世界史講義録

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2011年度 世界史B 解答番号9~14

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解答番号9
 波線部(《 》で表示)が正しい文を選ぶ問題。帝国主義の時代に、どの地域にどの列強が勢力を伸ばしていたかを問うています。①「イランで、《ドイツ人》にタバコ利権が譲渡されると、タバコ=ボイコット運動が起こった。」タバコ=ボイコットは1891年。ドイツの帝国主義政策として有名なのが、ヴィルヘルム2世の3B政策。ベルリンからビンティウム(イスタンブールのこと)、バグダードまで鉄道を敷設し勢力を伸ばそうとしていた。現在はイラクにあるバグダードは当時はオスマン帝国の支配下にあり、イランはさらにその東です。ここまではドイツの勢力は届いていない。イラン(カージャール朝)は北のロシアと南東のイギリス(インド帝国)からの圧力にさらされていました。タバコ利権を獲得したのはイギリスでした。ちなみにイギリスの帝国主義政策は3C政策。カイロ(エジプト)、カルカッタ(インド)、ケープタウン(南アフリカ)を結ぶ巨大な三角形を勢力範囲におさめようとしていました。
 ②「マダガスカルは、《フランス》の支配を受けた。」これは正しい。帝国主義列強で色分けされた世界地図を眺めていないとわかりません。
 ③「《イタリア》は、マフディー国家を滅亡させた後、スーダン支配を確立した。」スーダンがどこにあるのかわかっていればほぼ解決するはずです。スーダンはエジプトの南。イギリスはアフリカ縦断政策と呼ばれる、アフリカの北から南までを植民地の帯で結ぶ壮大な帝国主義政策を立てていました。これは3C政策の一部分を形成します。アフリカ縦断政策を実現するために、イギリス軍はエジプトから南下した。これに抵抗したのがスーダンのマフディー国家(1881~98)だったわけです。イタリアが支配したのはソマリランドとエリトリア、リビア。ただしそれよりもエチオピア侵略を企て、1896年にエチオピアに敗れたアドワの戦いが有名。その後、第1次大戦後にムッソリーニのファシズム政権がエチオピアを侵略、征服しました(1935年)。イギリスの縦断政策と同時にフランスのアフリカ横断政策も確認しておいてください。アルジェリア・サハラ砂漠一帯からアラビア半島の対岸にあるジブチを結ぼうとした。縦断政策のイギリス軍と横断政策のフランス軍が衝突したのがスーダンで起きたファショダ事件でした(1898年)。
 ④「インドでは《オランダ》の支配に対抗して、シパーヒーの反乱が起こった。」これは説明済み。イギリスが正解です。ということで正しいのは②です。

解答番号10
 2文の正誤の組み合わせを選ぶ。
 「a 『アヴェスター』は、マニ教の経典である。」誤り。『アヴェスター』はゾロアスター教の経典。ペルシア人の宗教で、ササン朝ペルシア(226~651)の時代に経典として編纂された。マニ教はササン朝ペルシア治下の3世紀にマニが創始した宗教。ゾロアスター教、仏教、キリスト教を融合させた宗教らしい。一時は、ローマ帝国でも流行って、キリスト教の教父として有名なアウグスティヌスも若い頃入信していたことは有名です。
 「b ウラディミル1世は、ギリシア正教を国教とした。」正しい。ウラディミル1世(位980~1015)はキエフ公国の君主。キエフ公国はノヴゴロド国と並んで、現在のロシアの地に最初に生まれたスラヴ人国家。両国を建国したのはスカンディナヴィア半島方面から侵入してきたノルマン人のグループだとされていますが、ノルマン人はすぐにスラヴ人と同化してしまうので、両国はスラヴ人国家ということになっています。キエフ公国の南方にはビザンツ帝国があって、ウラディミル1世はビザンツ皇帝の妹を妻に迎えた。この時に、ウラディミル1世はビザンツの宗教であるギリシア正教に改宗して国教としました。以来、ロシアの地のスラヴ人にはギリシア正教が広まっていったので、文化的には重要な事件であります。のちキエフ公国はモンゴルのキプチャク=ハン国の支配下に入り消滅。現在のロシアはキプチャク=ハン国下において成長してきたモスクワ大公国が、キプチャク=ハン国から独立してできた国家です。自立したときのモスクワ大公がイヴァン3世(位1462~1505)で、彼の即位の10年ほど前に、ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされています(1453年)。イヴァン3世はビザンツ最後の皇帝の姪と結婚したので、ビザンツ帝国の後継者を自任してツァーリの称号を名乗りました。ツァーリはラテン語のカエサルがなまったもの。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの養父カエサルの名は、ローマ帝国の皇帝の称号となっていたのでした。ちなみに、ツァーリを「正式な」称号としたのはイヴァン4世(位1533~84)です。
 従って正解は、③「a誤、b正」でした。

