世界史講義録

世界史アプローチ研究会
『史料から考える 世界史20講』(岩波書店)読書会  2017年3月22日
「17 「義勇軍行進曲」の時代-日中戦争と現代中国-」報告

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高校世界史教師で行っている勉強会での、私の報告です。

テキストとして、 『 史料から考える 世界史二〇講 』を使っています。


本文に沿って説明をさせてもらって、そのあとで補足・解説をするという二段構えで進めさせてもらいます。
   「義勇軍行進曲」という、現在中華人民共和国の国歌にまつわるお話です。まず、聞いていただきたいと思います。オリンピックの時にも流れる曲です。中華人民共和国の建国は1949年なのだけれど、この曲ができたのはそれ以前。国ができてそのあとで国歌を作成するのが順序だと思うのですが、中国の場合は建国以前からこの歌がある。しかも10年以上前の1935年に発表された映画の挿入歌ということで、成り立ちとして非常に面白い国歌です。この国歌の成立にまつわる前後の日中関係をテキストでは紹介しています。ちょうど「義勇軍行進曲」ができたのは満州事変没発4年後、日本が本格的に中国に侵略していく時期と重なると「はじめに」で書いています。
   1では「義勇軍行進曲」の作曲者と作詞者が紹介されています。作曲者は聶耳(じょうじ)(1912~35)。雲南省方面出身で、幼年期から母親の影響でバイオリン、ピアノをやっていたらしい。18歳で上海に出て音楽活動をします。そのころの上海はたくさん映画館があった。ヨーロッパの租界がありヨーロッパ文化がどんどん入っている。映画はまだトーキーになる前で、日本なら弁士がストーリーを説明しながら生演奏が入る。多分中国でもそういう上映方式で、映画館で伴奏音楽を演奏する仕事をしていたらしい。映画館でのバイオリン奏者から作曲へと手を広げていったようです。このテキストには書いてありませんが、1933年に中国共産党に入党したようです。以後35年にかけて30数曲の進歩的大衆歌曲を作曲したという。
   上海の租界は中国国民政府の手がなかなか及びにくいところなので、長らく中国共産党の本部があって、左翼活動が盛んな場所だったのですが、1935年頃に租界の協定が変わって国民政府が租界にも警官を派遣して反政府活動をしている人を逮捕できるようになるのです。それで、左翼系文化人がどんどん国民党当局に逮捕投獄され、獄中死する人も出る中で、「義勇軍行新曲」の作詞をした田漢も逮捕され、次は自分が捕まるという情報を耳にして、国民党の追及を逃れるために日本に亡命というか、日本に渡ってきたらしいです。日本に兄がいたので、それを頼ってきたとこのテキストに書いてありますが、別の本には日本からさらにソ連に亡命する予定だったともありました。共産党に入党していればそういうことになると思います。そして、日本滞在中に映画「風雲児女」の挿入歌であるこの「義勇軍行進曲」を作曲したということです。映画のポスターがこれです。
    映画自体はヒットしなかったと書いてありますが、この歌自体は色々な場所で歌われるようになっていきます。「聶耳は毎日のように築地小劇場の公演や日比谷野外音楽堂の演奏会に足を運び…」とありますから、日本滞在中に、日本の音楽に触れながらこの曲を作ったのだろうと思います。どうやって曲を中国に送ったかはわかりません。このあと、7月に神奈川県湘南海岸で遊泳中溺死したということで、非常に短命です。一時は、国民党のスパイに暗殺されたという噂もあったそうですが、確定的な証拠はなく、結局単なる溺死はないかとされています。湘南海岸は石碑があるそうです。
   作詞者の田漢(1898~1968)は18歳で日本に留学し、足かけ7年間日本で学んだ。東京高等師範学校に入学し、在学中新劇活動に熱中したと触れられています。近代文学、近代劇、アメリカ映画などに触れ、演劇に関心を持ったようです。帰国してから自分の劇団を立ち上げて活動した。この人も共産党に入党したとしている本もありましたので、革命劇のようなものをやっていたと思われます。そういう活動が当局に目をつけられて、1930年、国民政府によって南国(劇)社を解散され、31年逮捕投獄された。投獄中に義勇軍行進曲の歌詞を完成させて、獄中から誰かに託して日本に送った。そんな風に持ち出された歌詞が日本に渡っていた聶耳のもとに届き、曲がつけられ中国に戻ってきた。
