世界史講義録

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2012年度 世界史B 解答番号1~9

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解答番号1
 法律について述べた文で誤っているものを選ぶ。
①洪武帝によって、明律が制定された。
②東ローマ帝国で、『ローマ法大全』が編纂された。
③インドで、『マヌ法典』がまとめられた。
④ギリシアで、ホルテンシウス法が制定された。
 非常に簡単。ホルテンシウス法はローマの法律。前287年、平民会の決議を国法とすることを定め、ローマにおける貴族と平民の身分闘争を終結させることになった。有名な法律です。
 ②はひょとすると間違えるかもしれない。教科書でローマの文化として『ローマ法大全』編纂トリボニアヌスとして出てきますが、編纂したのはローマ帝国分裂後、東ローマのユスティニアヌス帝でした。

解答番号2
 中国の副葬品で、ラクダの上に西域人が乗っている写真の陶器の呼称を選ぶ。
①彩陶
②唐三彩
③染付(青花)
④黒陶
 これも簡単。②の唐三彩が答えです。唐の国際性を示す品として、イラン系の人々やラクダをかたどった陶器の写真は教科書などによく出ています。
 ③の染付は、白い地肌の陶磁器に青い色で模様を描いたもの。元代くらいから本格的に生産されるようです。染付というのは日本での呼称で、中国では青花と呼びます。
 ①彩陶は、西アジアから中国まで広く出土する最も早い時代の土器。茶色の地肌に赤っぽい模様が描かれている。②は中国で出土。黒陶が出土する時期を竜山(ロンシャン)文化と呼ぶ。竜山文化の前が仰韶(ヤンシャオ)文化。これが彩陶の時代です。ともにいわゆる黄河文明の時代です。

問題番号3
 a b の正誤の組み合わせとして、正しいものを選ぶ。
a オシリス神は、古代エジプトにおいて冥界の王と見なされていた。
b シヴァ神は、ヒンドゥー教の主神の一つである。
 両方とも正しいので、①「a-正 b-正」が正解。オシリスは死後の審判を行う神として教科書にも出てくる。オシリスは、弟神に憎まれて、殺され体をばらばらにされて捨てられた。それを妻イシス、これはオシリスの妹でもあるのですが、ばらばらの肉体を拾い集めてつなぎ合わせて復活したという。ミイラの姿で描かれる死と再生の神で、冥界の神でもある。
 ヒンドゥー教の主神はブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神。踊りながら世界を破壊するシヴァ神が一番人気があるようです。ヴィシュヌ神はいろいろな神格に姿を変えて登場する。姿を変えた状態が化身ですが、化身をアバターラという。「アバター」という映画がありましたが、あれです。

問題番号4
 問題文にはイスラーム神秘主義や聖者の墓廟についての記述に続いて、「一方、18世紀の(ア)では、(イ)がイスラーム改革運動を起こし、聖者への崇敬は預言者ムハンマドの時代にはなかったとして、豪族サウード家と結んで聖者などの墓廟を破壊していった。」とある。
 問題は(ア)(イ)の組み合わせを選ぶもの。選択肢は、アは「エジプト」か「アラビア半島」。イは「ワフド党」か「ワッハーブ派」の二つ。
 ポイントはサウード家。現在アラビアの大部分を領有しているサウジアラビアのサウジとは、サウード家を指す。したがって、サウジアラビアとは「サウード家のアラビア」 という意味です。だから、アは問題なくアラビア半島。
 18世紀にアラビア半島で改革運動を起こしたのはワッハーブ派。これが半島中部ネジド地方の豪族サウード家と結びついて18世紀半ばにワッハーブ王国が成立します。ここは砂漠の辺境地域なので、オスマン帝国も放置していたようですが、19世紀に入りワッハーブ王国がイスラームの二大聖都メッカとメディナを占領するに至って、ワッハーブ王国をつぶしにかかった。ただし、オスマン帝国本体が出兵するのではなく、エジプトで自立していたムハンマド=アリーにワッハーブ攻撃を命じました。ムハンマド=アリーはオスマン帝国から自立しているとはいうものの、その地位はオスマン帝国のエジプト総督であり、その宗主権の元にあったので、アラビア半島に出動しあっという間にワッハーブ王国を滅ぼしました(1818)。ムハンマド=アリーはエジプトの近代化(つまり西欧化)を進めており、その洋式軍隊の威力を見せつけたのです。ちなみに、ワッハーブ王国はその後復活しますが(1823)、また滅び(1889)、20世紀になって三度目の復活を果たします。これを成し遂げたのがイブン=サウード、成立した国がサウジアラビア、現在も存続しています。
 イの選択肢にあるワフド党は、エジプトの民族主義政党。20世紀初頭に結成され、反英独立運動を展開しました。

