世界史講義録

センター試験を解く
2011年度 世界史B 解答番号5~8

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解答番号5
 正誤の組み合わせ問題で、aは「グーテンベルクが13世紀に活版印刷術を改良・実用化」。活版印刷がルネサンスの三大発明の一つであることを覚えていれば誤りと判断できるでしょう。ルネサンスはいつ頃かというと、結構幅が広くて14世紀から16世紀くらい。しかし、この際1500年前後と覚えておこう。ルネサンス、大航海時代、宗教改革は同時進行と考えてよい。コロンブスのアメリカ到達が1492年。これは、「コロンブス到着したのはイシのクニ」とか、語呂合わせでとにかく覚える。マゼラン艦隊の航海が1519年から22年。ルターの宗教改革が始まるのが1517年。レオナルド=ダ=ヴィンチが「最後の晩餐」を作成したのが1495年から98年、「モナリザ」の作成が1503年ころ。これは別に覚える必要はありませんが、1500年前後にいろいろ有名な事件が集中している。
 グーテンベルクの活発印刷術は1445年頃ですから、1500年前後と考えていい。これがルネサンスのおおざっぱな時代のつかみ方。そうすると、問題文の13世紀は「ちょっと早いな」と気が付くはずです。
 bでは「秦の蔡倫が、製紙法を改良」とある。蔡倫は後漢の人。宦官でした。これは覚えておくしかない。ただ、これを覚えていなくても、aが解れば、四択から③④の二択に絞れます。正解は両方誤の④です。

解答番号6
 並べ替え問題。aがチャールズ1世の処刑、bがクロムウェルの航海法発布、cが議会による権利の請願の提出。
 イギリス革命の流れが理解できているかを問うているわけですね。チャールズ1世の処刑後に、共和政となりクロムウェルの独裁が行われたというのは基礎的な知識ですから、a→bはすぐに解る。ちょっと紛らわしいのが権利の請願。イギリス革命には、権利の請願、権利の宣言、権利の章典、と紛らわしい語句が3つあるからです。
 簡単にイギリス革命の流れをおさらいしておくと、エリザベス1世が死去して、次の王をスコットランドから迎えることになった。これがスチュアート朝のジェームズ1世。彼は王権神授説を信奉し、絶対主義、絶対王政をめざす。その専制的な政治姿勢は、議会との対立を招いたのでした。ジェームズ1世の息子チャールズ1世も同様の政治姿勢だったため、議会は権利の請願を提出し、議会と国民の権利の尊重を求めた(1628)。しかし王は議会を解散してこれに対抗し、王と議会の対立は続くことになる。議会の中心的な勢力がジェントリと呼ばれる階層で、非貴族の地主勢力。イギリスの社会・経済の中核であり、囲い込みをおこなったのも彼らです。ジェントリにはピューリタン(カルヴァン派)が多くいたので、彼らが中心となったイギリス革命をピューリタン革命と呼ぶこともあります。
 やがてスコットランド反乱に対処するための費用調達で、王と議会は徹底的に対立し、1642年、王党派と議会派の武力衝突が始まり、敗れたチャールズ1世は1649年、議会派に捕らえられ処刑された。議会派のリーダーとなっていたのがクロムウェルで、彼は王を置かず自らが死ぬまで独裁政治を行った。クロムウェル時代に制定された法律が航海法。
 クロムウェルの死後、処刑されたチャールズ1世の息子チャールズ2世が即位しますが(王政復古)、彼も議会と対立して、議会は審査法(1673)や人身保護法(1679)を制定して王に対抗します。チャールズ2世が死んで、弟のジェームズ2世が即位しますが、これも議会と対立。ついに議会はジェームズ2世を追放を計画し、これを知ったジェームズはチャールズ1世の二の舞になるのを恐れてか、自ら亡命したのでした。これが名誉革命と呼ばれる事件で、新たな王として、オランダからオランダ総督のウィレムとその妻メアリが招かれました。メアリはジェームズ2世の娘です。ウィレムは、ネーデルラント独立戦争の指導者オラニエ公ウィレムの弟の孫。
 ウィレムとメアリは、イギリス王位につきそれぞれウィリアム3世、メアリ2世と呼ばれます。彼らは即位にあたって、議会の出した権利の宣言を承認し、これを権利の章典として制定したのでした。議会と国民の権利を守ることを約束したわけです。
 したがってcの権利の請願はチャールズ1世処刑の前。正解は⑤c→a→bとなります。

解答番号7
 正しいものを選ぶ問題。①「モールスは、電信機を発明した」これは正解。電話が発明される前の通信方法が電信で、ツー・トンという長短音の組み合わせで特定の文字を伝えたモールス信号は有名です。