   田漢は獄中で転向したそうですが、出獄後も、演劇活動をずっとしている。日中戦争中は日本の占領下に入らなかった武漢、桂林、昆明などで演劇工作をしたといいます。抗日演劇みたいなものをやっていたのではないかと思われますが、詳細は分かりません。
   中華人民共和国成立後も大陸に残って、演劇界の重鎮になったようです。中国演劇家協会主席、中国作家協会理事という肩書ですが、1968 文革で迫害され、死去しました。
   一人は日本で死に、一人は日本に留学して、ということで、日本との関係が深い人によって現在の中国の国歌がつくられた。日本との因縁を感じてもらえればと思います。
   2、「1930年代の日中関係と中国」です。この曲が作られた中国の状況がどうだったか。
   中国市場の動向ということで、民族資本による繊維産業が徐々に発展し、中国国産品のシェアが拡大していった。日本製のシェアが減少し、日本は中国の資本主義の発達に危機感を感じていた。同時に東北地方では、張学良が?介石の傘下に入るのですが、事実上自治を認められていました。張学良は日本からの利権の回収を図っていきます。これが、日本政府や関東軍に危機感を感じさせた。そういう中で日本は満州地方への侵略をおこなっていきます。1931年に満州事変。関東軍が東北地方に進撃し、張学良傘下の中国軍を駆逐して1932年には満州国を成立させます。このあとも戦闘は続くのですが、翌1933年5月31日にタンクー停戦協定が結ばれて、戦闘は終わります。日本軍は長城以北に撤退するけれど、長城以南の蘆台と通州を結ぶラインの東に非武装地帯を設けるという中身です。
   ただ、そのあとも中国支配下の非武装地帯では様ざまな日本側の勢力と中国側との武力衝突などが続き、1935年5月に 天津租界で大規模な反日騒擾が起きます。親日家の中国人が殺害されるなどの事件が起こる中で、日本の支那派遣軍(司令部・天津)が、華北からの中央軍、つまり南京政府麾下の中国軍と国民党機関の撤退を要求します。何かの事件をとらえて、日本が色々な要求を中国側に突きつけるというパタンのひとつです。支那派遣軍は天津に司令部を置く日本軍なのですが、なぜ日本軍がここにいるか。それは義和団事件後、北京議定書で北京近郊に諸外国の軍隊が駐屯することを中国が認めます。それ以来置かれているのがこの派遣軍で、清朝時代は清派遣軍という名前でしたが、辛亥革命以降は支那派遣軍という名前に代わります。ほかの国は撤退するのですが、日本は増強して天津に司令部を置いていたのです。それが、華北からの中国軍の撤退などという要求をして、その翌月、1935年6月に梅津・何応欽協定が結ばれ、中国側は日本の要求を受け入れることになります。河北省内中国軍撤退・国民党機関の閉鎖、排日活動禁止という内容の協定です。何応欽は北京にいた国民政府出張所のトップです。中国側は日本の要求をずるずると受け入れて、後退に次ぐ後退という状況です。
   『風雲女児』がつくられたのは、こういう状況の中です。抗日の意識が盛り上がるなかで作られた。映画のストーリーは日本に抵抗するようなものです。
   このあと、1935年12月には冀東防共自治政府が成立します。これは、河北省東部の非武装地帯に作られた日本の傀儡政府です。日本史の資料集には載っていると思います。万里の長城を越えて日本の傀儡政府がさらにできた。長城の北部は、なかば中国の本土ではないという意識が中国人にはあるのですが、その南に傀儡政府ができるというのは、さらに段階を越えてやられている感覚だと思います。
   この一年後が、西安事件です。冀東防共自治政府ができてしまって、やられたということの一周年に西安事件が起きてくるのも大事かなと思います。
   当時の中国の地図を探したのですが、なかなかなくて、これは台湾政府の地図だと思います。当時河北省の北に熱河省というのがあって、内モンゴルに入っているのですが、ここも日本がモンゴルに侵略する時に紛争の場所になります。北平とありますが、これは北京のことで、南京を首都にするので京の字を使わずに北平と言いました。この通州から蘆台までのラインの北が非武装地帯となり、さらにここに作られた日本の傀儡政府が冀東防共自治政府です。
