世界史講義録

センター試験を解く
2011年度 世界史B 解答番号19~22

トップページに戻る

解答番号19
 ユダヤ教やユダヤ系の人々について正しい文を選ぶ。
 ①「『新約聖書』は、ユダヤ教徒にとって聖典である。」ユダヤ教の聖典は、『旧約聖書』。キリスト教が『旧約聖書』+『新約聖書』。ついでに、ゾロアスター教が『アヴェスター』。イスラーム教が『コーラン(クルアーン)』。
 ②「イスラエルは、建国と同時にアラブ諸国の承認を受けた。」この文が第2次世界大戦後の話ということはわかりますか。ユダヤ人はローマ帝国時代まではパレスチナ地方に住んでいましたが、135年、ローマ帝国に抵抗して敗れ、各地に離散します。以後、ユダヤ人は祖国を失った民族となる。普通ならばそういう民族は、移住した土地の人々に同化して次第に消えていくのですが、ユダヤ人はその後2000年以上ユダヤ人としてのアイデンティティを保ち続けました。中世ヨーロッパではしばしば迫害も受けた。国民国家が形成される19世紀になると、「世界各地に散らばっているユダヤ人はパレスチナ地方に帰り、ユダヤ人国家を建国しよう」という主張(シオニズムという)がユダヤ人の中から生まれます。ここまでが、話の第一段階。
 次、第一次世界大戦の話。第一次世界大戦は、英仏露を中心とする連合国軍と、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアという同盟国の戦争でした。主戦場はヨーロッパ戦線。英仏露三国ともドイツとの戦いに全力を注いで、オスマン帝国のある中東地域まで手が回りません。しかし、オスマン帝国を同盟国から脱落させることができれば、ドイツの敗戦は早まる。そこで、開戦二年目の1915年、イギリスはオスマン帝国治下のアラブ人の名家ハーシム家にオスマン政府に対する反乱を要請します。イギリス側はその見返りとして、大戦後のアラブ人国家の独立を約束しました。これがフサイン=マクマホン協定。ところが同じく大戦中の1917年、イギリスはバルフォア宣言で、世界各地のユダヤ人に連合国への資金協力を要請します。ユダヤ人は金融界に大きな影響力を持っていたからです。そしてイギリスは見返りとして、パレスチナ地方へのユダヤ人国家建設を認めました。第一次大戦後、パレスチナ地方には世界各地からユダヤ人が続々と渡ってきましたが、ユダヤ人国家は成立せず、イギリスの委任統治領となり、実質的にイギリスが支配しました。ところが、第二次世界大戦後になって状況が大きく変わります。第二次大戦中、ドイツはユダヤ人を大量虐殺したことは皆さん知っていると思いますが、これがユダヤ人国家建設へ向けての国際的な理解をひろげることになり、国連もユダヤ人国家建設へと動き始めます。ところが国家建設予定地であるパレスチナ地方には、アラブ人が住んでいる。フサイン=マクマホン協定ではアラブ地方にはアラブ人の国が作られるはずでもありました。同じ場所に二つの国ができるはずはない。1947年、国連はパレスチナ分割案を提出し、パレスチナ地方を二つに分けて、ユダヤ人国家とアラブ人国家を作ることを提案しますが、アラブ人側がこの線引きに反対します。そもそも自分たちが住んでいた場所になぜユダヤ人が国を作るのか、という根本的な問題もあります。しかし、ユダヤ人側は国連案に基づいて、翌1948年一方的にユダヤ人国家イスラエルの建国を宣言。パレスチナ地方のアラブ人(以後パレスチナ人)も周囲のアラブ人国家もこれに猛反発したのです。だから、問題文の「アラブ諸国の承認を受けた」は正反対。アラブ諸国はイスラエルと開戦し、第一次中東戦争が始まりました(1948~49)。この戦争はイスラエルが勝利しますが、この過程で多くのパレスチナ人が難民となって周囲のアラブ諸国に避難することとなりました。ユダヤ人は国を得たけれども、パレスチナ人は国を失ったのです。これが現在も続くパレスチナ問題の発端です。以後も、イスラエルと周辺アラブ諸国との戦争は断続的に起こりました。第二次中東戦争(スエズ戦争)(1956)、第三次中東戦争(1967)、第四次中東戦争(1973)です。これらの戦争は、様々な国際問題と絡んでいるのですが、それは各自で調べておいてください。祖国を奪われたパレスチナ人はテロ攻撃によってイスラルに抵抗し、イスラエルがそれに武力報復を加えるといった形で、この地域では紛争が常態化しました。このパレスチナ人の政治組織がPLO(パレスチナ解放戦線)といいます。1964年に結成され、パレスチナ人の事実上の政府となりました。国連に議席も持ちます。アラブ諸国とイスラエルの対立は長く続いたのですが、1977年にアラブ諸国の雄エジプトがイスラエルを承認し、現実路線に舵を切ります。イスラエル建国に反対といっても、すでに30年も存続し、しかもアメリカのバックアップを受けている国家ですから、対立するより認めた上で友好関係を築いた方が得策と判断したのでしょう。エジプトの方針転換は他のアラブ諸国の反発を生みましたが、やがてエジプトに追随する国もあらわれ、1993年には、PLOとイスラエルが相互承認するまでにいたります。とりあえず、お互いの存在を認めるということです。それ以前は、存在を認めないのですから交渉すらできなかったのです。決して友好関係になったわけではなく、現在もその状態が続いています。
 ③「第一次世界大戦中に、ドイツでは、ユダヤ系住民が強制収容所へ送られた。」強制収容所は第二次世界大戦中のことでした。
 ④「ドレフュス事件は、ユダヤ系軍人に対する冤罪事件である。」これは正しい。ドレフュス事件は19世末のフランスの事件。関連事項としては、第三共和制、ブーランジェ事件、文豪ゾラ、ファショダ事件がある。1870年、プロイセン=フランス戦争にフランスは敗れ、皇帝ナポレオン3世は退位し、フランスに第三共和政が成立します。この第三共和政は政権が不安定だったことで知られます。不安定を象徴する事件の一つが、軍部右翼によるクーデタ事件であるブーランジェ事件(1889)。もうひとつがドレフュス事件(1894~99)。ドレフュスはフランスの軍人でしたが、ユダヤ人であるためかスパイ事件の容疑者にされてしまう。有罪判決が出た後に、真犯人が判明するのですが、軍部はメンツにこだわってかユダヤ人差別のためか、ドレフュスの有罪にこだわった。こういう状況の中で、国民的な尊敬を受けていた文豪ゾラが「わたしは弾劾する」という題名で新聞紙上で軍部と反ユダヤ主義を批判しました。以後、ドレフュス事件はフランスの国論を二分する大問題に発展していきます。軍部と政府にたいする国民の信頼が失墜するなかで起きたのが、1898年のファショダ事件です。英仏開戦の直前までいったのに、ぎりぎりでフランスがファショダをイギリスに譲ったのはドレフュス事件によって国がまとまっていなかったからです。最終的に、軍部はドレフュスの無罪は認めませんが、特赦という形で釈放して事件は決着しました。このあと、第三共和政はようやく落ち着いたのでした。

