世界史講義録

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2012年度 世界史B 解答番号10~18

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解答番号10
 「領土拡大に伴って、ロシアには清朝と勢力範囲を調整する必要性が生じ、1727年に結ばれた( ア )でモンゴル北辺における露清間の国境が定められた。」という問題文のアに、清朝の皇帝名と条約名の組み合わせを答える。
①南京条約ー康煕帝
②南京条約ー雍正帝
③キャフタ条約ー康煕帝
④キャフタ条約ー雍正帝
 基本的な問題。ロシアと清朝の国境の条約は、1689年のネルチンスク条約(康煕帝とピョートル大帝)、1727年のキャフタ条約(雍正帝、ロシアの皇帝名は問われない)、1858年のアイグン条約、1860年の露清北京条約、1881年のイリ条約(アイグン条約以降は通常、清朝の皇帝名も問われません)。アイグン条約以降は清朝が不利な条件であり、領土を削られていきます。
 ①②ですが、南京条約といえばアヘン戦争終結時の条約です。1842年という年も覚えておくべきでしょう。

解答番号11
 シベリアについて述べた文として誤っているものを選ぶ。
①イヴァン4世の治世下で、イェルマークのシベリア遠征が行われた。
②日本は、シベリア出兵(対ソ干渉戦争)に参加した。
③20世紀前半に、シベリア鉄道の建設が始まった。
④19世紀に、ムラヴィヨフが東シベリア総督となった。
 ③に気持ちが引っかかって欲しいですね。1904年に始まった日露戦争で、ロシアはシベリア鉄道で兵員・軍事物資を極東まで輸送していました。4年で完成するか?というこうとです。
 日本では1891年に大津事件という事件がありました。日本を訪問したロシア皇太子、のちの皇帝ニコライ2世が、滋賀県の大津で警備担当の日本人警察官に襲われて怪我をした事件で、大問題になる。このときニコライがなぜ日本に来たかというと、ウラジヴォストークで行われるシベリア鉄道建設の起工式に出席するため、インド洋周りでやってきて、ついでに日本に立ち寄ったのです。
 もうひとつ、補則説明しておくと、シベリア鉄道建設資金をロシアはフランスから借り入れます。ドイツの宰相ビスマルクは自国の東西に位置するフランスとロシアが接近しないように、ロシアを三帝同盟(1873)や独露再保障条約(1887)で、自陣営に引きつけていたのですが、新皇帝ヴィルヘルム2世は「世界政策」という帝国主義政策をとり、ビスバルクの外交政策を放棄。独露再保証条約を更新しなかったため、ロシアはフランスと接近、1891年に露仏同盟が結ばれています。経済的にも軍事的にもロシアとフランスは近づいていたわけです。ということで、19世紀末にはシベリア鉄道の建設は始まっていました。
 ①は1581年のこと。コサックの首長イェルマークがシビル=ハン国を占領しました。シビル=ハンがシベリアの語源です。

解答番号12
 日本とロシアの関係の歴史について正しい文を選ぶ。
①アレクサンドル1世が、ラクスマンを日本に派遣した。
②日露戦争の結果、日本は樺太全島を領有するようになった。
③日ソ中立条約が結ばれた後、第二次世界大戦が始まった。
④日ソ共同宣言が出された後、日本は国際連合に加盟した。
 ①のラクスマンは、エカチェリーナ2世の派遣。これが誤りなのはすぐにわかって欲しい。
 ②日露戦争で日本が得たものは多くありませんでした。賠償金が全く支払われなかったことは有名ですが、領土は北緯50度以南の樺太を得ただけでした。全島ではありません。
 ③は混乱しやすいところ。第二次世界大戦は、1939年9月、ドイツのポーランド侵攻によってはじまります。この前の月、8月にドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結んでいる。ポーランドに侵攻してロシア軍が出てきたらややこしいので、前もってソ連を敵に回すつもりはないことを、ドイツがソ連に約束した条約と考えてよい。
 このときすでに、日本は中国で戦争を始めており(1937~1945、日中戦争)、泥沼化した中国での戦局を打開するために、北方に戦線拡大してソ連と戦おうという北進論と、東南アジアに戦線を拡大しようという南進論が議論されていましたが、北進論はドイツがロシアと戦ってくれることが前提だったので、日本の政治家や軍人は独ソ不可侵条約にけっこうショックを受けます。結局、日本は南進論をとることになりますが、そうなると北方の安全を確保しなければならない。ドイツ軍はヨーロッパで勝ちまくっているし、ということで、日本の指導部はドイツの後追いをして、1941年に日ソ中立条約を結んだのでした。だから、日ソ中立条約は第二次大戦開始後。③は誤り。ちなみに、日ソ中立条約が結ばれた2ヶ月後に、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、独ソ戦がはじまります。寝耳に水の日本指導部は、またまたショックを受けたのでした。
 ④拒否権を持つ国連安全保障理事会常任理事国ソ連に認めてもらえなければ、日本は国連には入れません。1956年10月に日ソ共同宣言、12月に国連加入を果たしました。④が正しい文です。