   これに対して、中国側はどういう動きをしていたのかということです。梅津・何応欽協定が結ばれ、河北省の一部から中国軍が撤退した二ヶ月後に、共産党の八・一宣言が出されます。資料があります。これは授業では絶対触れる。コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけの一環として、中国共産党が統一戦線の呼びかけをしたのだと。「共通の敵が日本であり、中国人どうしが戦っている時ではないのだ」と訴えたと、必ず授業ではいいます。「中国人どうし団結しよう」というものだよと授業で言っているのですが、この二行目で「南京売国政府」とあって、こういう表現をされて協力するわけないと思うのです。僕らが授業で言うのとリアルな言葉遣いは全然違う。共に戦おうと言いながら「南京売国政府」はダメなんだ。あいつらのせいでこうなったんだと。別のところに「?賊」とある。「一方では日本侵略者と?賊が内外から挟撃するからである」。?介石は賊なんですよね。これを読んだ?介石が、共産党と協力しようと思うわけがない。解説している僕と、この文書の響きはかなり食い違っている。本によっては、八・一宣言は?介石を除く中国の人々に統一戦線を呼びかけたと書いていあるものもあって、この文書の解釈は難しい。当時の人々がこれを読んでどう思ったか。?介石が、張学良が、国民政府の支持者たちがどう思ったか。当時の感覚が分からない。教科書に書いてあるように、本当にすべての人々に呼びかけたのかどうかは、ちょっと考えた方がいいかもしれません。ただ、このような形で、「日本と戦いましょう」という方向を共産党はきっちりと打ち出していきます。
   学生の動きとしては、八・一宣言の四ヶ月後、12月に一二・九運動が起こります。冀東防共自治政府にたいする北京の学生による反日デモです。これが全中国的に広がっていく。この時に学生たちが歌ったのが「義勇軍行進曲」です。映画はヒットしなかったけれど、歌だけは広がっていった。
    日本の長城以南への侵略が本格した翌年には民主的人士によって、救国連合会が組織されてます。この1936年11月に上海で在華紡スト。日本資本が経営する上海の紡績工場で大規模なストライキが起き、その扇動の容疑で救国連合会の幹部たちが逮捕される。有名な知識人が多くいたため、この逮捕は大きな衝撃だった。釈放を求める抗日世論が結集した。これが「救国七君子」逮捕事件で、資料紹介があります。
    西安事件で、張学良と楊虎城が自分達の主張を述べた文書には、その理由として「上海で逮捕された愛国指導者を直ちに釈放すること」とあって、これは救国連合会の幹部たちのことです。実際に、西安事件を起こす前に張学良は?介石に直接会って、「『救国七君子』を釈放してください。彼らに罪はありません」と訴えるのですが、?介石は却下します。それが張学良の気持ちを監禁に追い詰めていった原因の一つです。さらに、冀東防共自治政府の一周年にあたり一二・九運動をやっていた学生たちが大規模なデモンストレーションを計画していて、?介石はこれを許さず弾圧し、学生たちに被害が出るはずで、そうはさせたくない張学良は、監禁するしかないと考えた。そして西安事件が起きます。
   張学良が西安事件を起こしたあと、こういう文書を出していたことは知らなかったので、なるほどなと思いました。「救国」というのが当時のキーワードになっていたのだと思います。監禁された蒋介石は、どういう中身か分かりませんが説得工作を受け入れて釈放され、南京に戻る。その後、盧溝橋事件、日中戦争に至るのですが、その前段階の資料が1937.2「赤禍根絶に関する決議案」で、国民政府による対共産党和解条件提示です。このテキストには共産党とも連携すると書かれた文書だとありますが、読めば赤禍根絶に関する文書なんです。非常に屈折した中身で、文書の後半で「紅軍およびその他の名義の武力は徹底的に廃止しなければならない」「いわゆるソヴィエト政府およびその他の統一破壊の組織はすべて徹底的に廃止しなければいけない」「赤化宣伝は根本的に停止しなければならない」「階級闘争は根本的に停止しなければならない」。ということで、紅軍をなくせ、ソヴィエト政府もつぶせ、共産主義の宣伝はするな、階級闘争はやめろ、と言っているのです。これがなぜ共産党と連携する文書なのか。久保さんによれば、だからこれさえやめれば協力しますよという条件なんだということです。しかし条件には読めない。紅軍をなくせば潰されるだろうし。実際には紅軍はなくさないし、延安の解放区はなくさない。これを全然守らないまま、第二次国共合作に入っていくので、解釈や考え方は難しいなと思いながら読みました。中国史は一筋縄ではいかないなという感じがしました。