解答番号20
 ヒジュラについて正しいものを選ぶ。
 ①ムハンマドが誕生した。②ムハンマドがメディナ(ヤスリブ)に移住した。③ムハンマドが神から啓示を受けたと自覚した。④ムハンマドが死去した。 ヒジュラ(聖遷)という特殊な呼称があるのは②です。ウンマとかムスリムとかイスラーム独特の用語は要チェックです。

解答番号21
 波線部(≪  ≫で表現)の正しいものを選ぶ。
 ①「≪アイルランド≫の第2次マクドナルド内閣は、財政再建のため、失業保険を削減しようとした。」マクドナルド内閣は第一次大戦後に成立したイギリスの内閣。労働党内閣として有名です。アイルランドの内閣名が試験に出ることはありません。
 ②「1960年代のアメリカ合衆国では、≪ヴェトナム戦争≫の費用が国家財政を圧迫した。」正しい。ヴェトナム戦争(1965~75)は1960年代でよい。
 ③「≪明≫では、丁(人頭)税を土地税に繰り入れて徴収する地丁銀制が行われた。」地丁銀は清。明の税制は一条鞭法。中国歴代王朝の税制、兵制、首都、反乱名など必須暗記用語です。
 ④イギリス支配下のインドの税制を問うて、「領主層を地税納入の責任者とする≪ライッヤトワーリー(ライーヤトワーリー)制≫が行われた。」難しい部類の問題ですが、教科書には載っている。イギリス治下のインドでは二通りの税制が行われて、ひとつが領主に徴税させるザミンダーリー制、もうひとつが農民に土地を保有させて直接徴税するライヤットワーリー制。問題文はザミンダーリー制の説明になっています。

解答番号22
 1793年、フランス革命時に制定された革命暦に関連づけて、16世紀に制定された暦の名と暦の種類の組み合わせを選ぶ問題。グレゴリウス暦かユリウス暦、太陰太陽暦か太陽暦の組み合わせです。
 ユリウス暦は古代ローマ時代にカエサルが制定した暦。カエサルのファーストネーム、ユリウスから名付けられました。古代ローマはエジプトと同じく太陽暦。その太陽暦のユリウス暦を改良したのがグレゴリウス暦。ローマ教皇グレゴリウス13世によって、1582年に制定されました。当然太陽暦。このグレゴリウス13世には日本から赴いた4少年、天正の遣欧使節が謁見しています。答えは②「グレゴリウス暦-太陽暦」。
 太陰太陽暦というのが紛らわしいのですが、江戸時代までの日本やかつての中国・朝鮮で使われていたいわゆる太陰暦です。純粋に太陰暦だけでやっていると、季節がどんどんずれていくので、数年に一度閏月をいれて、季節と暦がずれないようにする。つまり地球の公転周期(太陽の運行)にあわせるので、太陰太陽暦と呼びます。どんどん季節がずれても気にしない純粋の太陰暦もあって、これがイスラーム暦です。

(2012/06/23記)

世界史講義録 トップページに戻る