがわかるのでしょうねということです。カーディーはアッバース朝のもとで始まったようです。法廷を主宰して司法行政を管轄するカーディーの制度がアッバース朝で整備され、首都や各州都のカーディーはカリフによって任命されたと三浦さんの別の本に書いてありました。アッバース朝が滅んだ後も、さまざまなイスラーム王朝でカーディーという職の人たちが裁判を円滑におこなって市場の取引もうまくいくように動かしていたのでしょう。イスラーム法はコーランやムハンマドが残した言行記録ハディーズにもとづいてできているので、権力者が変わろうとイスラーム法は変わらない。鎌倉幕府が滅んで室町幕府になったから、法令が変わってやり方が変わるということは一切なくて、いつ、どこであろうと、どの王朝であろうとイスラーム圏であれば、同じイスラーム法で取引がされるので、いったんこのような制度が確立すれば、商人たちは、「ここの法律はどうなっているのだろう」ということを気にせずに、円滑に取引ができると思います。このイスラーム法が行き渡っている世界では、さまざまな取引がスムースにいっただろうということは想像に難くないです。
2-160は「オスマン朝の司法制度 『カーディー必携書』」ウラマーの官僚化に寄与した法知識のマニュアルが載っています。オスマン朝の制度にもカーディーがあるということで、ずっと続いていたことがわかる。ただし、これがいつまで続いて、いつ消えたかはどこにも載っていない。たぶん、19世紀になって西洋化の波に飲み込まれていくなかで消えていくのかなあと、まだあるかもしれませんが。そのあたりの情報はなかったです。イブン・バットゥータによると、14世紀の中国の主要都市にも、ムスリムの居住する社会があって、そこにも法律関係を裁くカーディーがいたということです。中国でもイスラーム社会にはカーディーがいた。あと、政府とムスリム社会の間を取りなすシャイフ・アル=イスラームというものがいたということも補足で付け加えておきます(家島1991)。
2-135には「商業と倫理 権力者が任命するムフタシブ」という資料が載っています。ムフタシブという職務があって、権力者が任命して市場での公正な取引を監督する。権力をもっている側も、公平な取引が円滑にいくように、政府がちゃんとしているときは監視をしていたということです。家島さんの本ですが、ちょっと読みます。「そこ(クーファに限らず多くの軍営地内の市場)には、地方総督の任命する市場監督官や地区長と呼ばれる役人がいて、管理をおこなっていた。彼らの任務は、市場内における警察権の行使、紛争の解決、徴税、正統な取引や社会慣行の維持などであったが、商工業の活動に制限を与えるためのものではなく、むしろ初期イスラーム都市の健全な発達に大きく寄与したと考えられる。彼らは、アッバース朝以後、ムフタシブという名称に統合されて、その職務権限は特に市場の商業・手工業の監督、社会慣行の維持などに重きがおかれた。(家島1991)」。とあって、古い時代から同じようなものがあったということです。そのムフタシブはウラマー(法学者)のなかから選ばれたということで、イスラームが広がるに従ってウラマーの数も増えて地位も徐々に確立してくる。そういう人たちがムフタシブに任命されて市場を監督する。本来は権力とは関係なのですが、のちにはさまざまな王朝がウラマーたちを官僚に任命して、庶民と権力の間をつなぐ役割をウラマーがするようになったと、どこかに書いてありました。加藤さんの本では、ウラマーは「世俗権力である国家に対してその統治権を弁護し、支えるという公人の役割を担う一方で、ウンマの理念の体現者として、世俗権力から一線を画し、政府の政策を監視するなかで、住民の利益を守る立場にあった。(加藤2015)」とあります。ウラマーのイスラーム圏における位置は重要だなと読んでいて思いました。
③、条約に関して、2-148にカピチュレーションの話が出てきます。最初はヨーロッパ人がイスラーム圏にやってくるときに、商売が円滑にできるように彼らの財産や身分、取引を保障することから始まった条約と解説してあります。後にこれを利用して、不平等条約に持ち込んでいくのは、教科書にも書いてある有名なところだと思います。特に資料を見てもどうということはないかなと思いました。こんな資料があるということです。
④、度量衡と貨幣です。取引の際は、度量衡と貨幣が統一されているとやりやすいと思います。ただし、ここでは度量衡の統一に関してここには書いていません。また、さまざまな貨幣が流通していたようです。金貨ディナールと銀貨ディルハムというものが、たぶんイスラーム圏の主要な通貨で、金貨であったもさまざまな材質、金の含有量が違うので、両替商が発展した。イスラーム圏外の地域でも、イスラームの貨幣が発見されるので、通州範囲の広さがわかる。また、小切手、為替、手形のような信用制度が発達していたこともイスラーム圏の特徴として書いてあります。度量衡で、ガラスの分銅が発掘されているのは面白いと思いました。僕らは金属で発想するのですが、ガラスは欠ければすぐにわかるので、確かに不正はない。しかし、作っている途中で重さが変わりそうで、作るのはすごく難しそうです。