   3 「義勇軍行進曲」の誕生。曲が生まれた背景が書いてあります。1930年代、上海で映画が普及した。1927年に映画館が26。これが多いかどうかは難しいですが、年平均100本制作は確かにすごい。
   作曲者の聶耳の日記が残っていて、満州事変へ強い関心をもっていたことが分かる。
   田漢は日本にいたころは、ロマン主義、耽美主義の傾向だったのが、徐々に社会主義リアリズムに目覚め「中国左翼作家連盟」で活躍するようになったということです。
  補足ですが、国民革命期以降の都市文化の特色として左翼文芸が非常に人気を得ていた。日本でも大正時期から昭和の初めにかけてプロレタリア文学が非常にはやっていて、共産党のかつての委員長だった宮本顕二と小林秀雄が何かの文学賞を争って、宮本が首席、小林が次点だったことがある。日本でもそうですが、1920年代は左翼文化に勢力があり、人々をひきつけていた時代で、上海は租界もあり、国民政府の弾圧がなかなか及ばないので、左翼系の文化人が集まっている。中国共産党の設立大会も上海で開かれているくらいです。革命文学を訴える人もいて、魯迅もこの時期マルクス主義に接近していたと言われています。茅盾が左翼作家連盟を作っていく。
  国民政府が租界にも警官を派遣できるようになると弾圧が激しくなって、共産党系の文化人は上海から離れて解放区に移り、上海の左翼文化は徐々に衰退したようです。ちょうど満州事変前後にトーキーへの切り替えもあり、戦火で映画界は大打撃を受けるのですが、左翼系の人に映画を作らせるとそれがヒットする。左翼系芸術家らとの提携、交流、制作協力で映画は活性化し田漢脚本『三人のモダンガール』などは大ヒットしたそうです。「中国の流行歌は、国民革命期に北伐軍とともに全国に広まった行進曲「国民革命歌」(フランス唱歌の替え歌)を嚆矢とする。その後、30年代の映画・ラジオ・蓄音機の普及によって都市部を中心にいくつかの流行歌が生まれた。満州事変以来の国難を背景にしたものが多い。」(石川禎浩『革命とナショナリズム1925-1945』岩波新書、2010)という指摘もありました。こういうなかで義勇軍行進曲がはやったということです。左翼系文化の台頭と、満州事変と歌の広がりがセットになっていた。
  4 1930年代日本の中国認識。ということで、1937年盧溝橋事件で日中戦争がはじまります。1938年1月近衛内閣が「国民政府を相手とせず」という見解を出します。日本史の教科書に必ず載っています。僕らが習った時、「戦争相手が?介石の国民政府なのに、相手にせずと言ってしまったがために、停戦交渉や休戦交渉をする芽を摘んでしまった。泥沼の日中戦争を終結する機会を失うことになった近衛の馬鹿な政策」と教わったし、そう教えています。この「声明」資料があります。基本的には、?介石の政府は中国政府ではないのだということです。これに対して、矢内原忠雄「支那問題の所在」が載っています。矢内原は近衛に代表されるような日本人の中国観に反論しているのですが、近衛に代表される考えは何かというと、一言でいえば中国には統一政府なんかないということです。?介石の国民政府は地方政府のひとつで、実質的には統一されていないではないか、ということです。もうひとつ、日本のやり方としては傀儡政権を次々樹立して、支配地を広げていったので、相手と停戦協定を結ぶような手順は初めからないのです。日中戦争開始後も次々に傀儡政府を立てていきます。長家口の蒙疆連合委員会、北京の中華民国臨時政府、南京の中華民国維新政府とか、この南京の政府は汪兆銘以前のものです。傀儡政府を次々と作り、どうせ中国はこんなものだろうという感じだと思います。
