世界史講義録

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2011年度 世界史B 解答番号23~29

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解答番号23
 フランスの王や王朝についてただしい文を選ぶ。①「カペー朝のフィリップ4世は、三部会を開いた。」これが正しいのですが、確認しておきましょう。フィリップ4世で思い出して欲しい事項はアナーニ事件(1303)、ローマ教皇庁を南仏のアヴィニヨンに移した「教皇のバビロン捕囚(1309~77)」です。フランスの王権が強化され、ローマ教会より優位に立った王です。フィリップ4世はアナーニ事件で教皇を敵に回す前に、国内の諸侯や都市の支持をあらかじめ取り付けておきました。そのために開かれたのが三部会です。この230年前に神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世と争った際に(叙任権闘争)、国内の諸侯に背かれて教皇に屈服したカノッサの屈辱(1077)の二の舞を避けたかったのです。「フィリップ4世→三部会」は正しいのですが、こういう問題の時は、カペー朝でよかったのかな、とここも確認。
 フランスの王朝は、カペー朝→ヴァロワ朝→ブルポン朝と変遷します(フランス革命まで)。カペー朝はパリ伯ユーグ=カペーによって開かれました。フランク王国が3分割され、カロリング家の王統が途絶えたのち987年にはじまります。10世紀の終わり頃と覚えておけばよい。さて、カペー朝がヴァロワ朝に代わったのはいつなのか。覚えていなくても、参考になるのが百年戦争です。百年戦争の終結は1453年。この年は、オスマン帝国がビザンツ(東ローマ)帝国を滅ぼした年でもあるので必ず覚える。イシゴミと語呂合わせで覚える。百年戦争は、カペー朝断絶後にヴァロワ家がフランス王位を継承したのに対して、イギリス王エドワード3世が異議を唱えてはじまったのでしたから、1453年の約百年前、1350年頃だとわかります(実際には1339年)。フィリップ4世はカペー朝でオーケーですね。ブルボン朝はユグノー戦争中のアンリ4世からはじまります(1589)。この年代を暗記していなくても、アンリ4世-ナントの王令-1598年を覚えていれば見当がつきます。
 ②「フランス革命後、ヴァロワ朝が復活した。」ヴァロワ朝はとっくに消えています。復活するのはブルボン朝。
 ③「ルイ=フィリップは、七月革命によって廃位された。」フランス革命~ナポレオン没落後に復活したブルボン朝の王はルイ18世とシャルル10世。シャルル10世が廃位されたのが七月革命(1830)で、代わりに即位したのがオルレアン家のルイ=フィリップ。七月王政という。ルイ=フィリップは二月革命(1848)で退位し、フランスは共和政に移行しオルレアン朝は一代限りで終わりました。
 ④「フランソワ1世は、神聖ローマ皇帝オットー1世と対立した。」フランソワ1世と対立した神聖ローマ皇帝はカール5世。オットー1世は東フランクの王で、教皇から戴冠され(962)、以後東フランク(ドイツ)王=神聖ローマ皇帝となった発端の人。時代は10世紀。この頃の西フランク王が誰かは教科書には出てきません(系図を見るとロタールという人。覚える必要なし)。