最後に「おわりに」で「もうひとつの世界システム」 ということでまとめてあります。
2-114は十字軍の時代の交易の資料です。キリスト教徒が入植して彼らの村ができている時代、イスラームの支配者の軍隊と十字軍の戦闘が続いているときであっても、キリスト教徒とムスリムの商人の往来が活発であったということが書いてあり、面白いと思いました。必需品は必ず必要なので、戦争中でも関係なく交易するのだと加藤さんの本に書いてあって、それはそうだと思います。さらに、資料の解説にサラディンがイタリアから戦争の資材を購入しているとあって、まさかそこまで、という感じです。また、イベリア半島のムスリムが巡礼にジェノバの船に乗ってやってくるという。戦争をやっている支配者以外は関係ない、国民国家ではないので、当然と言えば当然ですが、一般民衆が宗教で対立している現在からみると、ある意味穏やかな時代だったのかなと思います。僕らが今見ている風景から、過去を推し量ってはだめだとつくづく思いました。
2-230はイスラームの前近代のネットワークが徐々に浸食される過程として、ポルトガルによるゴア占領するとき(1510)の資料。これはよく見る資料だと思います。ヨーロッパがやってきてイスラームの交易権に参入してくる、力づくで入ってくる資料です。戦闘の資料なので、授業ではそんなに使えないと思いますが。
4-238は、トメ・ピレスというポルトガル人が書いた記録で、アジアの交易の時代でよく出てくる資料です。マラッカ王国にいかに多くの国の商人がやってきたかを示したものです。ポルトガルが来るまでは、マラッカが交易品の中心だった。ポルトガルがやってきて、ヨーロッパの覇権が確立するのだけれど、ただし一気にヨーロッパの覇権が確立したわけではなく、18世紀までアジアが世界大のシステムの中心であることは揺るがないというフランクの説があって、それに留意する必要があると指摘していました。
13世紀にモンゴルが衰退すると同時期に、このシステムが衰退していて、それはペスト流行とも関係あるのではないかとも指摘していますが、ただしペストはヨーロッパも同じように襲っているので、システムが変わっていく仕組みに関してはまだまだわからないということだと思います。ただし、ヨーロッパではペスト流行ののち主権国家体制の構築されたと、ちらっと書いてありました。
この本をどんなふうに授業で利用できるかなということで、「2. 資料として授業で活用できるもの」です。前近代における交易圏の広さとイスラーム圏の繁栄ぶりが、先ほどの 2-202の象牙の資料、2-224はカーリミー商人とインド交易、4-19は広州のアラブ人の話、4-45は泉州の繁栄ということでマルコ・ポーロの話、4-238はマラッカ王国の話で、授業で使えるかなと思います。あと、中国のムスリムということで、4-19の広州のアラブ人の資料解説に有名な蒲寿庚が載っています。中国史をやっている人にはおなじみの人物で、中国のムスリムの一般的な名字が蒲氏で、中国にもムスリムが住んでいましたよという話は、生徒には結構意外な感じがするかなと思います。ついでに、日本にもいて、室町時代の楠葉西忍(1395~1486)という人がいます。この人はムスリムかどうかはっきりしないけれど、お父さんははっきりとムスリムです。インド系といわれています。大阪の北の方に樟葉という土地がある。そこの女性と結婚してそこで生まれたので楠葉西忍というのですが、長じてからは日明貿易で活躍して結構名前が知られている人です。
ムスリムの交易権のなかにちょっと日本も関わっているかなということで紹介してあげたらなあと思います。父親は天竺人と日本の資料にあるので、インドかジャワかそのへんかなと。楠葉西忍の幼名はムスル。だからはっきりと父親はムスリムだろうと思います。
それから以前全歴研の発表でしましたが、室町時代に北陸の若狭にジャワのムスリムの王さまからの交易船が漂着しています。日本の記録ではあまり有名ではありませんが、ちょこちょことそういう事例があったと思います。そのくらいに商売に熱心だったのかなと。
2-137の「ワクフの美点」という面白い資料がありました。花嫁にお金を出してやるとか、これも授業で紹介するのは楽しい。ちょうど、モンゴル帝国の時代なのでひょっとしたらこれだけダマスクスが商業で反映してワクフがさまざまな人々を助けているのは「タタールの平和」の反映かなと思いました。根拠はありませんが。
