世界史講義録

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2010年度 世界史B 解答番号1~9

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解答番号1
地図中のa・bの都市の歴史について正しいものを選ぶ。
①劉秀(光武帝)は、aを都として漢を再興した。
②唐の都であったaは、街路によって碁盤目状に区画されていた。
③後漢時代、bの郊外にある竜門に石窟寺院が開かれた。
④三国時代、蜀がbに都を置いた。


aが長安(西安)、bが洛陽であることは、わかりますか。黄河の流れを下流からさかのぼっていくと、途中で二股に分かれいる。北からほぼ直角に流れ込んでくる流れと、まっすぐ西から来る流れがある。この西の流れをさかのぼったところにあるのが長安。北からの流れが合流した下流にあるのが洛陽。簡単に西が長安、東が洛陽ですが、常識として覚えておくこと。大運河と黄河の合流地点に発展したのが開封、c。これも常識。長江沿いにある都市dは、南京、19世紀後半からはもっと下流に上海が発展しますが、それ以前の時代なら長江沿いの都市で入試にでるのは南京だと思っておけばほぼ間違いない。大運河の南の端が杭州。これは少し難易度が高いですが、覚えておくと良いでしょう。
中国の王朝と都の組み合わせは、基本の基本なので、これが出来ないと話にならない。
ただ、都を覚えていても、地図で場所がわかるか?という問題ですね。
①劉秀の後漢は洛陽が都だから、b。aではない。
②唐の都は長安、a。ここは正しい。後半の「碁盤目状に区画」は正しいか?奈良の平安京が長安をまねて碁盤目状に街が作られました、という小学校の知識を覚えていればわかります。
③は後漢でbと組み合わせているが、竜門石窟寺院の話になっている。竜門は後の北魏時代につくられたから、誤り。
④蜀の都は成都。場所は四川省です。aもbも三国時代には魏の領土でした。魏の都がb洛陽。
正解は②。

解答番号2
cの都市について述べた次の文の空欄ア・イに入れる語の組合せとして正しいものを選ぶ・
 11世紀後半、皇帝となった(ア)は、王安石を宰相に抜擢した。王安石は、(イ)・市役法などの「新法」によって、農民や中小商工業者らの生活を守り、国家財政の再建に努めた。

 cの開封は宋の都、上記の文章も宋についてですね。王安石を抜擢したのは神宗。選択肢を見ると①と②が「アー神宗」。イの選択肢は①と③が青苗法、②と④が一条鞭法となっている。一条鞭法は明の税制でした。青苗法は当然王安石の新法です。正解は、①。

解答番号3
地図中のd・eの都市の歴史について正しいものを選ぶ。
①辛亥革命は、革命派がdで蜂起して始まった。
②日本は、汪兆銘にdで親日政権を設立させた。
③司馬睿は、晋を再興してeを都とした。
④蒋介石は、eで張学良に監禁された。