解答番号24
 19・20世紀の農業・農民について誤っている文を選ぶ。
 ①「プロイセンで、シュタイン・ハルデンベルクらの改革によって農民解放(農奴解放)が行われた。」シュタイン・ハルデンベルクらの改革ときたら、すぐにナポレオン戦争と結びつかなければならない。ティルジット条約(1807)でナポレオンに屈服したプロイセンは、封建的な古い体質を改め近代的な国民国家を作る必要性を自覚します。そしてシュタイン・ハルデンベルク二人の主導で自由主義的改革を行ったのです(プロイセン改革)。この結果、プロイセン軍も強化され、ワーテルローの戦いではナポレオン軍を破るのに大いに活躍したのでした。
 ②「ロシアで、ストルイピンがミール(農村共同体)を保護しようとした。」ストルイピンは日露戦争後にロシアの首相となった人物で、ミール(農村共同体)を解体して、自作農を育成しようとしました。問題文は逆です。ちなみに、ストルイピンの試みは失敗に終わりました。
 ③「アメリカ合衆国で、ホームステッド法(自営農地法)が制定され、西部開拓が促された。」ホームステッド法は1862年。農民などが西部を開拓して5年間その土地に定住すれば土地をただで与える法律です。西部開拓を促したとされる。また、この法律は、南北戦争(1861~65)のさなかに出されたことにも注意。合衆国政府(北部)はこの法律で西部諸州の支持を取り付けようとしたのです。  ④「イギリスでは、第3回選挙法改正によって,農業労働者に選挙権が与えられた。」そのとおりです。1884年の第3回選挙法改正は自由党のグラッドストン内閣と結びつけて覚える。グラッドストン内閣は、教育法(1870)や労働組合法(1871)で民主化をすすめた。国内で民主化を進める一方、グラッドストンと交代で内閣を組織した保守党のディズレーリは帝国主義政策をすすめた。ともにヴィクトリア女王の時代です。第1回から第4回までの選挙法改正は各自見直し整理しておくこと。

解答番号25
 a、b各文の正誤の組み合わせ。
 a 「李時珍が『崇禎暦書』を編纂した。」明代の文化を覚えているか。李時珍は『本草綱目』。『崇禎暦書』はマテオ=リッチと徐光啓。
 b「授時暦はイスラーム天文学の影響を受けて作られた。」授時暦は郭守敬。元代の人。イスラーム天文学の影響はその通り。
 答えは③のa-誤、b-正。

解答番号26
 「中華民国」にかんして正しい文を選ぶ。
①中国義勇軍を朝鮮に派遣した。
②アメリカ合衆国と望厦条約を結んだ
③南京で成立した。
④科挙を廃止した。
 ざっと見ると、③か④で迷う。科挙は清朝最末期の1905年に廃止されています。1911年に辛亥革命が起こり清朝は滅亡、1912年、中華民国が南京で成立しました。だから、正解は③。ちなみに袁世凱が大総統になると首都を北京に移します。以後、軍閥割拠時代の首都は北京。一方、1921年孫文が広東に建てた地方政権が、1925年五・三○事件による民族運動の高揚を背景に広州国民政府となります。国民政府は北伐の過程で首都を南京に移し、北伐完了後も中華民国国民政府の首都は南京です。日中戦争で日本軍が南京を占領すると(1937年)国民政府は首都を重慶に移して対日抗戦を続けました。
 第二次世界大戦(中国では日中戦争)が終わると、中国では内戦が始まります。国民政府と中国共産党の戦いです。中国共産党は抗日戦争中に日本軍と戦いながら解放区を拡大し大きな勢力となっていたのです。国民政府は事実上蒋介石率いる中国国民党の一党支配体制なので、この内戦を国共内戦という。国は国民党、共は共産党のこと。内戦は中国共産党の勝利に終わり(1949年)、中国大陸には中国共産党の支配する中華人民共和国が成立しました。敗れた国民政府(中国国民党)は台湾に逃れ、ここで政権を存続させます。これが現在の台湾。
 中華人民共和国は社会主義政権であるため、アメリカ合衆国はこの政権を認めず、敵視しました。台湾島しか支配していない中華民国が中国代表政府として国連に議席を持つ時代がその後長く続き(1971年まで)、日本でも中国といえば台湾政府であり、大陸の中華人民共和国とは国交がなかったのです(日中国交回復は1972年)。
 建国直後の中華人民共和国は、アメリカの支援を受けた台湾(中華民国・国民党)が、大陸に侵攻してくるのではないかとぴりぴりしていたと思われます。そんな建国翌年(1950年)、朝鮮半島で朝鮮戦争が起こる。北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はソ連の支援を受けて建てられた社会主義国家、南の大韓民国はアメリカの支援で建てられた国です。アメリカ軍は国連軍として韓国を支援してこの戦争に軍隊を派遣し、一時は北朝鮮を中朝国境まで追い詰めました。このまま北朝鮮が滅んだら、アメリカ軍が国境を越えて中国に侵入する可能性もある。北朝鮮を守らなければならない、ということで、中国から義勇軍が朝鮮半島に派遣されました(1950)。戦争はその後膠着状態となり、開戦前の国境で停戦協定が結ばれ現在に至っています。ということで、①は中華人民共和国の話。
 ②は清朝、アヘン戦争、南京条約にまつわる話。1844年に南京条約と同じような内容で結ばれた不平等条約です。