あと、この章に関連して調べたことを紹介します。まず、イスラームと商業はもともと親和性があるということです。イスラームという宗教そのものが、個人の欲望を肯定している。仏教もキリスト教もユダヤ教も、商売で金もうけをすることをいやらしい、ちょっと非道徳的にとらえるところがあるけれど、イスラームには全くそれがない。商売での利得に対して肯定的な宗教だということです。昔読んだ本に、イスラームは砂漠の宗教だとみんなは思っているけれど、そうではなくて都市の宗教で、商人の宗教だとありました。しかし生徒は砂漠の宗教というイメージをもっていると思うので、それをひっくり返してやったら面白いと思います。コーランの文章ですが、「コーランを読誦し、礼拝の務めをよく守り、神から授かった財産を惜しみなく使う人々は、絶対にはずれっこない商売を狙っているようなもの」ということで、ムハンマドの教えのなかには商売のたとえがたくさん出てきます。いくつか抜き書きしましたので、授業で使ってもらえればと思います。「何時より前にわし(神)が世に遣わした使徒たちも、皆めしを食い、市場を歩きまわっていたものだ」(コーラン)。ムハンマドの言葉として「誠実で信用のおける商人は(最後の審判の日に)、預言者、義人、殉教者たちとともにあるだろう」「商人たちは、この世の先供、地上での神の忠実な管財人である」というのもあります。商人への蔑視はどこにもありません。
一方ネットで見つけたのですが、「中国の文人エリート層には伝統的に、とりわけ宋代まで、反市場主義的な考え方があった」(岸本美緒)(「イスラーム地域研究5班調査報告」より)ということです。どちらかというと商売を嫌う面がある。中国人は商売が好きなのですけどね。科挙官僚になった人は商売禁止だったと思います。実際には家人にやらせるのですけどね。
また、商業の円滑化を促すシステムが整っていました。家島さんの本からですが、G・E・グリュネパウムによれば、「イスラーム都市は、ムスリム共同体の理想(ウンマ・ムハンマディーヤ)を実現するための、すべてのムスリムたちに等しく開かれた場であって、特定の都市・人々に限定された法的特権や市民意識・自治意識は基本的には存在しない。また、都市内のモスク(11世紀以後はマドラサ・リバート・ザーウィヤの役割をも含む)が宗教・社会と教育の面で中心的な役割を狙い、市場が経済活動の面で中心的機能を果たしていると結論した。彼の説は一般的には『イスラーム都市=モスクと市場』として理解されている。」ということで、都市の特権とか自治意識はあまりないという。ただ商人が集まって礼拝する場所がある、それがイスラームの都市だという指摘をされているようです。それに関わって、「イスラーム世界の職業集団は、中世ヨーロッパ社会における自治権を持ったツンフトとは明らかに相違。概して団体としての独占的・閉鎖的性格が弱く、外来の商人・手工業者を排斥したり、価格統制、販売独占、団体としての特権的主張を国家・為政者に要求することはなかった。」(家島1991)中世ヨーロッパにおけるギルド、ツンフトなようなものはない。日本における座、そういうものもイスラームにはない。基本的にイスラームの人たちは組織を作らないということのようです。
「11世紀半ば頃から、…活動するようになったカーリミー商人は、…モンスーン航海のために組織された商用航海のための運輸船団であったと考えられる。その後、一種の商人組合に近い組織体を作り、15世紀の後半まで長期にわたり活躍、マムルーク朝やイエメン・ラスール朝の国家財政にも大きな影響を与えた。…海上貿易は嵐による難破、投荷、海賊による略奪など積み荷の損失、人命の危険が極めて大きい。…天候によって積み荷の輸送や取引が大幅に遅れたり停止する場合もあって、商品価格の変動が激しい…船舶の建造に莫大な技術と資金が必要…有能なナーホダー(船舶経営者)や操舵長、船員を雇用する必要…このような海上航海と貿易の特殊条件のなかで、海上企業の共同や合資の契約関係は陸上企業よりも厳密な形で発達した」(家島1991)と指摘されています。基本的には組織を作らないのだけれど、海上貿易にはさまざまな条件があるので企業体のようなものが作られたのではないか、それがカーリミー商人ではないかということです。三浦さんの本ではエジプトが根拠地ではないかと書かれていました。
2-224でカーリミー商人とインド洋交易の話があったのですが、先ほど両替商にユダヤ人がいましたという話がありましたが、このカーリミー商人は父親がユダヤ人なんですよ。それがイスラームに改宗して海上交易をやっている。イスラームが組織を作らないと言いながら、この人たちはユダヤ人なのでイスラームといってもちょっと違う。ひょっとしたらそういう人たちがカーリミー商人にたくさんいたとか。わずかな資料ですが、いろいろなことを考えるネタになる。こういう資料をかき集めながら歴史家はさまざまな説を組み立てていくのだなと感じた資料です。この資料に、この商人は財産を築いたけれど「ところがイエメンの支配者は、彼のすべての財産、彼がもたらした中国の奢侈品類と陶磁器について、慣行により徴収される税額以上のものをとった」と出てきます。注を見ると、イエメンのラスール朝と書いてある。家島さんの論文のなかで「イエメン・ラスール朝の国家財政にも大きな影響を与えた」とあって、想像ですが、この資料からそのような叙述をしている可能性も大きい。卒論などで資料集めをして論文を書いた経験のある人は、感覚がわかると思います。こういう資料から学者は学説を作っていくというのを、歴史学の専門ではない勉強をした人に知っておいてもらったらいいかなと、おこがましいですが付け加えておきます。