解答番号5
 文 a と b の正誤の組み合わせで正しいものを選ぶ。
a 始皇帝の陵墓近くから、兵馬俑が発掘された。
b 古代ローマのカタコンベは、キリスト教徒の礼拝の場ともなった。
 a は正しい。兵馬俑は有名な遺跡。俑とは人形のこと。地下から始皇帝の陵墓を守るようにして配置された膨大な軍隊(兵士と馬)の人形が発見された。これが兵馬俑。始皇帝のおこなった数々の大土木工事のひとつと考えてよいでしょう。
 b も正しい。カタコンベはローマ人の共同地下墳墓。ローマ人は都市の郊外に地下トンネルを掘ってここに死者の遺体を安置した。気味の悪いところだから、あまり人は来ません。初期のキリスト教徒は弾圧を恐れて、ここにひっそりと集まって集会を開いたのです。
 ①a-正 b-正 が正解となります。

解答番号6
 トルコ系の国家や王朝に関して、波線部(≪ ≫で表現)の誤っているものを選ぶ。
①突厥が、ササン朝と結んで≪エフタル≫を滅ぼした。
②ウイグルが、≪キルギス≫を滅ぼした。
③カラ=ハン朝が、≪サーマーン朝≫を滅ぼした。
④ホラズム朝(ホラズム=シャー朝)が、≪モンゴル≫に滅ぼされた。
 中央アジアの歴史で覚えにくいところです。①は正解。6世紀ササン朝のホスロー1世は、北方の突厥とともに遊牧エフタルを挟み撃ちにして滅ぼしました。突厥は6世紀~8世紀に中央アジアからモンゴル高原にかけて大遊牧国家を形成しましたが、隋の時代には東西に分裂し、東突厥は隋に服属します。この突厥が衰えた後中央アジアからモンゴル高原を支配したのがウイグル。中国では唐代に当たる。唐の要請で安史の乱を鎮圧した。この中央アジアでウイグルに取って代わるのがキルギス。したがって②は誤り。モンゴル高原東部ではウイグルに代わって契丹が勢力を拡大します。
 ③に関していうと、ササン朝ののち、西アジアはイスラームの時代に入ります。アッバース朝が中央アジアまで支配しますが、中央アジアではイラン系のイスラーム王朝であるサーマーン朝が成立(875)。さらにその東ではトルコ系のカラ=ハン朝(イスラーム系)が成立しました(840)。カラ=ハン朝はサーマーン朝を滅ぼした(999)のち、西遼(カラ=キタイ)の支配下に入るという流れ。
 イラン高原では、アッバース朝につづいてブワイフ朝、セルジューク朝と続き、1077年ホラズム朝が成立。このホラズム朝だけでなく、キルギス、西遼を滅ぼすのがモンゴルです。

