世界史講義録

センター試験を解く
2011年度 世界史B 解答番号15~18

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解答番号15
 帝国主義に関連して、アメリカ合衆国の対外政策を古い順に並べます。
a アメリカ=メキシコ戦争が起こった。
b 門戸開放宣言が出された。
c モンロー宣言が出された。
 aは前に出た「明白な天命」の西部開拓時代のこと。合衆国が領土を西に広げる過程でメキシコの領土を奪うことになって戦争が起きたのでした。これに勝利した合衆国はメキシコからカリフォルニアを獲得しました。1848年のこと。ざっくりと西部開拓は19世紀前半で終わると考えておけばよい。西海岸まで到達した合衆国は次に、さらに西へと太平洋に乗り出します。ペリーが日本に来るのが1853年、日本が幕末期を迎えることになる。
 bは門戸開放と聞いて、何に関連することかわからないと話にならない。これは中国に関する話です。清朝末期、列強帝国主義諸国による中国分割が本格化するのが19世紀末。日清戦争(1894~95)で日本が勝利してからでした。解答番号8のところで触れました。列強が中国から租借地を獲得したり排他的勢力圏を設定する中で、合衆国は出遅れます。出遅れた合衆国が「我が国も仲間に入れてくれー。中国の門を開けてておいてくれー」と言ったのが門戸開放宣言。1899年のことでした。でも、合衆国はその前年にはアメリカ=スペイン(米西)戦争で勝利して、プエルトリコやフィリピンを獲得しているのですがね。
 cモンロー宣言はウィーン体制がらみの事象です。ナポレオンがヨーロッパを支配した時代(だいたい1806年から14年まで)とその後のヨーロッパの政治的混乱を利用して、中南米諸国がスペインから独立した。ベネズエラ、ボリビア。アルゼンチン、チリ、ボリビア、コロンビア、メキシコなどです。ナポレオン没落後、ヨーロッパにウィーン体制という反動的政治体制、各地の自由主義・民族主義的運動を弾圧する体制ができあがります。これが、この間のどさくさ紛れに独立した南米に介入して、再び植民地化する可能性があった。これに対して、アメリカ大統領モンローが、ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸のことにちょっかい出すのははやめてくれ、アメリカもヨーロッパのことには口出ししないから、と言った。難しくは相互不干渉。これがモンロー宣言。1823年のことです。1815年のウィーン体制成立後の出来事と覚えておけばよい。
 従って、順番はc→a→b。

解答番号16
 仏教について正しい文を選択する。
 ①「唐の仏僧である義浄は、インドに赴いた。」正しい。唐代には玄奘と義浄の二人がインドへの往還で問われます。玄奘は陸路でインドに行き、ヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナに厚遇された。帰国してからの著作が「大唐西域記」。義浄は海路で往復しました。著作は「南海寄帰内法伝」。これよりさかのぼること200年、5世紀初めの東晋の僧法顕はグプタ朝時代のインドに赴きました。著作は「仏国記」。これもセットで覚える。
 ②「インドの仏教とイスラーム文化が融合して、ガンダーラ美術が生まれた。」ガンダーラ美術はギリシア文化との融合で生まれたものです。アレクサンドロスの当方遠征軍が中央アジア、現在のアフガニスタン方面に残していったギリシア人の子孫が、クシャーナ朝時代にインドから伝わった仏教に触れて生まれた。クシャーナ朝は、アフガニスタン方面からインド北部を領有していたのです。
 ③「大乗仏教という名称は、上座部仏教の側が与えた蔑称である。」大乗とは、大きな乗り物という意味で、威張ってつけた名前。大きいからみんなが乗れる、みんなが彼岸に渡れる=悟りを開ける=救われる、と自慢した。みんなというのは在家信者のことです。それに対して、大乗仏教側は出家修行者しか悟りを開けない上座部仏教を小乗仏教と呼んで馬鹿にした。上座部仏教は、セイロン島から東南アジア各地に伝わっています。
 ④「チベットに建造されたトプカプ宮殿は、ダライ=ラマの宮殿であった。」トプカプ宮殿はオスマン朝の宮殿。イスタンブルにあります。チベットの宮殿はポタラ宮。どちらかというと雑学ネタ。ダライ=ラマはチベット仏教の最高位にある僧で、事実上チベット人の指導者でした。16世紀にタタール(モンゴル人)のアルタン=ハンが帰依して、ダライ=ラマの称号を与え、以来チベット仏教の最高指導者はダライ=ラマを名乗り続けています。現在はダライ=ラマ14世。中国政府のチベット支配に抗議して亡命、現在はインドで暮らしています。
からそれ以来チベット仏教とタタール(モンゴル人)は提携関係があります。

解答番号17
 a 宋代に、衛所という地方小都市が発展した。
 b 明代に、郷紳と呼ばれる地方有力者が成長した。というaとbの二文の正誤組み合わせ。
 宋代の地方小都市は、草市とか鎮とか呼びます。唐代の終わり頃から、地方の商業が発展してきて市(いち)から都市が発展してきます。これが宋代には草市と呼ばれる。鎮というのは、唐・五代の節度使の軍団が駐屯していた場所から都市になったものです。衛所というのは、明代の軍制である衛所制から、言葉を持ち出して惑わせようとしたのでしょう。
 郷紳は明代・清代における地方有力者、すなわち地主・科挙官僚およびその予備軍・読書人をさします。正しい。
 a誤り、b正しい、で正解は③。

解答番号18
 正しい文を選ぶ。
 ①「殷代に、仏教は弾圧を受けた。」殷は中国最初の王朝。紀元前16世紀~前11世紀という昔のこと。この時代にすでに仏教が存在していたか、存在していても中国に伝わっていたかと考えれば、常識的に違うとわかるでしょう。中国に仏教が伝わったのは、後漢から三国時代くらいと思われます。魏晋南北朝期になれば、中央アジアから渡来僧が中国に訪れるようになるし、先に出てきた法顕がインドに行ったりします。
 ②「明の徐光啓は、キリスト教を排撃した。」明末の官僚徐光啓はマテオ=リッチに影響でカトリックに入信したことで有名です。資料集などには、マテオ=リッチとのツーショットの肖像画が載っている。徐光啓とマテオ=リッチの共著もあります。「崇禎暦書」。二人でユークリッド幾何学の本を翻訳したのが「幾何原本」。徐光啓が一人で書いた農業書「農政全書」も有名です。
 ③「清代に、白蓮教徒は反乱を起こした。」嘉慶白蓮教徒の乱というのがあります。乾隆帝の退位後すぐに勃発しました。だから、これは正しい。ただ、元末にも白蓮教徒の乱が起きているので、それしか知らないと間違える。元末の白蓮教徒の反乱は紅巾の乱とも呼ばれ、朱元璋が参加して明朝を建てることになります。朱元璋は紅巾の乱の白蓮教色を消していきますが。
 ④「前漢の武帝は、焚書坑儒を行った。」焚書坑儒は秦の始皇帝。基礎の基礎です。武帝は董仲舒の献策を容れて儒学を漢学化して五経博士を設置しています。

(2012.6.15記)

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