解答番号13
 ポーランドの歴史について述べた a b の正誤の組み合わせとして正しいものを選ぶ。
a 社会主義体制下で、自主管理労組「連帯」が結成された。
b チャウシェスクによる独裁体制が崩壊した。
aは正しい文章です。「連帯」という労働組合は、一時世界中に知られました。ポイントは自主管理労組という所です。第二次大戦後、ポーランドはソ連の衛星国として社会主義体制となりました。社会主義国家は、原則的には労働者と農民の国家であり、労働者と農民の利害を代表する政党が政府を組織します。したがって政府の政策が、労働者に不利益をもたらすはずはなく、労働組合が政府や企業(基本は国営)と対立するはずがない、という建前。なので、すべての労働組合は官製組合、つまり政府に奉仕し、政府にたてつかず、政府のいうとおりに動く。これが、社会主義国家における労働組合のあり方でした。ところが、「連帯」というポーランドの造船労働者の間に生まれた組合は自主管理労組だった(1980年発足)。つまり、政府と無関係に組織され、政府に対して「ノー」と言ったのです。これが、世界の注目を集めた。「連帯」の議長となったワレサが来日したときは、マスコミは大騒ぎでした。
 そもそも、ポーランドをはじめとする東欧の社会主義諸国は、自ら望んで社会主義体制を選んだとは言い難いところがあります。第二次世界大戦でドイツに占領され、ドイツ軍を破って侵攻してきたソ連軍に占領され、そのまま終戦を迎えて、ソ連の圧力によって社会主義体制を押しつけられた側面が大きい。ポーランドはその象徴的な国で、ポーランドの為政者はソ連指導部に従順にしたがっているが、本音の所ではソ連が嫌いなのではないか、というのはポーランド人も含めて世界中が感じていることでした。18世紀末のポーランド分割以来、ポーランドはロシアに支配され、それに抵抗してきた歴史があるのですから。ですから、「連帯」が登場したときに、しかもそれがすぐに弾圧されずに、活動を継続し世界中に知られるにつれて、「ああやはり、ポーランド指導部は『連帯』を潰す気はないのだな。『連帯』を通じてソ連に抵抗しているのだな」と感じる人も多かったと思います(1982年に非合法化)。この前後くらいに、世界的に評価されていたポーランドの映画監督アンジェイ=ワイダが「大理石の男」という映画を撮って注目を集めました。同じ監督の「灰とダイヤモンド」もそうでしたが、ポーランドの社会主義政府の微妙な立ち位置と、ポーランド国民との関係を知っていると、「うーん」とうならされる映画です。しかも、検閲が厳しいとされる社会主義体制下で撮影していたことも驚きでした。機会があったら見てください。話がそれてしまいましたが、ついでに言っておくと、『連帯』の議長だったワレサは、冷戦が終わりポーランドが社会主義を放棄した後、1990年にポーランドの大統領になっています。
 bのチャウシェスクは社会主義時代のルーマニアの独裁者です。ソ連が東欧に対する指導性を放棄(社会主義の押しつけをやめた)したのち、国民の蜂起(革命)により失脚、処刑されました。この頃の東欧の変革は皆そうなのですが、ルーマニアの政変もテレビで逐一映像が流れて、変な話ですが、チャウシェスクという人は、あまり注目もされていなかったのですが、処刑されたことで世界的に有名になった感じです。
 aー正、bー誤、で②が正解。