 ②アークライトは無線電信を発明したとあるが、無線電信はイタリアのマルコーニの発明。アークライトという名前では、産業革命がピンと来て欲しい。1769年に水力紡績機を発明したのでした。ジョン=ケイ、ハーグリーヴズ、アークライト、クロンプトン、カートライトといった産業革命定番の発明家とその発明品は再確認しておいてください。彼らはすべて綿織物工業に関わる機械を発明しました。
 ③「19世紀後半に、アメリカ合衆国でラジオ放送が開始」。これは迷う人も多いと思います。教科書では「アメリカの繁栄」という項目があって、アメリカ大衆文化の発展ぶり、つまり、ラジオ放送開始や、映画、自家用自動車の普及取りあげられています。時代は1920年代。第一次大戦後のことです。第一次世界大戦は、ドイツを中心とした同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国が戦った。1914年から1918年までの戦争でした。主戦場はヨーロッパであり、参戦したヨーロッパ諸国は勝った側も負けた側も戦争終了時にはぼろぼろになっていました。はじめは中立で、途中から大戦に参加したアメリカは、国土は戦場にならず参戦期間も短かったため、戦争のダメージは少なく、戦後は世界最大の債権国に躍り出ました。世界で最も豊かで繁栄する国にとなったのです。相対的には、現在のアメリカと比べものにならないくらい飛び抜けて豊かだった。その恩恵は一般民衆にも及び、さまざまな大衆文化が花開いた。ラジオ放送もその一つでした。ウォルト・ディズニーによるミッキーマウスの登場もこの時代です。
 ④「20世紀前半に、インターネットが普及した」それは早すぎます。今のようにパソコンが一気に広がったのは、マイクロソフト社のオペレーションソフトであるウィンドウズ95の発売からでした。インターネット普及はそれと同時進行。95は、1995年を表していて、その後ウィンドウズ98、ウィンドウズ2000などとバージョンアップして、現在はウインドウズ7(セブン)。ウィンドウズ95を知らない人たちが大学受験するようになったから、こんな問題が出てきたのですね。

解答番号8
 誤っている文を選ぶ問題。
 ①はアメリカ合衆国で、西部開拓を進める際に「マニフェスト=デスティニー(明白な天命)が主張されたという文。これは正しいですね。東海岸沿いの13植民地=13州から出発したアメリカ合衆国は、大陸西部の土地をスペインとの戦争やフランスからの買収などで手に入れて、領土を西へ拡大します。その際には、先住民であるネイティブ=アメリカンの人々を追いたてていく。「他国と戦争をしたり、先住民を追いやってまで領土を拡大すべきなのか?」と自問して「いいのだ」と自答する。なぜなら文明を未開地に広げるのは神から与えられた使命なのだから、それは明白な天命なのだ!と言ったわけです。
 時期的には1840年代。48年にカリフォルニアを領土に加えて太平洋岸に達しました。
 ②インドでは国民会議派が「スワデーシ」や「スワラージ」を掲げてイギリスの支配に対抗した。これも正しい。
 インド近代史の流れをざっと見ておきましょう。イギリス東インド会社に支配されたインドは、1857年のインド大反乱でイギリスと戦いましたが、1859年には反乱は最終的に鎮圧され、イギリス政府はインド直接統治に乗り出します。それまでは、イギリス政府ではなくイギリス東インド会社が統治していたことにも注意しておきましょう。イギリスは、1877年にはインド帝国を編成し、ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位した。インド帝国はイギリスがインドを支配する国です。ごく少数の高級官僚がイギリスからやって来てインドを支配した。インド人の協力を得た方がインド統治はやりやすい。そこで、イギリスは、イギリスに協力的なインド人を集めてインド国民会議を作らせた(1885年)。インド人の上層階級には、イギリスに留学してイギリス流の教育を身につけて、イギリス支配に協力することが、インド人の福利につながると考える人々もいて、そんな人々がインド国民会議に集いました。医師、弁護士、ジャーナリストなどです。