それから、「イスラーム商業≠ムスリム」ということで、今のユダヤ人出身のカーリミー商人がいたという話。それから、イスラームの大征服時代のことを書いた家島さんの本の文です。「…街区内および市場内の両替商は、国家による経営ではなく、私設の金融機関であって、金融業務に関する豊かな経験と広いネットワークをもった非アラブ系の人々、特にユダヤ教徒・イラン人・コプト教会派キリスト教徒あるいはインド出身の人々が重要な役割を果たした。」初期の金融ではこういう人たちが活躍したとありました。「(大征服時代に)新しく登場した商人層は、アラビア半島西岸ルートのキャラバン交易に活躍したアラブ系の人々ではなく、ウマイヤ朝政府から異端とされたイバード派商人、アリー派シーアの人々、ユダヤ教・ネストリウス派キリスト教・コプト教会派キリスト教などのズィンミーや、イラン系マワーリーなど。彼らはいずれも強固なコミュニティーの結束力と広域的な情報ネットワークを生かして、資金の出資・運用、情報交換、商品の購入と販売をおこなって、アラブ・イスラム帝国の内外にまたがる国際商業に活躍するようになった。」ともあります。僕たちはイスラーム圏の商業というと、ムスリムがやっていると頭から思いこんでいるのですが、必ずしもそんなふうに考える必要はない。整備されたイスラーム法の枠のなかであれば、この人たちも自由に交易できるし、啓典の民でもある。こういう人たちが初めにネットワークを作ってからアラブ人の商人たちも、そのなかで広がっていったのだとも思います。考えてみれば砂漠でラクダの交易だけをやっていたアラブ人が、急にインド洋に乗り出すというのも変ですね。
最後ですが「11世紀半ばのイスハファーンでは、200軒の両替商」があって「イスハファーンは、ユダヤ教徒の金融活動の中心」(家島1991)だと家島さんの本にありました。金融業イコールムスリムと考える必要は全然ない。ならば、ユダヤ人はムスリムと商売をするときに金利をとって構わないとか。僕たちはアラブ人、ムスリム一色で西アジアを塗り固める必要はないと思いました。
次は、授業プリントの一部を載せました。イスラーム教の誕生からアラブ帝国、アッバース朝ができたくらいまでの部分です。その他イスラームの特徴として、ジハード、イスラーム法のこと、聖職者の存在を認めないこと、ここは授業では強調している。お坊さんみたいな人が出てくるけれど、みんな学者さんであってお坊さんではありませんと必ず言うようにしています。それから商人倫理を重視すること。三浦さんがこの章で書いていることをただ一行にまとめた形で授業で話していました。あとは、「隊商宿、公衆浴場、公衆便所、賃貸アパート、貸店舗などの整備」もワクフにより維持されていると説明しています。
最後は「授業のネタ」です。教師になったばかりのころはイスラームに関する本もあまりなくて、「世界の歴史」シリーズのなかのイスラームに関する叙述などから断片的に勉強していました。じわじわと関連本も増えてきて、私も最近わかってきたこともあるのです。それをざっと載せましたので、使えるところがあれば使ってほしいと思います。すでに知っておられることばかりかもしれませんが。
1.アッラーは神の名ではない。アル・イラーハ(al-ilah)の発音がつまった音で、アルはアルコールとかアルジェブラと同じ定冠詞です。イラーハは一般名詞の神。だから、アル・イラーハはThe Godで「あの神様」。だから、「アッラー以外に神はなし」と授業で言うと、生徒は「アッラーは神のことだろ、神以外に神はないとはどういうこと?」となるのですが、「あの神様以外に神様はいない」と言うとわかりやすいと思います。アッラーが名前ではなくThe Godだと知ったのは、恥ずかしながら10年くらい前です。その前はよくわからずに説明していました。
2.人間は神の奴隷。これはキリスト教の父と子みたいな関係とは全然違う。ちょっと飛躍しますが、こういう発想だと奴隷という言葉の感覚が僕らとは大分違ってくると思う。奴隷王朝とかマムルークとかありますが、僕らが受け取る感覚とは違うだろう。特に、19世紀のアメリカで、鞭で打たれながら働く黒人奴隷のイメージが、生徒は強いから、それとは全然違う奴隷の形があることは知っておくべきだと思います。
3.キリスト教の神様は世界をバンと作ってあとは何をしているのかわからないのですが、イスラームの神の創造は最初の一回だけではなく、瞬間ごとに世界を新しく創造している。一瞬一瞬がイスラーム教徒にとっては断絶した世界。一瞬一瞬に神が作りなおしていると考えているそうです。神様にとっては、この世の中が存在しようがしまいがどうでもいい。一被造物に過ぎない人間がどうなろうと、知ったことではない、という考え方らしいです。にもかかわらず万物が存在しているのは、ひとえにアッラーが慈悲をかけてくれているがためである。だから、今この世に存在しているものは、この一瞬一瞬に存在を許されているので、アッラーを賛美しなければならないという発想になる。これがイスラーム教徒の発想。一瞬一瞬、神が創造しているのであれば、人間の責任や自由をどう考えたらいいのかというのは、イスラームでも論争になったようで、ウマイヤ朝の頃議論になったようですが、どういう結論になっているかはわかりません。僕が読んだ本には書いてありませんでした。