設問番号14
 ドイツの歴史について誤っているものを選ぶ。
①第二次世界大戦後、米・英・仏・ソ4か国によって分割占領された。
②西ドイツは、ワルシャワ条約機構の一員となった。
③東ドイツは、東西ベルリンの境界に壁を建設した。
④ニュルンベルク国際軍事裁判によって、ナチス=ドイツの指導者が裁かれた。
 易しい。ドイツは第二次世界大戦後東西に分裂し、西ドイツは西側資本主義陣営、東ドイツは東側社会主義陣営にはいります。西側の軍事同盟が北大西洋条約機構(NATO)、東側がワルシャワ条約機構です。西ドイツがワルシャワ条約機構に入ることはあり得ません。②が間違い。

設問番号15
 国境の変更や領土の帰属をめぐる歴史について、波線部(棒線で表示)の正しいものを選ぶ。
①アルザス・ロレーヌは、ウィーン会議の結果、ドイツ帝国領となった。
②百年戦争の結果、イギリス王はボルドー以外の大陸の所領を失った。
テキサスは、アメリカ=メキシコ戦争の結果、アメリカ領となった。
④バルト3国は、第二次世界大戦がはじまると、ソ連によって併合された。
 ①のアルザス・ロレーヌは、独仏間の領土問題として昔からよく問われるところです。最初にアルザスが登場するのは、1648年のウェストファリア条約。この条約で、フランスがアルザス地方を神聖ローマ帝国から獲得します。次が、1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)。勝利したドイツがフランスから、アルザス・ロレーヌ地方を獲得。次が、第一次世界大戦。1919年のヴェルサイユ条約で、勝利したフランスがドイツからアルザス・ロレーヌ地方を再び獲得。現在に至ります。ちなみにこの地域はドイツ語圏です。ですから、①の波線部は間違いで、入るべき言葉は「プロイセン=フランス戦争」でしょう。
 ②百年戦争で、イギリスはフランスにあった領土のほとんどを失いましたが、唯一保ったのはカレーという港町です。細かい知識ですが、教科書には出てきます。カレーは英仏間の海峡(ドーヴァー海峡)の最も狭くなっている所のフランス側に位置します。ボルドーは大西洋側の港。
 ③アメリカ=メキシコ戦争でアメリカが獲得したのはカリフォルニア(1848年)。当時のカリフォルニアは現在よりも大きい部分を指しました。テキサスは1845年に併合しています。テキサスもメキシコ領だったのですが、アメリカから移住した人々が、メキシコから分離独立し、それをアメリカが併合するという形をとりました。
 ④はその通り。第二次大戦はドイツの動きばかりを追っていて、ソ連の動きは案外盲点です。1939年8月、独ソ不可侵条約を結び、翌月、ドイツはポーランドに侵攻して第二次世界大戦がはじまったわけですが、この時にソ連軍もポーランドに侵攻し、ポーランドをドイツと分け合っています。同年11月にはソ連はフィンランドに宣戦して戦争を始めます(ソ=フィン戦)。さらに翌1940年にはバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)に進み、ここを占領。どさくさ紛れに、火事場泥棒的なことをやっていたわけです。ソ=フィン戦でソ連は国際連合を除名されています。英・米にとっては、ソ連もドイツと同じくらいに信用しがたい国だったのです。英・米とソ連が連合国を形成するようになるのは、1941年に独ソ戦がはじまってから。敵の敵は味方という理屈ですね。

解答番号16
 年表のa~dの時期のうち、国境を接する中華人民共和国とヴェトナムの間で起こった中越戦争の時期として正しいものを選ぶ。

(a)
1962年 中印国境紛争
(b)
1969年 中ソ国境紛争
(c)
1975年 ヴェトナム戦争終結
(d)