  そもそも、戦争ではない。日中戦争と教えているけれど、こう呼ぶのは第二次世界大戦後の呼称であって、当時は北支事変とか支那事変と呼んだ。戦争とは呼んでいません。公式には戦争ではなく、紛争が長引いているだけ。戦争と呼ばなかったのは、いくつか理由がありますが、アメリカが中立条項を設けていて、交戦国には戦略物資を輸出しない。日本が戦争と言ってしまうと、アメリカから石油や鉄が入ってこなくなる可能性がある。あくまでちょっとトラぶっているというポーズで事変と言っている。戦争ではないから停戦はない。だから相手にしないという言い方は整合性がある。正しいとは思わないけれどね。当時はそういう意識でした。この本では、「根底に中国の社会経済の発展と国民政府による政治的統一を認めようとしない日本側の認識」としています。
  一見ばらばらで統一されていないように見えても、じわじわと中国社会は経済的に一体化しつつあるし、国民政府による政治的統一は進んでいると訴えているのが矢内原忠雄「支那問題の所在」で、近衛のような中国観を批判しています。今から遡れば、近衛馬鹿だなと思いますが、当時の視点に立つと矢内原はすごい。本質をつかんでいたのだと思います。僕らが1930年代の日本にいたら、近衛風に見るかなと思ってしまうので。
  最後は資料「国民政府の姿勢」。中国側は国民政府を中心に、共産党、無党派諸人士も抗日戦争に結集していった。抗日を避けていた国民党も「中国国民党は全国を指導し抗戦・建国という大きな任務に従事している。必ず抗戦に勝利し建国を達成しようとするならば、もとより我が同志の努力に依拠するとともに、なによりも全国人民が力を合わせて心を一つにし、ともに責任を負わなければならない」。日本を追い払うためには我が党に結集しなさいと、ちょっと前とは全然違う言い方をしています。以後抗戦が続きました。
  おわりに。「義勇軍行進曲」作者2人とも日本と関係あったと。抗日戦中から多くの国民に歌い継がれ、国民的記憶が込められた歌となった。これが、1949年中華人民共和国の暫定国歌になり、一時は歌詞が変わったこともありましたが、最終的にはもとの形で1982年正式な国歌になりました。
  続けて、補足と解説です。
  「義勇軍行進曲」が国歌となっているのですが、改めてなぜ国歌になっているのか。ほかにも色々な歌があるだろうし、新たな曲を制定することもできた。これには中国共産党一党支配(独裁)の正当性問題が絡んでいると思います。大学で中国史をやったので、第二外国語は中国語だったのです。中国人の先生がいて、中国語のテキストが東方書店のもの。たしか「毛沢東選集」とかを出版している。語学の教科書も、それらと同じ黄色いカバーでした。そのテキストが全部抗日戦争の話なのです。八路軍が暴虐な日本軍といかに勇敢に戦って人々の信頼を勝ち得たか、という話ばかりが載っている。その本で中国語の勉強をした。中国にとって共産党政権は日本と戦うことで勝ち取った政権なのです。そのあと内戦があるけれど、それはおまけみたいなもので、日中戦争中に共産党は国民の信頼を勝ち得ていたのだ。だからこそ国民党を追い払い政権を握り、一党支配できるのだ。それは、困難な戦争を徒手空拳で戦ったからだ。一党独裁の正当性の証明が、日中戦争であり、「義勇軍行進曲」。それが、共産党独裁に直結している。だから、この歌が国歌なのだろう、とつくづく思いました。その中国人の先生はいわゆる華僑で、名古屋の今池に彼の経営している中国料理店があって、そこで一度宴会をやった。それでも共産党政権を指示しているのは意外な感じはした。授業で、「東方紅(トンファンホン)」(毛沢東を讃える歌)も覚えさえられたな。余談でした。
  満州事変以降、日本の侵略に対する国民政府の対応ですが、満州事変が起きた時にソヴィエト地区を包囲攻撃中だったので、日本に対応できなかったと授業ではいいます。?介石のスローガンは「安内攘外」で、内を安んじたあとで、外敵を追い払う。現実に日本を追い払う余裕はなかったと思います。ただ、?介石にとっても他の党派の人にとっても、いかなる国家体制で抗日を実現するのかは、大きな問題だったようです。?介石も日本の侵略に反対しないわけではない。反対しています。当初は柳条湖事件は偶発的な事件でこれだけ長期化するとは思っていなかったようです。実際には、全力挙げても日本を追い払えるかどうか分からない中で、日本の侵略に反対しながら、満州を占領している既成事実を事実上承認しなければならないという矛盾した対応を迫らていました。