解答番号27
 「プロレタリア文化大革命」について適当な文を選ぶ。
①劉少奇が、「実権派(走資派)」として批判された。
②この革命に抵抗して、紅衛兵が組織された。
③この革命収束後に、中ソ論争が始まった。
④「土地に関する布告」が出された。
 1949年に建国された中華人民共和国の歴史を理解している必要があります。中国共産党では1930年代から毛沢東が主導権を握り、抗日戦と国共内戦を指導して共産党を勝利に導き、中華人民共和国の国家主席に就任します。ところが、建国後の社会主義国家建設では現実を無視した理想論を振りかざす傾向が強くなります。その一つが1958年から始まる「大躍進」運動で、これは何かというと農業工業の増産政策です。農村では農民は人民公社という組織に組み込まれ、農業の集団化が進められました。「大躍進」というスローガンとは裏腹に生産現場の実態を無視した計画だったため、経済は大混乱に陥りました。ノルマを達成するために使えないような粗悪な鉄を大量に作ったことは有名です。運の悪いことに自然災害も重なって餓死者まで出た。こんな経済政策がうまくいかないとわかっていても、毛沢東が建国の大功労者であったために、彼の主張する政策には反対しにくい風潮があり、これがまた被害を大きくした。
 最終的には毛沢東は「大躍進」政策の誤りを認めて、国家主席を辞め、代わって1959年から劉少奇が国家主席に就任します。彼は、経済の立て直しを図るために市場経済を一部導入し、経済は徐々に回復していきました。
 この劉少奇が失脚するのが1968年なのですが、この原因となったのがプロレタリア文化大革命です。長ったらしいので普通は略して文革と言っています。文革については、現在も尚よくわからないことが多いのですが(私にとっては)、表面的には学生や若者による反権力・反権威闘争です。文革の最高潮期である1968年69年は、世界的にスチューデントパワーが爆発した「若者の反乱」の季節で、アメリカのベトナム反戦運動、パリの学生による五月革命、日本でも学生運動が盛り上がり東大の入試が中止になったりもした。全共闘とか全学連とかいう学生組織の名前を耳にしたことはあるでしょうか?文革はそういう世界的な動きと同期していたので、世界各国の左派的な人々には共感を呼んだ面もありました。文革に参加した中国の若者は紅衛兵と呼ばれましたが、彼らは「造反有理(反抗するには理由がある)」と叫んで、あらゆる権威に楯突きました。失脚していた毛沢東は、彼らの運動を支持します。紅衛兵が紅い表紙の『毛沢東語録』を振りかざしている姿は印象的でしたね。彼らは、学校の教師、地域の実力者などを打倒していき、最終的に標的となったのが劉少奇でした。彼の政策が資本主義的=「実権派」「走資派」であるとして批判し、ついには国家主席の座から引きずり下ろしました。その後には、文革派を率いた毛沢東が権力の座に返り咲いた。この結果だけから判断すれば、文革は毛沢東によって仕組まれた奪権闘争という解釈もできます。これは有力な説で、こういう考えもあり得るとは思います。ただ、文革派も沢山のグループに分かれていて、武装闘争を繰り返しており、死者数百万ともいう。一体全体、文革とは何だったのかという全体像はまだ解明されているとは言えないでしょう。1976年に毛沢東が死去し、文革は終わりました。現在の中国政府は文革期を「内乱の10年」と呼んでいます。文革終了後、事実上中国の最高権力者となったのが鄧小平です。鄧小平は、劉少奇時代に彼とともに市場経済の導入をはかり、文革によって失脚していたのでしたが、文革期を生き延び復活を遂げたのです(劉少奇は1969年に獄死)。鄧小平は「白いネコでも黒いネコでもネズミを捕るのはいいネコだ」と言って、経済発展を最優先して大胆に市場経済を導入しました。その路線が現在も続いて、今日の中国の経済発展があるわけです。
 というわけで①は正しく、②は誤り。紅衛兵は「この革命に『抵抗して』」ではありません。
 ③中ソ論争というのも、建国直後の中国にとっては大きな事件でした。中華人民共和国は先輩の社会主義国であるソ連からの技術援助を受けながら国家建設を進めていましたが、1956年ソ連共産党第20回大会でフルシチョフがスターリン批判をしてから、両国の関係がギクシャクし始めます。ソ連は1953年に死去した独裁者スターリンを批判することで、アメリカとの関係を改善を模索しはじめたのです。平和共存政策です。中国は、これが気にくわない。なぜならば、アメリカは台湾政府を支持し、中華人民共和国を敵視しているからです。中国を敵視するアメリカと平和に共存するというソ連の政策を認めるわけにはいかない。この対立が、中国とソ連両国の社会主義国家建設をめぐる路線論争というかたちで表れます。毛沢東が「大躍進」という無理な経済政策をおこなったのも、ソ連の援助なしでもできるところを見せてやろう、という面があったわけです。年表的には中ソ論争が公然化するのは1960年。文革の前です。中ソ論争が始まるまでは、社会主義諸国の間には一切の対立はなく、一枚岩であるというのが常識だったので、社会主義国同士がどちらが正しいか言い争っているというだけでも大きなニュースでした。
 ④「土地に関する布告」というコトバを見ただけで、「ああ、これは1917年ロシアの十一月革命だな」と、ピンときて欲しいですね。十一月革命で権力を握ったロシア・ソヴィエト政権は全交戦国に対して「平和に関する布告」を出し即時停戦を呼びかけ、「土地に関する布告」で地主の土地の没収を宣言しました。というわけで、中国ではなくソ連のお話し。