①1911年、辛亥革命のきっかけとなった蜂起は武昌の新軍によって始まりました。武昌蜂起と言います。長江中流の町で、南京よりももっと上流です。
②はそのとおり。日中戦争がはじまると、日本軍は南京を占領します。当時、中華民国国民政府の首都でした。首都南京を占領された国民政府は四川省の重慶に都を遷して対日戦争を継続します。日本軍は、中国を降伏させることが出来ず、長い泥沼の戦いに入る。汪兆銘は国民政府の重鎮で、大物政治家だったのですが、蒋介石とそりが合わず重慶を抜け出してくる。日本はこの汪兆銘を首班にして南京にもう一つの国民政府をつくらせます。この南京国民政府と条約を結んで日本に有利なかたちで戦争を終結させようという魂胆でした。中国人から見れば、汪兆銘は蒋介石と喧嘩して日本に身を売った裏切り者ですから、彼が首班になった南京国民政府は全く中国人の支持を受けることが出来なかった。だから日本の思惑は全く外れた。ようするに、汪兆銘南京国民政府は、満州国と同様日本の傀儡政権だったわけです。
③司馬睿は西晋の皇族で、西晋が滅んだ際に、南に逃れ南京を首都に東晋を建てた。南京は当時は健康と呼ばれていました。eの杭州ではありません。
④この事件は西安事件。したがって場所はa。1936年、延安を根拠地とする中国共産党を討伐するように命じられたのが張学良。彼は東北軍閥張作霖の長男。1928年父張作霖は日本軍の謀略で爆殺され、張学良がその後を嗣いで東北地方の軍閥となるのですが、北伐で北京まで進軍した蒋介石の麾下に入る。これによって、中国国民党・国民政府による中国統一が完了します。その後、東北地方は満州事変で日本によって占領されます。東北軍を率いる張学良は日本と戦いたいのですが、ボスの蒋介石は、日本は後回しでまず中国共産党を潰したい。張学良を、共産党討伐戦の司令官に任命します。張学良は西安に司令部において共産党と戦うことになるのですが、彼は共産党と戦う気が全くない。この前年の1935年に中国共産党は八・一宣言を出していて、全ての中国人が力を合わせて日本の侵略と戦うことを呼びかけていたりして、張学良にとっては、蒋介石の命令をよりも共産党の主張の方がよほど筋が通っているように感じられたのでしょう。張学良があまりにもやる気がないのを見て、蒋介石は督戦、ようするに張学良の尻をたたきに南京から西安にやってきた。ところが、張学良はこの機会に、蒋介石に日本と戦うよう進言しますが、聞き入れてもらえないので、監禁してしまう。一将軍が国の最高指導者を監禁したわけで、クーデタか反逆かということで大きな事件になる。監禁しても蒋介石はうんと言ってくれない、監禁してしまった張学良としては、どうしようもなくなって蒋介石を殺害するとこともあり得たのです。この時の中国共産党の対応なのですが、宿敵蒋介石がいなくなればよいとは考えなかった。蒋介石は共産党を目の敵にして迫害を加え続けている政敵ですが、今蒋介石が死んでしまったら再び中国は分裂状態に陥り、対日戦争の遂行にはかえってマイナスだと考えた。そこで中国共産党の幹部周恩来、この人は中華人民共和国成立後は死ぬまで首相を務めたことでも有名ですが、が西安にやってきて張学良とともに蒋介石の説得に当たった。ここで、どのような話し合いが為されたのかは謎なのですが、結局蒋介石は内戦を停止し対日戦に踏み切ることを約束し、監禁を解かれます。張学良は今度はみずから蒋介石に逮捕されて、死ぬまでの長い軟禁状態におかれることになりました。
 1937年、盧溝橋事件によって日中戦争が始まると、第二次国共合作が成立し、国民党と共産党が協力して抗日戦争を戦うことになるわけです。
 西安事件というのは、日中戦争が始まる直前の中国政治史のクライマックス的な事件という印象です。西安事件で延安から飛んできた周恩来は、蒋介石とはかつて同じ学校で働いていた。1924年、孫文が存命中に第一次国共合作が成立します。このとき孫文はソ連・コミンテルンの協力を受け入れ、広州に黄埔軍官学校を作ります。この学校は軍人養成学校。自前の革命軍を養成しなければ反帝国主義・反軍閥の中国革命は達成できないという考えに基づく学校でした。これまで孫文は軍閥の軍事力に頼って、さんざん煮え湯を飲まされてきたからです。黄埔軍官学校の校長になったのが蒋介石、周恩来は政治部主任でした。国共合作ですから、周恩来は中国共産党員としてこの任務に就いていた。立場は違えど、知らぬなかではなかったから、共産党の代表として西安にやって来たのでしょう。
 正解は②。

解答番号4
 「1392年建国の朝鮮(李朝)は、都を高麗の(ア)から(イ)へ移した。」
この(ア)(イ)に入る語の組合せを選ぶ。
①ア-慶州(金城) イ-漢城
②ア-開城     イ-慶州(金城)
③ア-開城     イ-漢城
④ア-漢城     イ-開城