国民政府は満州国を承認していません。承認していない相手と停戦協定を結べないのです。では何をやったか。タンクー停戦協定を締結していますが、この協定を結んだのは国民政府ではないのです。?介石は華北を割って自治政府を置きます。華北自治政府[北平政務整理委員会と軍事委員会北平分会(委員長代理・何応欽)]を設置し、これ(地方当局の軍)が、東北の「地方当局の軍」である関東軍と交渉する。北京にある地方自治政府が勝手に協定を結んだという形をとる。これは、国民政府が満州国を認めないためには、良い手段だったのですが、日本からすれば自治政府なのだから、これをとっても国民政府は文句は言えないじゃないかということになる。自治政府と交渉して非武装地帯を作らせ、そこに新たな傀儡政権を置く、という形でじわじわと中国を侵略する。梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定も同様で、現地の自治政府と日本軍の現地派遣軍の代表が結んだ協定で、どんどん中国が押し込まれていくのです。
  ?介石にとって内部統一の達成と「国民国家」の建設こそが先決課題でした。だから日本とのトラブルはとにかく避けたいというのが本心だと思います。だから、日本に侵略の口実を与えたくない。そこで、1935年2月、?介石は排日・日貨ボイコットの言論掲載禁止命令を出します。こんな命令をだしたら中国人民から反発を買うのは分かっているのですが、日本からいちゃもんをつけられたくない。そういう板挟みの中で政権運営をしている。同じ年には?介石・汪兆銘連名で排日運動厳禁を訓令している。このあともトラブルがあって日本側が突っ込んでくるので、1935年6月には「邦交敦睦令」を発布します。国内での反日運動を取締るのです。?介石がですよ。また、天皇への不敬言論も禁止です。とにかく、日本から突っ込まれないように、先に防衛線を張って内側を押さえなければならない状況です。ちょうどこの邦交敦睦令がでたあとに、「義勇軍行進曲」ができましたから、この歌には反日の日も、抗日の日も出てきません。だからこそ国歌にできたかもしれませんが。出版物などで「抗日」を文章にするときは伏字になったようです。
   こういう中で西安事件が起きる。当然ですが愛国心をもっている人にとっては「?介石はなにをやっているだ」となります。そういうなかで、西安事件に向かっていく。
   ?介石の権力は確立していたのかということですが、学校で教えていると、孫文が死んだあとは?介石がすぐに権力を握っているように教えてしまいますが、僕らのイメージとはかなり違って?介石の権力は非常に不安定だったようです。上海クーデタのあと武漢と南京に分裂していた国民政府が1927年9月に統合しますが、この時、クーデタを起こし軍権を持っている?介石はダメということで、下野させられます。半年後の翌年1月には復帰するのですが、一時、政務・軍務から完全に離れて日本に遊びに来ます。そうしたら有馬温泉に宋慶麗のお母さんが湯治に来ているのです。?介石はそこに行って、宋美麗と結婚させてくださいと頼んで許可をもらう。?介石が孫文未亡人の妹と結婚したということは授業で話していますが、結婚するのはこのタイミングなんです。お前だめだと下野させられたときに、ようやく宋美麗と結婚して、孫文の義理の弟という地位を確立するのです。だから、彼の権力はかなり不安定。というより、軍権を握っているがゆえに、警戒され嫌われます。
   北伐の後半戦は事実上軍閥をやっつけることなく、各地の軍閥が?介石の配下に下り、かれは各軍閥を傘下に収める大軍閥になっていきます。張学良もその一人ですね。だから、彼のもとでは軍閥は相変わらず争っていて、1929年から31年は「国民党の新軍閥混戦」期と呼ばれていて、?介石と反蒋各派の抗争が激しくなります。1930年に馮玉祥、閻錫山、李宗仁らが汪精衛と組んで「改組派」を作って?介石軍との本格的な内戦が始まります。これを中原大戦というそうです。反蒋介石グループは北平に南京とは別の国民政府を作るのです。閻錫山、汪精衛、馮玉祥、李宗仁らが政府委員となって、南京を抑えている?介石との戦争になる。ただし、張学良が?介石を支持したことで北平の政権は崩壊します。死者30万というから、かなり大規模な内戦だった。このことで、張学良は実質上国民政府のナンバー2となります。それから、中原大戦に勝ったことで蒋介石の実質的な支配地域が、江蘇省と浙江省から河南省・湖北省・湖南省に拡大したということなので、本当に統一はまだされていない感じがする。近衛政府が中国政府はひとつではないと思うのは分かります。