解答番号11
 カリブ海地域やアメリカ大陸ついて、正しい文を選ぶ。①「イサベル女王の後援の下、コロンブスはサンサルバドル島に到達した。」文句のつけようのない正しさです。
 ②「この地域はすべて、トルデシリャス条約の結果、スペイン領となった。」すべて、ではなくてブラジルだけです。そのあと、偶然にもポルトガルからインドに向かったカブラルがブラジルに漂着し、ブラジル領有を実効性あるものにします。
 ③「『アメリカ』という名称は、先住民の言語に由来する。」基礎的な知識ですね。「新大陸」がアジアではないことを証明したアメリゴ=ヴェスプッチの名が、アメリカの呼称の由来です。
 ④「フェリペ2世の治世下に、アステカ王国が征服された。」これは迷うかもしれませんが、①が正々堂々の正しさなので、間違いなんだなと自信を持って判断してください。アステカをコルテスが征服したのは1521年。フェリペ2世の即位は1556年。こう考えてください。フェリペ2世時代はスペインの絶頂期です。太陽の沈まない帝国と呼ばれている。「すでに」豊かになっている。「すでに」アメリカ大陸から金銀が運ばれてきている。「すでに」アステカもインカも征服されているのだ、と。アメリカの諸文明の征服も、宗教改革も、みんなフェリペ2世の父カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)治下の出来事です。ドイツ国内の宗教改革、宗教対立でさんざん苦しんだカール5世は、1555年アウグスブルクの和議でルター派諸侯の信仰を認めて翌年退位します。そして、スペイン王位は息子のフェリペ2世が継ぐことになるのです。1555年は、覚えやすいので覚えてしまいましょう。アウグスブルクの宗教和議の年ですよ。ちなみに神聖ローマ皇帝位(ドイツ王位)はカール5世の弟フェルディナンド1世が継ぎました。ここで、ハプスブルク家は、オーストリア=ハプスブルク家とスペイン=ハプスブルク家に分かれることになります。

解答番号12
 16世紀後半の出来事について、正しい文を選ぶ。1551年から1600年までの出来事ですね。
 ①「皇帝カール4世は、金印勅書を発布した。」1555年アウグスブルクの和議、皇帝はカール5世とわかっていれば、カール4世はそれ以前の人とわかるので、間違いが確定。16世紀後半には神聖ローマ皇帝位は事実上ハプスブルク家の世襲がはじまっています。1356年の金印勅書はそれ以前の大空位時代(1256~73)を受けて、皇帝選出の方法を定めたものです。まだ、ハプスブルク家の世襲ははじまっていない。
 ②「李成桂は、朝鮮(李朝)を建てた。」これは迷う。朝鮮史は日本史、中国史と絡めておくと忘れにくい。16世紀後半、日本は戦国時代。16世紀末には秀吉が日本を統一し朝鮮に出兵しました。これが朝鮮(李朝)であることはわかると思う。ならば、朝鮮(李朝)は建国直後だったかどうか?そう考えて、違うんじゃないかと見当をつけて欲しい。朝鮮を建国した李成桂は、倭寇との戦いで大活躍して権力を握った人物です。倭寇は前期倭寇と後期倭寇に分かれる。前期倭寇は、室町時代の初期、南北朝時代。後期倭寇は戦国時代。李成桂が戦った倭寇は、前期倭寇。14世紀半ばのことです。関連して、こういうとらえ方も知っておくとよい。1368年に中国でモンゴル人を駆逐して明朝が成立したという大政変の余波が、少し遅れて朝鮮、日本に及んだとう考え方です。明成立後の、1392年に高麗が滅んで朝鮮(李朝)が成立。同年、日本では南北朝が合一しています。
 ③「マルティン=ルターは、『95か条の論題(意見書)』を発表した。」これは1517年。1555年アウクスブルクの和議を覚えていれば、それよりずいぶん前と見当がつくでしょう。
 ④「アンリ4世は、ブルボン朝を開いた。」アンリ四世はフランスの王ですよ。近世フランスで絶対に覚えておかなければならない出来事のひとつが、1598年のナントの王令です。発布したのがアンリ4世。このときまでフランスでは内乱が続いていました。ユグノー戦争です。カトリックの王・諸侯とカルヴァン派諸侯の内乱です。内乱末期にヴァロワ朝のフランス王家が途絶え、ブルボン家のアンリ4世が即位した(1589)。ブルボン朝の始まりです。ところが、アンリ4世はユグノー(カルヴァン派)だったため、フランスの大部分の地域がアンリを王と認めない。やむなく、アンリはカトリックに改宗しましたが、今度はユグノー勢力が猛反発したため、1589年ナントの王令で、ユグノーの信仰を認めた。これで、フランスの宗教戦争は終結しました。この年は、日本では秀吉が死んだ年ですね。この約100年後、ルイ14世がナントの王令を廃止した(1685)ことも、一緒に覚えておきましょう。この結果、豊かな商工業者の多いルヴァン派がフランスから逃れオランダなどに亡命して、フランス産業は打撃を受けたのでした。ルイ14世の失政のひとつです。