解答番号7
 キリスト教の最後の審判の思想の形成に大きな影響を与えた宗教として適当なものを選ぶ。
①道教
②ゾロアスター教
③バラモン教
④イスラーム教
 ①は中国、③はインドの宗教なので、キリスト教徒は無関係。イスラーム教は7世紀に成立。キリスト教の影響を受けています。というわけで、残るのは②ゾロアスター教だけで、これが正解。簡単な問題でした。
 ゾロアスター教はペルシア人の宗教。ゾロアスター教には光明神アフラ=マズダと暗黒神アーリマンが長い闘争を繰り広げ、最後にはアフラ=マズダが勝利し、すべての人々を蘇らせて最後の審判を行い、天国行きか地獄行きかの判定を下す、という教義がある。前586~前538年のバビロン捕囚を終わらせて、ヘブライ人にパレスチナへの帰郷を許したのは、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアでした。ヘブライ人がユダヤ教の教義を練り上げる際に、ペルシア人のゾロアスター教の影響を受けたのでしょう。ユダヤ教から生まれたキリスト教も、そのまま最後の審判の考えを受け継ぎました。
 ゾロアスター教関連としては、ササン朝時代に編纂された経典『アヴェスター』、中国では拝火教、?(ケン・示偏に天)教と呼ばれたことも覚えておく。

解答番号8
 ダンテの出身地であるフィレンツェについて、正しい文を選ぶ。
①毛織物業で、富を蓄積した。
②14世紀には、教皇庁が置かれた。
③フッガー家の庇護の下、芸術が栄えた。
④ブルネレスキが、ハギア=ソフィア(聖ソフィア)聖堂を建てた。
 ①が正しい。
 ②14世紀に教皇庁が置かれたのは、フランスのアヴィニヨン。フィリップ4世が教皇庁をアヴィニヨンに移し(1309)、以後1377年まで「教皇のバビロン捕囚」が続きました。1378年からはローマにも対立教皇が立てられ、複数の教皇が併存する教会大分裂(シスマ)となることもついでに確認。
 ③フッガー家は南ドイツ・アウグスブルクの大富豪。銀山経営で財をなして、15世紀から16世紀にかけて大きな力を持った。カール5世は神聖ローマ皇帝になるための選挙運動資金をこのフッガー家から借りていました。フィレンツェの大富豪はメディチ家。これは絶対覚える。
 ④ハギア=ソフィア聖堂は、東ローマ(ビザンツ)帝国の建築物。ユスティニアヌス帝によって建てられ、ビザンツ様式の代表として知られる。ブルネレスキはルネサンスの建築家で、フィレンツェのサンタ=マリア大聖堂の設計者。ルネサンスの建築家は、彼とサン=ピエトロ大聖堂を設計したブラマンテを覚えること。

解答番号9
 次の a ~ c の文を年代の古い順に並べる。
a エラスムスが、『愚神礼賛』を書いた。
b ペトラルカが、叙情詩を作った。
c セルバンテスが、『ドン=キホーテ』を著した。
 年代を覚えていなくても、様々な出来事の関連を覚えていれば、正解にたどり着くことができる。エラスムスはルネサンス最大の人文学者と呼ばれて、聖書研究でも有名。彼はルターよりもちょっと先輩ではあるがほぼ同時代。二人は手紙のやりとりもしていたと思います。ルターが「95か条の論題」を発表して(1517)、宗教改革の嵐がドイツに吹き荒れたときに、神聖ローマ皇帝になったのがカール5世。カール5世はスペイン王でもあって、スペイン王としてはカルロス1世と呼ばれ、その退位後にスペイン王になったのが息子のフェリペ2世。レパントの海戦でオスマン海軍を破り、無敵艦隊と呼ばれるようになったのは彼の時代です。スペイン人セルバンテスはレパントの海戦に従軍していて、腕を負傷し、戦後、障害を持った身体で『ドン=キホーテ』を書いたのでした。こういう流れを考えると、セルバンテスはルターより後だな、と予想がつきます。
 b のペトラルカですが、彼はダンテと並んで最も早い時期のルネサンス人として登場します。だいたいルネサンスの文化人は1500年前後に集中して登場します。15世紀後半から16世紀前半がルネサンスの最大の山です。年表をじっくり見たことがある人は、やけに早い時期にダンテとペトラルカがいることに気づいたかもしれません。
 年表を見てみると、ペトラルカの没年は1374年、エラスムスの『愚神礼賛』は1509年、レパントの海戦が1571年、『ドン=キホーテ』の最初の巻が1605年に出ている。ということで、やはり b-a-c の順、③が正解でした。

(2012/07/6記)

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