4.イスラームに聖職者はいない。神は隔絶した存在で、人間は皆奴隷なので、神により近い特別な人は一切いませんということで、聖職者はいません。
5.イスラームは聖と俗を区別しない。人間生活の日常茶飯事まで宗教の範囲。生活全部が宗教と言えば言える。この辺は理解しにくいですが、コーランには巡礼の仕方、断食の仕方、礼拝時の体を清める手順、結婚の規則、取引の正しい仕方、契約の結び方、支払いの仕方、借金の仕方、香料の焚き方、挨拶の仕方、女性と同席したときの男性の礼儀作法、老人にたいする思いやりの表し方、つまようじの使い方、トイレの作法。全部が書いてある。だから、つまようじを使うのもトイレに入るのも宗教行事と言えば宗教行事になる。これは不思議だなとずっと思っていましたが、考えてみれば当たり前のことで、アラブ人が国家を形成する前にイスラームによって国家的なものができてしまい、国の法律以前にイスラームがルールを決めたので、後から来た国はそれを乗り越えられない。生活規範もすべて、まずはイスラームのルールが出発点というのはそうだろうと思います。
6.イスラーム法は神の意志の探求だと書いてある本がありました。コーラン、ハディーズに書いていないことは、類推してイスラーム法学者は説を立てていくのですが、それはあくまでも神の意志を探求することであって、人間が勝手に作ることではないということだそうです。ヨーロッパや僕らの発想では、人間の理性が善悪を判断するのですが、イスラームでは人間の理性の判断によるのではなく、神の意志で決まる。物を盗むのが悪いのは、理性や道徳に反するからではなくて、コーランに盗んではダメと書いてあるからダメ。人を殺してはいけないのは、コーランにそう書いてあるから、という発想になります。法学が発展するなかで、4つの学派が生まれますが、その違いはハディーズの信憑性の扱い方。ムハンマドの死後、彼の言行をさまざまな学者が集めるのですが、そのときにどのハディーズが信用できるかできないか、取捨選択がおこなわれて、その扱い方で別れる。もうひとつは、ハディーズとコーランからどのように法を解釈するか、イジュティハードというのですが、その法解釈の違いで学派が分かれてきたようです。先ほども言いましたが、4つの法学派のいずれかの学説にもとづいて出された判決は、いずれも正しいとされる。すごく融通無碍なところがあります。そんなのでいいのか、という話が先ほどありましたが、複数の考え方が存在するときにひとつに決定することは、かえって神の正義に反する恐れがあるとムスリムは考えるそうです。決められないものは決められない、勝手に決めることは神の意志に反する。
7.アダム以来の預言者の宗教はすべてイスラーム。預言者は今までに12万4千人いたそうです。宣教を命じられた預言者を「使徒」と言って、それが313人いる。そのなかで五大使徒と呼ばれるビックファイブが、ムハンマド、アブラハム(イブラヒム)、ムーサー(モーセ)、イエス(イーサー)、ノア(ヌーフ)。コーランにもイエスとマリアは登場しますが、原罪や復活は出てこない。イスラームには原罪はないのです。現実の人間は、悪に染まって堕落してけがれたものではあるけれど、偶然的なけがれであって、原罪のような本質的なけがれではない。努力によって直していけると考えます。現実のこの社会が不義不正の社会であるならば、神の意志に従って正義の社会に作り替えていこうという積極的、建設的な意欲がイスラームのなかには含まれているそうです。
8.ジハードは本来、異教と戦う意味ではなく、努力とか奮闘とか、自分のなかの反宗教的な部分と戦うという意味。
9.ゾロアスター教徒も「啓典の民」だそうです。びっくりしましたが、井筒さんが書いていました。
10.イスラームではすべての人間は神の前に平等であって、父子兄弟も同等。だから権力を巡る血縁の対立が常態で、家の繁栄とか、王朝の永続を願う気持ちはあまりないと、岩村忍さんが書いていました。ちょっと半信半疑ですが、そうなのでしょう。
11.イスラームには組織がない。スーフィー教団も、アルカイダも、ムスリム同胞団などのイスラーム主義グループもそうである。確かにニュースを聞いていると、アルカイダ系と言っていて、アルカイダというカチッとした組織があるわけではなく、外部から勝手にアルカイダと呼んでいるだけです。すべての関係は一対一の関係をベースにネットワークが広がっているだけで、カチッとした組織は存在しない。メンバーも常に流動的だということです。補足ですが、イスラーム法ではすべての経済単位は個人であって、所有権も個人に認めるだけで、本来は法人を認めていない。家とか会社のような法人が財産をもったり商取引をするのは認められていない。今は崩れているみたいですが。交易船を出したりする場合は、パートナーシップで、そのときだけお金を出し合ってする。また、信仰も個人のものす。金曜には集団礼拝が奨励されていて、信者が一斉に集まって礼拝するのですが、そこに遅刻してきた人がいた場合、皆に合わせて動作するかというとそうではなく、自分のペースで勝手に始めるらしい。皆から遅れて終わって、それでオッケイ。集団に合わせるのではなく、あくまでも神と自分の関係だけが大事だそうです。