解答番号13
 科学者や知識人について書いた文として、誤ったものを選ぶ。
 ①「エラトステネスは、地球の周囲の長さ(子午線)を計測した。」正しい。ヘレニズム時代の科学者です。ヘレニズム時代の科学の中心だったアレクサンドリアの研究所ムセイオンと一緒に覚えておく。地動説を唱えたアリスタルコスもいました。
 ②「コペルニクスは、地動説を唱えた。」これを間違えるはずはないですね。コペルニクスは、ローマ留学時代にアリスタルコスの説を知ったという話もある。
 ③「レントゲンは、ラジウムを発見した。」レントゲンは人名です。19世紀の人。X線を発見した。ラジウムはキュリー夫人(マリ=キュリー)の発見。彼女はポーランド人。フランス人の夫とともに研究生活を送って、ノーベル物理学賞を受賞している(1903年)。
 ④「パグウォッシュ会議で、科学者たちが核兵器の禁止を訴えた。」パグウォッシュ会議は1957年、カナダのパグウォッシュで開催された。当時は東西冷戦のまっただ中で、米ソの核兵器開発競争はとどまるところを知らず、核戦争による人類滅亡というシナリオがかなり真実味を帯びていました。1954年には第五福竜丸事件があって、太平洋で操業していた日本の漁船第五福竜丸がビキニ環礁で行われたアメリカの核実験の死の灰を浴びた。日本では広島、長崎に続く被爆として大変な問題となり、翌1955年、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。こういうながれを受けて、科学者達が核廃絶を訴えたのがパグウォッシュ会議でした。
 誤りは③となります。

解答番号14
 キリスト教徒について適当な文を選ぶ。
 ①「クローヴィスは、ネストリウス派に改宗した。」クローヴィスはフランク王国を統一して、発展の基礎を作った王でした。ローマ教会・ローマ人と同じ宗派に改宗したのがポイント。さて、ローマ教会の宗派はというと、アタナシウス派。大部分のゲルマン人はアリウス派でした。ネストリウス派は中央アジア方面に広がった宗派で、中国唐でも流行し景教と呼ばれました。ローマ帝国でキリスト教が発展する過程でさまざまな教理の解釈が生まれ、そのたびに教会は公会議を開いて、正しい説(正統)を決定しました。正しくないとされた説は異端とよばれ、ローマ帝国から追放された。325年ニケーア公会議で、アタナシウス派が正統とされ、異端とされたアリウス派はローマ帝国の北方ゲルマン人に布教を行いました。431年エフェソス公会議ではネストリウス派が異端とされ、この宗派は東方のアジアで活動した。451年カルケドン公会議では単性論派が異端とされました。これらの各宗派の中で、正統となったアタナシウス派の教義が三位一体説だということだけは重要なので覚えてください。それ以外の宗派の中身はまず問われることはありません。
 ②「サン=バルテルミの虐殺で、多数のカトリック教徒が殺された。」サン=バルテルミの虐殺は、ユグノー戦争中の出来事。カトリック側がユグノーをだまし討ちで虐殺した事件です。
 ③「イエズス会宣教師アダム=シャールは、元(大元ウルス)で重用された。」誤りです。アダム=シャールを知らなくても、イエズス会と元だけで判定できます。イエズス会は宗教改革に対抗して結成されたのだから、その成立は絶対に1517年のルターの「95か条の論題」以後です。創立メンバーにはイグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエルがいて、ザビエルは日本に来たことはみんな知っているはず。やってきたのは戦国時代。だから、アダム=シャールは当然それ以後の人。日本の戦国時代に中国の王朝は何だったか。先ほどの問題解説でもやりましたが、明です。元ではない。元寇が日本の鎌倉時代にあったことを思い出せばよい。元は日本の鎌倉時代と重なるのだから、戦国時代にはもう滅んでいるな、と推論できます。イエズス会が中国で活動したのは明末から清の時代です。中国布教に最初に成功したイエズス会の宣教師がマテオ=リッチ。16世紀末のことでした。明が滅んで清朝が中国本土を支配したが1644年。イエズス会は日本の戦国末から江戸時代にかけて中国で活躍していたのです。
 ④「ピューリタンの一団が、メイフラワー号でアメリカに渡った。」これは正しい。この「ピューリタンの一団」はピルグリム=ファーザーズとして知られる人々で、1620年、ジェームズ1世治下のイングランドを嫌って、アメリカに移住した。ジェームズ1世は、イギリス国教会の強化によって絶対王政をおしすすめようと考え、ピューリタン(カルヴァン派)を圧迫していたのです。ピルグリム=ファーザーズが乗っていた舟がメイフラワー号。着いた場所がプリマス。その地はニューイングランド植民地として発展した。自由を求める人々による健全なるアメリカ建国物語としてアメリカ人の好きな話で、細かいところまで試験には出ます。ちなみに、ピルグリム=ファーザーズがアメリカに入植して、最初の収穫物がとれたときのお祭りが感謝祭。
 答えは④
(2012.6.5記)

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