   当時は一党独裁体制、憲法を制定して議会政治をするにはまだ未熟な訓政期であるというのが国民党の判断なのですが、蒋介石は訓政時約法という憲法のようなものを制定して、軍事独裁を固定化しようと図ります。これに対して国民党創設期からの重鎮・立法員長胡漢民が反対したので、蒋介石は彼を軟禁、幽閉します。これに対して胡漢民の地盤だった広東で1931年5月に広東「国民政府」樹立されます。ここに汪精衛、孫科、李宗仁らが結集した。彼らは軍隊を編成して南京の蒋介石に挑もうというそのときに、満州事変が勃発します。どう考えても、蒋介石にとっては日本と戦っているどころではない。広東「国民政府」を作った人々も、国内対立どころではないと考えて南京国民政府と合流するのですが、引き換えに?介石は下野させられます。汪精衛、孫科が国民政府を引き継ぐのですが、やはり能力がないのですね。1932年3月には?介石が復帰しています。
  1933年11月には「福建人民政府」が樹立されています。蒋介石に反対する軍人たちが「反蒋抗日」を主張して作った地方政府です。これは鎮圧されて消えますが(~34.1)。これ以外にも共産党がソヴィエト地区を作っているので、やはり統一はされているとは言えない。
   1934年10月に長征が始まります。共産党がなぜ包囲されながら脱出できたのか不思議だったのですが、包囲している国民党軍は各地から来ていてばらばらなんです。広東省が地盤の陳済棠という軍閥がやる気が全くなくて、共産党は彼と密約して出してもらったようです。陳済棠も日本との戦いを後回しにする蒋介石の方針が気にくわなかったようで、1936年5月に両広事変という反乱を起こします。あちこちで色々なことが起きていますね。
  長征は瑞金脱出後、南方の漢民族と少数民族地域の狭間を逃げていきます。辺境地域を国民政府軍が追っていくのですが、この追撃戦により、国民政府の権力の及ばなかった辺境で基盤強化されたということも書いてありました。
   中国共産党の内実はどうであったか、ということです。この本では共産党の話はあまり出てきませんが、第一次国共合作もその後の武装蜂起路線も全部コミンテルンの指導です。これは授業で説明するのは難しい。ソ連もないし共産党の権威もなかなか分からないと思いますが、コミンテルンがあった頃の各国共産党は全部コミンテルンの支部です。モスクワが本店で、中国共産党は中国支店、日本共産党は日本支店。支店長はモスクワの社長には絶対に逆らえない。たとえば最初の中国共産党のトップは陳独秀ですが、かれは共産党籍を持ったまま国民党に入党するという国共合作方針には反対で、閣外協力的な方向を主張するのですが、本店の指示にやむなく従った。上海クーデタで国共合作がつぶれてしまうと、トカゲのしっぽ切りで陳独秀は書記長を追われる。失敗すると支店長を切って、本店のスターリンは無傷のままです。国共合作崩壊後の武装蜂起も本店の指示でやるのですが、地盤がないので成功するわけはない。あちこちの武装蜂起に失敗して逃げ回っている共産党軍が山にこもり始める。これは本店の指示ではないのですが、山にこもってみたら支配地が広がっていく。ということでソヴィエト地区ができる。できてしまったものはいいかなということで本店も認めていく。
   西安事件の時も、コミンテルンは張学良を非難しまくりです。軍閥が何をばかなことをやっているのだと。スターリンは一貫して蒋介石を支持していて、「?介石がいなかったら中国統一はできない。中国民族民主革命は?介石の肩にかかっている」と考えていたようです。第二次世界大戦がはじまって、コミンテルンが解散するとようやく呪縛が解けて、毛沢東が好きなことができるようになるという流れです。中国共産党史を読んでいると、陳独秀とか李立三とか王明が滅茶苦茶悪い人に書かれているのですが、かわいそう。彼らには責任はないのになあと思います。