12.片倉もとこさんが書いていましたが、人間の権力への挑戦がイスラームの歴史だと。空手を習っている生徒は、先生に礼をしません、ということです。
13.ムスリムになるのは簡単。宗教団体も何もないので、ムスリムになろうと思ったらアラビア語で「アッラーは偉大なり、ムハンマドは神の使徒なり」と信者二人の前で唱えればムスリムになります。ムスリムが二人いなければ一人で勝手に唱えれば、あなたはムスリムになれます。
14.イスラーム社会では人の心のなかはわからないと考える。本当はどうなんだと、絶対に追求しない。本心というものはない。それがわかるのは神のみ。だから、楽かもしれません。「お前、本当はどうなんだよ」ということはない。それとつながるのが次です。
15.人間性弱説。人は弱いもの、間違いを起こすものというのが、イスラームの根本。人は誘惑に負けやすい。だから、明日会いましょうねと約束しても、別れ際の挨拶は「神の意志があらば(イン・シャー・アッラー)」。約束の時間にいっても相手は来なくても、それで怒らない。それを前提に社会が組み立てられている。「中東のIBM」というビジネスマンに有名な言葉があって、Iは「イン・シャー・アッラー」神が望むならばで、約束しても「イン・シャー・アッラー」で約束は守られない。次に会ったときに、あの約束はどうなってるねんと言うと、Bで「ブクラ」と言うらしいです。「明日には」という意味です。また約束が破られて、どうなってるんだというとM「マーレイシュ」と言われる。「気にするな」という意味。これがIBM。気楽だな。
16.ストックよりフロー。人・モノ・金、すべて動くことに価値を見いだすのがイスラーム社会で、イスラーム銀行で利子がダメなのは、モノを動かさずに儲けるのが悪いことだからです。最悪徳は、ケチ、吝嗇。一番嫌われます。ハディーズによれば、ムハンマドも財産は使えと言っている。あなたが使った財産こそが本当の財産だ。残しても相続人のものになるだけだから使っちゃえ、とムハンマドは言っている。それが正しいやり方。
17.祈り(サラート)。ムスリムは礼拝のときに何を祈っているかというと、何も祈っていないそうです。呪文を唱えているだけ。宗教はそんなものでしょう。僕らが神社にいって何かをお願いするのは邪道ですね。
18.男女隔離。イスラーム社会では男女隔離が一般的です。大学時代に片倉さんの本を読んでびっくりしたのですが、女性の立場からエジプトにいって民俗学的な研究をしていて、男性の視点とは全然違う。ムスリムびいきのところもあるのですが、女性優位と言えるかも?ということで、見られる自分より見る自分に関心がある。ヴェールをしてしまえば、男からは見られないけれど、自分からはいくらでもじろじろ見ることができる。博物館には「女性の日」があって女性だけが入れる。医師も教師は男女同数います。言われればそうですね。女性専用銀行がある。婦人だけの公園がある。女性専用水泳場がある。そこでは裸で泳いでいるそうです。どの国でも同じかはわかりませんが、エジプトやイランではエレベータで女性と乗り合わせると、男性は降りて女性に譲るとか、デパートで親族の男が女性のために走り回って買い物をしている。イランかどこか忘れましたが、焼き肉パーティになって、男女別々で焼き肉をすることになったときに男たちはほっとした表情で焼き肉をしていたとか。
19.イスラームは公共を尊重する。
20.客人に親切。映画『アラビアのロレンス』の最初の場面で、砂漠の向こうからやってくるラクダに乗ったベドウィンが、水場にやってきて水を飲んだら、ここはうちの部族の水場だと殺されるシーンがあるのですが、そんなことは絶対ないと書いてありました。お客さんは大事にするので、どこの人が来てもお水をあげます。そういう話です。
21.土葬を厳守。日本に来たムスリムが死んでしまって、火葬にして遺体を返すと遺族はめちゃくちゃショックを受けるらしいです。コーランに「神の罰し方で罰するな」とあって、神は劫火でこの世を焼き尽くすので、火で燃やすというのは神の罰し方。だから火葬はとんでもない。日本人なら遺体を切り刻まれるような感覚かな。
22.ハディーズに「人を殺すときには首を切りなさい」とあるそうです。これによると、ISが人質を殺すときに、首を切るのは正しいやり方になるそうです。本当かなと思いますが。
23.クルアーンは第3代カリフ、ウスマーンの時代に初めて本にまとめられた。ウスマーンもムハンマドの同時代人なので、ムハンマドを知っている人たちによってまとめられていることは大事かなと思います。