 アメリカが軍事介入していたヴェトナム戦争のあいだは、北ヴェトナムは同じ社会主義国である中国・ソ連と良好な関係を保ち、支援も受けていました。1973年、アメリカ軍がヴェトナムから撤兵し、南ヴェトナム政府が崩壊し(1975年)、1976年南北ヴェトナムが統一されます。ヴェトナム社会主義共和国の成立です。これに連動して、1975年にはカンボジアでもアメリカに支援されていたロン=ノル政権が崩壊し、ポル=ポト派(クメール=ルージュ)という勢力が権力を掌握します。
 翌1976年、ポル=ポト派は国名を民主カンプチアと改称し、極端な社会主義政策をとりました。国家全体を強大な強制収容所にしたような政治で、多くの国民が強制移住させられたり、知識人に対する虐殺など、異様ともいえる政策が次々と実施されていきました。この民主カンプチア政府は、隣国ヴェトナムとの関係が悪化します。1978年末になるとヴェトナム軍がカンボジアに侵攻、79年1月には民主カンプチア政府を倒して、ヘン=サムリン政権を建てました。ヘン=サムリンはカンボジア人で反ポル=ポト勢力のリーダーだったようです。ヘン=サムリン派はヴェトナムの支援を得てポル=ポト派政権を倒したということですね。こうして、カンボジアに親ヴェトナムのヘン=サムリン政権ができたわけですが、倒されたポル=ポト派と中国が友好関係にあったため、同年2月、中国軍がヴェトナムに侵攻します。これが中越戦争(中越国境紛争)です。この紛争はアメリカ軍との戦争で鍛え抜かれたヴェトナム軍が中国軍を押し返して3月には終結しました。数年前までは友好関係にあった社会主義国同士が戦火を交えたということで、大きなニュースとなりました。
 ④dが正解です。

解答番号17
 朝貢について述べた文aとbの正誤の組み合わせとして正しいものを選ぶ。
a 琉球は島津氏に支配されると、中国への朝貢を断絶した。
b 3世紀に卑弥呼が、魏に朝貢使節を送った。
 15世紀に統一国家となった琉球は、対中国の朝貢貿易をはじめとする海上貿易で繁栄しましたが、1609年薩摩藩島津氏に侵略されその属国となりました。ただし、島津氏は琉球を通じて中国との貿易をはかるため、中国(明、のちに清)との朝貢を続けさせました。こうして徳川時代を通じて、琉球王国は、中国と薩摩藩に両属したのでした。aは誤り。
 卑弥呼および邪馬台国の話は、中国の史書『三国志』のなかの『魏志』に記録されている。倭人伝として有名。どうして記録されているかというと、卑弥呼が朝貢使節を魏に派遣したからです。その見返りとして「親魏倭王」の称号、金印(たぶんこれに親魏倭王之印と刻まれている)、銅鏡などを授かった。ただの貿易ではなく、明らかに朝貢です。
 正解は③aー誤、bー正。

解答番号18
 清朝が設置した機関として誤っているものを選ぶ。
①軍機処
②中書省
③理藩院
④総理各国事務衙門(総理衙門)
 明の時代から皇帝への権力集中が進んで中書省はなくなりますから、誤りは②です。
 明は中書省をなくして、皇帝権限を強化するのですが、あまりにも繁忙になった皇帝を補佐するために内閣大学士という秘書のような役職を置きます。これは清にも引き継がれますが、雍正帝の時に新たに軍機所という機関を置いたため、これが内閣大学士に取って代わりました。軍機所はその名の通り、はじめは軍事機密を取り扱ったようですが、やがて政務全般にわたって皇帝を補佐するようになったのです。軍機所の役人を軍機大臣といいます。
 清は広大な領域を、皇帝の直轄地と、各民族の自治にゆだねる藩部に分けましたが、藩部を監督する役所が理藩院。
 ④の総理衙門を誤って答える人が多いかもしれません。アロー戦争(1856~60)で敗れ、1860年に北京条約を結んだ翌年、1861年に設置された役所です。伝統的な中国の王朝は、自国と対等な外国の存在を認めていません。すべて属国か朝貢国かまたは敵国です。ヨーロッパ諸国と対等な立場で戦争や条約締結といった外交交渉を行う必要性が日々増大していたのに、外交事務を専管に行う役所がなかった。そこで設置されたのが総理衙門。今の外務省のようなものです。

(2012/07/22記)

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