 こうして親イギリス的なインド人エリートの集まりとしてインド国民会議はスタートするのですが、その親イギリス的な姿勢はやがて変化します。その大きなきっかけになったのが日露戦争(1904~05年)。この戦争における日本の勝利は、アジア人のヨーロッパ人に対する勝利、有色人種の白人に対する勝利として、ヨーロッパ列強に抑圧されていたアジア諸民族には受けとめられました。自分たちは劣っており、優秀なヨーロッパ人には適わないと思っていたアジア各地諸民族が自信を持ちはじめ、民族運動が高揚するのです。インドはその代表的な地域で、民衆の反英運動が盛り上がる。これを抑え込むために、イギリス側は1905年、ベンガル分割令という法律を発表してインド民族運動の弾圧をはかるのですが、これに対してティラクの指導のもとインド国民会議が反英姿勢を明確にします。
 1906年、インド国民会議はカルカッタ大会を開いて4綱領を採択しました。それが英貨排斥(イギリス製品不買)、スワデーシー(国産品愛用)、スワラージ(自治)、民族教育推進です。インド国民会議の指導の下、インド民族運動はますます活発になっていきました。
 インド独立運動は、第一次世界大戦を挟んで、なお曲折を経ていきますが、カルカッタ大会と並んで、1929年のラホール大会も覚えておくこと。ラホール大会ではプールナ=スワラージ(完全な独立)が方針とされます。カルカッタ大会のスワラージよりも要求が高くなっていることに注意。ティラク後の指導者としてはガンジーとネルーが大きな役割を果たしていきます。
 ③は誤り。「義和団が『滅満興漢』を唱えた」という。知っていればすぐ解るのですが、まだここは授業で習っていないと思うので、簡単に流れを説明しておきます。
 1840~42年のアヘン戦争で清朝はイギリスに敗北して不平等条約である南京条約を結びます(1842年)。イギリスでは18世紀末から産業革命がはじまり、機械制大工場で綿織物製品が安価に大量生産されるようになる。イギリスはこれを世界中に売りさばくために海外に進出する。必要とあらば、相手国を侵略し征服します。インドはこのためにインド帝国という植民地とされました。インド国民会議のカルカッタ大会で英貨排斥(イギリス製品不買)が提起されたのも、イギリス製品を買わないことが最もイギリスにダメージを与えることだからです。
 さて、イギリスは中国にも綿製品を売り込みに出かけますが、中国政府は貿易を自由化せず、販売が思うように進みません。一方イギリスは中国から大量に茶を買い付けており、貿易赤字が拡大していました。貿易赤字を減らすために、綿製品の代わりイギリスが中国に販売しはじめたのがアヘンでした。麻薬ですから、当然イギリスでも中国でも禁制品です。イギリスはこれをインドで農民に栽培させ、麻薬として製品化し中国に運び密売した。清朝政府は、これを禁止するために密輸の拠点である広州に林則徐を派遣して、イギリス商人からアヘンを没収し厳しく取り締まりましたが、イギリス政府はこれに反発して中国に軍隊を派遣し戦争となります。これがアヘン戦争。軍事力では清朝はイギリスの敵ではなく、南京条約を結び半植民地化への道を進み始めます。南京条約後、中国民衆の生活は悪化し、中国南部で反乱が起きる。これが太平天国の乱(1851~64年)です。生活悪化の原因は外国との貿易なのだから、敵は外国人と考えてもよさそうなのですが、太平天国軍は敵は清朝政府だと見た。中国人の大多数は漢民族、この漢民族の民族意識の高揚は、漢民族を支配している満州人=清朝にむかったのです。太平天国のスローガンが「滅満興漢」でした。満は満州人=清朝、滅は滅ぼす、だから滅満は清朝を倒せ、興漢は漢民族の国を建てよう!ということになります。太平天国の乱は10年以上中国南部を占領しましたが、結局外国勢力の支援を受けた清朝に鎮圧されました。
 清朝は、その後も列強とのさまざまな戦争で負け続け弱体化していきます。1894年の日清戦争もその一つ。新興国日本にまで敗れ、清朝の領土分割は本格化し、列強は中国から重要拠点を租借という名目で手に入れ、排他的な勢力圏を設定していきました。山東省はドイツの勢力範囲となるのですが、ドイツ人宣教師と中国民衆とのトラブルが多発します。宣教師は治外法権を盾に横暴な振る舞いが多かったようです。これに対して中国民衆の排外運動が活発化する。その中心となったのが義和団と呼ばれる団体です。もともとは、少林寺拳法の流れを汲む義和拳という拳法の団体なのですが、彼らは民衆をいじめるヨーロッパ人を襲って、民衆の支持を得、ついには北京の外国公使館街を包囲します。彼のスローガンが「扶清滅洋」。清朝を助けて、ヨーロッパ人を滅ぼそう、という。清朝政府もこれに乗って、諸外国に宣戦布告しました(1900年)。列強は八カ国連合軍を結成し北京に派遣。イギリス・アメリカ・フランス・ドイツなどの連合軍に、清と義和団が勝てるわけが無く、あっけなく降伏して1901年には北京議定書が結ばれた。連合軍の主力は地理的に中国に近い日本軍とロシア軍でした。