24.初代正統カリフ、アブー・バクルは、ムハンマドの妻アイーシャの父。アイーシャは9歳でムハンマドと結婚している。へー、と。
25.第4代正統カリフ、アリーは、孤児のムハンマドを育てた叔父アブー・ターリブの息子。だから、二人はたぶん一緒に育っているのですね。そこまで知りませんでした。
26.正統カリフの選出は、推戴・指名・協議・推戴。何のことかというと、正統カリフはムスリムの選挙で選ばれたと書いてある本がいくつかあるのですが、どういうことか具体的にわかりませんでした。今回調べてみると、初代のアブー・バクルはメディナ市民に推戴されてなる。2代目は、初代が指名して決まる。3代目は、2代目が指名した6名が互いに話し合って、そのなかの一人ウスマーンになる。4代目アリーは、また一部の信者が推戴する。このときにウマイヤ朝を立てたムアーウイヤが反発して話し合いをするということがありますが、一応推戴。単純な信者の選挙ではない。ここまで生徒に話す必要はないですが、知っておいたらよいと思いました。
27.資料集の.写真で見るトルコの踊るスーフィー教団は観光ショー。行者は皆アルバイト。ショーが終わったらパッと帰るそうです。ムスタファ・ケマルがトルコを建国したときにスーフィー教団を禁止しているので、一人もスーフィーはいないということです。
28.アラビア語ハリーファが英語のカリフになりました。初代アブー・バクルの正式な称号は「ハリーファ・ラスール・アッラーフ(アッラーの使途の後継者)」、2代目ウマルの称号は「ハリーファ・ハリーファ・ラスール・アッラーフ(アッラーの使途の後継者の後継者)」で、長すぎのであまり呼ばれず、「アミール・アル=ムゥミニーン(信徒たちの司令官)」と呼ばれ、以後実際にはこれがカリフの別称となりました。現在のモロッコ国王の正式称号はこの「アミール・アル=ムゥミニーン(信徒たちの司令官)」、タリバンの最高指導者の称号も「アミール・アル=ムゥミニーン(信徒たちの司令官)」ということです。
29.スンナ派は六信五行、これは授業で教えますが、シーア派は五信十行だそうです。それが何かはめんどくさいのでメモしなかったです。似たような感じのものが5つと10個です。シーア派は面白いのですが、時間がないので触れませんが、井筒俊彦さんの『イスラーム文化』(岩波文庫)の後半でかなりシーア派のことが書いてある。すごく面白くて、わくわくしながら読んだことがあります。ぜひ読んでみてください。
30.ヨーロッパ語のチェック(小切手)の語源はアラビア語のスィッカ。
31.スーフィー修行者をダルヴィーシュというそうです。
32.「イブン・スィーナー」は、ユダヤ人の発音を通じて聞き違えて、ヨーロッパでアヴィケンナ、アヴィチェンナになった。「アヴィセンナ」が一番もとに近い
33.1275年、元朝のフビライが日本に派遣した5人の使節のうち二人はムスリム。これは知らなかった。日本史でも世界史で使えます。
34.サイトゥーンという名前で泉州のことが出てきますが、これはアラビア語でオリーブのことだそうです。オリーブの街路樹でもあったのでしょうか。
35.アッバース朝はササン朝の銀経済圏とビザンツ帝国の金経済圏を統合して、両本位体制でした。貨幣の話がちょっと出てきましたが、アッバース朝以降は金と銀の両方を正貨として使っていた。1ディナール金貨が基本的には10ディルハイム銀貨だったそうですが、時代とともに変化していったようです。
36.ブワイフ朝でイクター制が出てきますが、家島さんの本によると、だんだん銀貨が不足してきて、ブワイフ朝は銀貨建ての俸給を軍人たち支払えなくなったため、イクター制を導入して、「徴税を勝手にして来いよ」という形で俸給を払うのをやめたと書いてありました。いろいろな説があるようですが、一説として紹介しておきます。
37.ヨーロッパで利子の容認は、教会法の体系の外からもたらされた。ゲルマン法とか、そういう方から持ち込んで利子を認めるようになりますが、イスラームはコーランとスンナ(ムハンマドの言行)の無謬性を守りながら現実社会に適用可能な実定法的法規範を導き出した。利子とならないようなギリギリのところでやってきた。例として、AがBに物を売り直ちに代金を支払う。このときにAがBからその物を半年後に買い戻す契約をする。買い戻しの代金は最初の値段よりも高く設定する。モノを売り買いしているので、利子ではないけれど、モノをとってしまえば実際にはお金を借りて返しているのと変わらない。こういう形で抜けていく。これはイスラーム法でも合法だそうです。ほかにもいろいろなやり方がある。