解答番号28
 ウイグルに関して正しいものを選ぶ。
①「西遼(カラ=キタイ)を滅ぼした。」
 これはナイマンもしくはモンゴルでウイグルではない。西遼は1211年ナイマンに国を乗っ取られます。これが西遼滅亡とすると滅ぼしたのはナイマン。そのごナイマンが乗っ取った西遼をモンゴルが滅ぼす。どっちにしてもウイグルではありません。
②「ササン朝と結んでエフタルを滅ぼした。」これは突厥です。
③「安史の乱の際、唐に援軍を送った。」これがウイグル。
④燕雲十六州を領有した。
これは契丹。五代十国時代に石敬トウ(王に唐)が、契丹軍の力を借りて後晋を建国したさいに、見返りとして燕雲十六州を契丹に与えました。

解答番号29
 世界史上の商業・交易について誤っているものを選ぶ。
①宋は、海上交易を管理するため、市舶司を設置した。
②中世のシャンパーニュ地方では、大規模な定期市が開かれた。
③明代に、山西商人や徽州(新安)商人が活躍した。
④アメリカ合衆国・カナダ・キューバは、北米自由貿易協定(NAFTA)を結んだ。
 ざっと見て④のキューバに違和感を感じるかどうかです。キューバは社会主義国。冷戦期の1962年にはソ連がキューバにミサイル基地を建設しようとして、米ソが核戦争直前までいったキューバ危機は有名です。ソ連の社会主義が崩壊した後も、キューバは社会主義政策をとりつづけています。社会主義国がアメリカと自由貿易協定を結ぶはずはない(今のところは)。とくに、アメリカは「自国の裏庭」カリブ海に浮かぶ社会主義国キューバを目の敵にしていますから。
 ちなみに、現在も存続している社会主義国は、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ベトナム社会主義共和国、キューバ共和国。

(2012/07/1記)

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