 「扶清滅洋」というスローガンに関連して覚えておいて欲しいのが、朝鮮の甲午農民戦争(1894年)のスローガン「逐洋斥倭」。甲午農民戦争は、日本と結んだ不平等条約江華条約以来、諸外国との貿易で生活が悪化した朝鮮農民が起こした反乱です。洋はヨーロッパ人、倭は日本人。逐も斥も追い払う。ニュアンスは「扶清滅洋」と同じですね。日本の幕末の志士たちのスローガンは「尊皇攘夷」でした。これも「扶清滅洋」と同系統。「滅満興漢」は明らかに系統が違う。アヘン戦争・南京条約後に起きているが、列強の進出を意識しているものではない。
 話を繋げておくと、北京議定書締結以後、八カ国連合軍は中国から撤兵しますが、ロシア軍だけが撤兵せずに中国東北地方に駐屯し続け、事実上この地域を占領してしまった。朝鮮もその影響下に入ります。これを見過ごすことができないのが、朝鮮半島から中国東方地方を勢力圏にしたいと考えていた日本でした。ロシアの中国での影響力増大を避けたいイギリスは日本と同盟、日英同盟を結び(1902年)、ロシアと戦うなら後ろ盾になるといいます。こうして1904年、日露戦争が始まったのでした。1905年、ポーツマス条約で日本が勝利し、その影響の一つがインドのインド国民会議派カルカッタ大会、ということです。
④ソ連ではゴルバチョフが「グラスノスチ」を唱えた。正しいです。ゴルバチョフはソ連最後の書記長。書記長とは共産党書記長のことで、スターリン以来ソ連の最高権力者のポストとなっていました。
 ロシアは第一次世界大戦に連合軍として参加していましたが、長期にわたる戦いに国力は疲弊し、厭戦気分がみなぎるなか1917年に革命が起こります。そもそも、1904年の日露戦争に敗れたのも、戦争中の1905年にロシア第一革命と呼ばれる革命運動が起こり、戦争継続が困難になったからでした。1917年には二回の革命が起こります。三月革命と十一月革命です。三月革命では、ニコライ二世が退位し帝政が崩壊。その後臨時政府が組織され戦争を継続しますが、臨時政府の他にソヴィエト(評議会)とよばれる会議が全国に組織され、レーニン率いる革命政党ボリシェヴィキは、「即時停戦」と「すべての権力をソヴィエトに」と呼びかけて勢力を拡大。十一月革命で、ボリシェヴィキが武装蜂起して権力を奪取しました。ボリシェビキはのちにロシア共産党と改称し、ロシアはソヴィエト社会主義共和国連邦となります。通称ソ連。世界初の社会主義国の誕生です。社会主義とは何かと言い出すと、何時間あっても足りないのですが、簡単に言えば貧富の差をなくす。貧困をなくす。一方で、財産を持つことも許さない。財産とは大農場や大工場です。個人所有の大農園や工場を国有化して大金持ちも貧乏人もなくす。これが社会主義。資本主義社会では、成功した個人がどれだけ土地を買い占めようと、どれだけたくさんの工場を所有しようと自由です。これを政府に取りあげられてはたまらない。だから、資本主義社会の金持ちは社会主義を嫌悪し敵対します。資本主義国のチャンピオンはアメリカ。アメリカを筆頭に資本主義国は社会主義国の影響が自国に及ぶことを恐れ、徹底的に対立します。また、ソ連が共産党の一党独裁政治となったことも、民主主義を正義と考えるアメリカには受け入れがたいものでした。
 こうして、ソ連が誕生して以来、特にアメリカはソ連と敵対関係にありました。唯一の例外が、第二次大戦中です。ヒトラーの率いるナチス・ドイツと戦うために米ソが手を組んだのです。第二次世界大戦後は核兵器開発競争や宇宙開発競争など、さまざまな分野で張り合ってきたソ連とアメリカですが、1980年代にはソ連の立ち後れがはっきりしてきた。特に経済分野では大きく水をあけられる。こうしたなかで、書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカと呼ばれる改革に着手しました。改革の一つがグラスノスチ(情報公開)だったのです。ただし、ゴルバチョフの改革は大胆かつ性急であり、東ヨーロッパの社会主義諸国に対するソ連の指導性の放棄や、ソ連における共産党による一党独裁体制の見直しにまで進み、結局、ゴルバチョフの思惑を越えてソ連自体が解体する結果となりました(1991年)。ソ連のペレストロイカを批判的に見ていた社会主義国中国は、一党独裁を維持しながら、慎重に資本主義的な手法を取り入れた経済改革をおこない、現在に至ります。
(2012.5.27記)

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