38.近代以前はイスラーム世界の土地の半分くらいがワクフだったと、中田考さんが書いていました。近代以降、イスラーム世界が国民国家システムに取り込まれ、ワクフの国有化が始まった。ワクフの国有化は、宗教が国家の管理下に入ったということで、以後、イスラーム世界全土で宗教の自立性がいちじるしく失われていったということです。僕たちに一番興味ある近代国家とイスラームの関係が書いてありました。現在、エジプトにはワクフ省があって、そこに登録されていない人は説教も禁じられているし、説教の内容をワクフ省の役人が事前にチェックすることもある。本来はウンマが国の上にあるはずなのに、逆転現象がイスラーム世界で起きていく。そしてワクフも荒廃していく。実際には、近代国家になる前、19世紀段階でワクフの荒廃がかなり進んでいたと三浦さんの本に書いてありました。ワクフが設定されているはずなのに無くなっているとか、ワクフの管理人が着服しているとか。20世紀のダマスクスではワクフによって活動中のマドラサは16%しかなくて、あとは廃墟になっていたり、建物だけ残っている。19世紀のカイロでも活動中のマドラサは35%しかなく、残りは廃墟になったり無くなっている。マドラサとはワクフで維持されている学校ですが、荒廃が進んでいたようです。
39.シーア派イランでは、ワクフの管理権を持つウラマーの抵抗で国有化がうまくいかなかった。1978年のイラン革命がウラマーたちによって指導されたり、現在もイスラーム国家としてウラマーによって国が指導していることと通じると思います。
40.中田考さんによれば、現在のイスラーム国家はすべて非イスラーム的だということです。ムスリムは神への服従と、すでに内面化された「領域国民国家」への従属との板挟み状態に陥っている。昔ならばマドラサで、一対一で先生から生徒に伝えられていくイスラームの学問が現在では、現代はイスラームが大学のカリキュラムになることでイスラームの知のレベルが低下している。
41.教義上、ウラマーに信徒の宗教税を管理する権限が認められていたシーア派は、(年限のない伝統的なイスラーム教育制度が)残っている。その結果、42.(現状)何が本当にイスラーム的か、ムスリム自身にもわからない。
43.シーア派第4代イマームであるアリーの生母は、ササン朝最後の王ヤズデギルド3世の娘とされ、それ以降のシーア派イマームには、預言者ムハンマドのアラブ最高の血と、ササン朝王家のイラン最高の血があわせて流れたことになる。
44. イブン・バットゥータはイスラムネットワークを利用して大旅行をします。メッカ巡礼が最初の旅の目的ですが、「メッカの女はまばゆいほど美しい」とあって、たぶんヴェールをしていなかった。シーラーズの女たちは「深靴を履き、マントやヴェイルにくるまって外出するから身体のどこも外に現さない」。地域によって、隠すところとそうではいところがあったようです。それから、インドに着いたときにダマスクスに残した妻に子供が生まれたということを聞いて、インドからダマスクスに金貨を送金している。情報と送金のネットワークがある。為替かなとも思う。インドで8年間カーディー職、裁判官の仕事をしている。彼自身がウラマーなので、法廷で働き稼ぎ、ワクフでお金を調達し、20年にわたって旅をしたのではないか。それから、1350年代、中国で知りあった人物、もしくはその兄弟とモロッコで再会しています。すごく広いネットワークのなかをたくさんの人が移動していた。
ちなみに、彼の旅行記はインドまでは詳しいけれど、中国にいってから帰るまでの記録には細かい日付が載っていないので、その間に関しては少し怪しいという説があるそうです。
45.キャラバン隊の規模についてです。18世紀の半ばですが、クウェートとアレッポ間(1600キロ)をラクダのキャラバン隊は60日から70日で横断して、ラクダの数は2000頭から3000頭というから、僕らの想像を絶する大規模なものが移動していた。参考につけておきました。どこかで使っていただければと思います。
(以下討議、省略)
【参考文献】
『
世界の歴史〈19〉インドと中近東 (河出文庫)
』
岩村忍、1990
『
イスラーム―回教 (岩波新書 青版 333)
』
蒲生礼一、1958
『
イスラーム文化 その根柢にあるもの (岩波文庫)
』
井筒俊彦、1991
『
イスラーム哲学の原像 (岩波新書)
』
井筒俊彦、岩波書店、1980
『
日本でいちばんイスラームを知っている中田考先生に、灘高で同級の勝谷誠彦が教えてもらった! 日本一わかりやすいイスラーム講座
』
中田考、アスコム、2015
『
イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで (講談社選書メチエ)
』
中田考、2001
『
私はなぜイスラーム教徒になったのか
』
中田考、太田出版、2015
『
イスラームの日常世界 (岩波新書)
』
片倉もとこ、1991
『
イスラム飲酒紀行 (講談社文庫)
』
高野秀行、2014
『
世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書
』
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会編、山川出版社、2008
『
世界の歴史〈20〉近代イスラームの挑戦 (中公文庫)
』
山内昌之、2008
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