 朝鮮半島を統一した国は3つあって、新羅、高麗、朝鮮。それぞれの首都は、慶州、開城、漢城。漢城は日本統治下に京城と改称されましたが、独立後はソウルと呼ばれます。
 正解は③。

解答番号5
 朝鮮(李朝)について、正しい文を選ぶ。
①李舜臣が初代国王となった。
②世界最古とされる金属活字が作られた。
③訓民正音(ハングル)が制定された。
④骨品制を採用した。

 各王朝の特徴を覚えているかどうかです。
 建国者は新羅は不明、高麗は王建、朝鮮は李成桂。
 高麗は、金属活字と高麗青磁、高麗版大蔵経が有名。文化・技術水準が高かったのでしょう。モンゴルに服属して、その後滅びるのが高麗。
 朝鮮(李朝)で有名な王様は、初代の李成桂と15世紀の世宗。セジョンと読む。この人が訓民正音を制定した。20世紀になり日本の植民地となって滅んだのも李朝です。李朝は豊臣秀吉の侵略にも苦しめられました。朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれる。このとき亀甲船を率いて日本の水軍を破ったのが李舜臣将軍。ちなみに初代の李成桂は倭寇との戦いで活躍した将軍でした。
 新羅の身分制度を骨品制といいます。高麗、李朝ではともにヤンパン(両班)という貴族階級が支配者でした。
 正解は③。

解答番号6
 18世紀の商業や手工業について述べた文a、bの正誤の組み合わせとして正しいものを選ぶ。

a 中国では、公行という商人組合に外国貿易を管理させた。
b フランス革命でギルドが廃止された。

 イギリス商人が清朝と貿易をしようとしても、広州の特権商人公行を通じてしか取引ができなかった。イギリス製の工業製品綿織物を自由に販売できないため、アヘンの密売で儲けようとしたというのが1840年アヘン戦争の遠因でした。では、このシステムはいつからあったのか?アヘン戦争の前に、イギリスの外交使節が貿易交渉のために清に派遣されいましたね。その最初に出てくるのがマカートニー使節団。これが1792年。何年かずばり覚えていなくても、18世紀の末だったなあ、と思いつけばよいのですが。そうすれば、18世紀にはこのシステムが存在していたことが解る。年表を見ると1757年から清朝は貿易を広州一港に制限していますから、ここからはじまる。したがってaは正しい。
 bはどうか。ギルドは中世における商人たちの組合。自由な競争を疎外して、自分たちで利益を独占しようとした組織です。フランス革命では中世的な封建的特権が次々と廃止されていきましたから、多分ギルドもこの時に廃止されたのではないか、と予想できます。そう予測して教科書を見てみると、ちゃんと「ギルドを廃止」とありました。1790年のこと。
 ①a-正、b-正、が正しい組合せです。

解答番号7
 デフォーについて述べた正しい文を選ぶ。
①「夜警」で市民の姿を描いた。
②『失楽園』を著した。
③万有引力の法則を発見した。
④『ロビンソン=クルーソー』を著した。

文化史の問題。①~④どれも答えられなければいけない。
①はレンブラント。②はミルトン。③はニュートン。④はデフォー。レンブラント以外はイギリス人。17・8世紀の文化で出てくる人たちです。

解答番号8
 「自由貿易や経済活動の自由」の主張にかかわる思想や政策について述べた正しい文を選ぶ。
①アダム=スミスは、経済活動の自由に反対した。
②リスト(フリードリヒ=リスト)は、国家による経済の保護に反対した。
③コブデンとブライトは、穀物法の廃止を主張した。
④イギリス東インド会社は、インド帝国成立後に商業活動を停止した。