   ふたたび「義勇軍行進曲」です。作曲者が日本に来ているので、日本の影響があるのかなということです。東洋の音階はヨナ抜き音階。ファとシがない。日本の伝統的なメロディもそうです。また、團伊久磨によると「ピョンコ節」というリズムが日本人にフィットするそうです。ピョンコ、ピョンコ、ピョンコというリズムです。明治になって西欧音楽を取り入れようということで、文部省が唱歌を作ります。国民国家の形成において、国民が同じように歌える歌も大きな役割をはたすように思われます。日本の場合は、明治政府が作った唱歌がそれにあたる。「ふるさと」とか「あかとんぼ」とか、誰もが知っていて口ずさめる。唱歌を作る時に、スコットランド民謡の「故郷の空」、これもピョンコ節名のですが、こういうリズムとヨナ抜き音階をあわせて唱歌がつくられた。
   聶耳は日本滞在中に日比谷音楽堂に出入りしていたというから、絶対にこういう音楽を耳にしていたと思うのです。「義勇軍行進曲」もピョンコ節ぽいですし、メロディもヨナ抜き音階です。シは一回だけ経過音のような形で出てきますが。唱歌の影響は、積極的に証明はできませんが、否定もできないと思います。
   話がそれますが、文部省唱歌についてです。これは当時の一流の作曲家、作詞家に著作権を放棄することと引き換えにかなり高額の作詞料、作曲料を払って作られました。特徴として、歌の中に決して個人は出てこない。山の景色、海の景色などを歌い込んで、国民国家意識の形成を狙ったのではないでしょうか。
   今回調べた中で気付いた思い込み・勘違いです。
   ・張学良の易幟(1928)は有名ですが、青天白日満地紅旗の前は何の旗か?この中華民国の国旗です(スライド)。五族協和を表した旗だそうです。中華民国の旗が変遷しているのは初めて知りました。
   ・井崗山は中華ソヴィエト共和国臨時政府にはない。ソヴィエト地区は移動していくのですね。最初の根拠地井崗山は中華ソヴィエト共和国臨時政府の領域には入っていません。
   ・「連ソ・容共・労農扶助」は孫文のスローガンか?これは教科書にも載っていて、私は孫文の考えのように紹介していましたがそうではなく、北伐が進む過程で共産党の勢力が拡大すると、国民党の中に共産党に対する排斥意識がひろまりました。それにたいして、共産党が自分たちの立場を守るために、孫文を持ち出して広めたスローガンだということです。
   ・毛沢東は八・一宣言(1935.8)を知らなかった。長征の途中に八・一宣言を出したと、何となく思っていたのですが、毛沢東は全然知らなかった。出したのはモスクワのコミンテルンにいた中国共産党の人々であって、長征途上のひとびとは一切しらない。それはそうですね。逃げ回っている中で、第7回コミンテルンの内容など知ることはできないわけです。長征終了後の翌年に知ったようです。   
 ・長征の到着地は延安ではない。呉起鎮という町に到着した。延安が共産党の支配下にはいるのは、西安事件のあとということです。
   最後におまけのおまけ。コミンテルン第7回大会の写真です。一番右の人が王明で、中国共産党の指導者です。中国とは連絡が取れないけど。一番左がディミトロフ。反ファシズム統一戦線を呼びかけた人。イタリア共産党のトリアッティもいます。世界史では結構有名な人たちです。王明は、第二次世界大戦後中国に帰るのですが、路線が合わずロシアに戻りモスクワで客死しています。
   余談ですが、江青の裁判の時の写真です。毛沢東夫人で文革中はやりたい放題やっていた。元女優にしては、いつもこんな髪型で綺麗にしていない。なぜこんな髪型かな、もっとちゃんとすればいいのにと思っていました。こちらが1930年代の抗日運動をしている女性たちの写真です。髪を切って散切り頭でデモ行進をしているのです。多分これが革命スタイルなんですね。江青は女王様みたいになったけれど、生涯革命スタイルを変えなかったのですね。
   以上で終わります。長々とすみませんでした。
(以下討議、省略)

【参考文献】

革命とナショナリズム――1925-1945〈シリーズ 中国近現代史 3〉 (岩波新書) 』石川禎浩、2010
中国近代の思想文化史 (岩波新書) 』坂元ひろ子、2016
世界の歴史〈27〉自立へ向かうアジア (中公文庫) 』狭間 直樹,長崎 暢子、中央公論新社、1999

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