 絶対王政の経済理論が重商主義。フランスのコルベールが有名ですが、絶対主義。海外貿易が国家を富ませる、と説きます。これに対して18世紀後半に出てくるのが重農主義。貿易ではなく国内産業が富の源泉だと考えます。また、各国が東インド会社を設立したように重商主義が国家による貿易を念頭に置いているのに対して、重商主義は国家による貿易の規制を批判します。民間人に自由に貿易活動・経済活動をさせるほうがもうかるのだ、という。「自由放任」を主張しました。現代風に言えば、民間活力の利用です。イギリスのアダム=スミスも同じような主張をした。ただし、かれは重商主義ではなく、古典は経済学というグループに分類されます。というか、彼から現代的な意味での経済学が始まったのです。著書は『諸国民の富(国富論)』。
 重商主義からアダム=スミスの古典派経済学が、民間に自由に経済活動をさせて、国家・政府は経済活動に関わるな、規制するなという。これは、18世紀に勃興する市民階級=商工業者の利害にかなっていたのですが、イギリス・フランスに遅れをとったドイツの商工業者が、イギリス・フランスの商工業者と同じ土俵に立って競争すれば、当然遅れをとっている分、不利になる。
 19世紀前半、ドイツの経済学者リストは、遅れた国の経済が発展するためには国家の保護が必要なのだ、と逆に国家の介入を説きました。彼の立場は歴史学派と呼ばれる。1834年のドイツ関税同盟は彼の理論に拠るところが大きい。
 というわけで、①②はまるで反対のことを書いている。誤り。
 ③コブデン、ブライトは反穀物法同盟を結成して、穀物法に反対した。穀物法は、国内の農業を保護するために、輸入穀物に高い関税をかけた法律。こういうやり方を保護貿易という。できるだけ関税を低くして、自由に貿易をさせるのが自由貿易。関税を高くしたり低くしたりして、設定できるのは政府=国家です。つまり、どんな商品に対してどれだけの関税をかけるかというのは、国家の産業政策に関わるわけです。穀物に高い関税をかければ、安いドイツやロシアの穀物も、輸入時に高い関税をかけられて国内での販売価格が高くなる。だから、国内の農業を保護することができる。しかし、外国産穀物をどんどん輸入して儲けたい貿易業者、安い海外の穀物を買いたい都市の消費者にとっては、邪魔な法律です。政府は農業、具体的には地主階級を守るのか、商工業者・都市住民を優遇するのか、これが問題になったのが、穀物法でした。コブデン、ブライトは自由貿易推進の立場から、穀物法に反対して1846年、これを廃止させた。また1840年代にアイルランドでジャガイモ飢饉がおこり、膨大な餓死者が出て、安い穀物の輸入が必要になったことも、穀物法廃止を後押ししました。
 ③は正解。
 ④1857~59年のインド大反乱の最中、1858年に東インド会社は解散させられます。反乱をひきおこした責任をとらされた。このあと、イギリス政府が直接インドを統治します。
 自由貿易の流れのなかで、国家が保護する特権的貿易会社東インド会社は重商主義の遺物みたいなもので、自由に貿易をしたい民間業者にとっては邪魔な存在でした。これ以前の1813年に東インド会社はインドとの貿易独占を廃止、1833年には中国貿易の独占権廃止、1834年には商業活動そのものを停止させられます。じゃあ、イギリス東インド会社は何をやっているのかというと、純然たるインドの統治組織となる。1858年の会社解散まで、インドを支配していたのはイギリスの東インド会社であってイギリス政府ではありませんから、注意してください。

解答番号9
 18・19世紀のマンチェスターについて述べたa、bの正誤の組合せの正しいものを選ぶ。

a 綿工業が発展した。
b 19世紀前半にリヴァプールと鉄道で結ばれた。

 産業革命時期の話ですね。こういう地名が出てきたら必ず地図で確認する癖をつけること。産業革命で急速に発展した都市としてよく出てくるのが、このリヴァプール、マンチェスター、あとバーミンガム。特に、リヴァプールとマンチェスターはセットで覚える。綿工業の町として発展したのがマンチェスター、ここで作られた工業製品を輸出する港町として発展したのがリヴァプール。マンチェスターからリヴァプールまで製品を運ぶために当然鉄道が敷かれた(1830年)。
 ①a-正、b-正、が正解です。

(2012.8.20記)
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