世界史講義録

センター試験を解く
2012年度 世界史B 解答番号19~27

トップページに戻る

解答番号19
 「前2世紀後半」の時期に起こったできことについて、正しいものを選ぶ。
①張騫が、大月氏に派遣された。
②仏図澄が、仏教の布教に活躍した。
③耶律大石が、西遼(カラ=キタイ)を建てた。
④班超が、西域都護となった。
 前2世紀後半というのは、前150年~前101年。①の張騫は前漢、武帝時代の人物。対匈奴軍事同盟締結のため、武帝から西域の国大月氏へ派遣されたのでした。ちょうど、前2世紀後半のことです。
 ②仏図澄は、五胡十六国時代の人物。西域のクチャというオアシス都市国家出身。五胡十六国時代に華北(中国北部)に移動してきた遊牧系の諸民族、いわゆる五胡は、西域から仏教僧を招きます。この時代に、西域からの渡来僧が何人かいて、仏図澄以外に、鳩摩羅什や達磨がいます。北魏時代になると、雲崗や竜門に石窟寺院が造られ巨大石仏が刻まれたりします。五胡十六国時代が事実上、中国仏教がはじまった時代と考えてよい。五胡十六国時代は、おおよそ4世紀から150年間。  おおざっぱな年代のとらえ方は、紀元前後を挟んで、紀元前の200年間が前漢、紀元後の200年間が後漢。200年から300年までの100年間が、三国時代と西晋。300年からが五胡十六国という具合です。
 ④の班超は後漢時代の人。西域諸国を取り仕切りました。前漢の張騫に相当する人物。ということは、この人は紀元後の人。
 ③西遼は遼が金に滅ぼされた時に、遼の皇族耶律大石が西方に逃れて建てた国。西遼を滅ぼした金はモンゴルに滅ぼされ、西遼もナイマンに乗っ取られた後、モンゴルに滅ぼされた。モンゴルの発展は13世紀。西遼の建国はその約100年前、12世紀のこと。
 正解は①。

解答番号20
 ヴェトナムの地域に建国され交易で栄えた国の名として正しいものを選ぶ。
①マタラム
②チャンパー(林邑)
③パルティア
④カルタゴ
 ちょっと勉強していれば、③と④はすぐに除外できる。③はイランの国。アレクサンドロスの武将が建てたセレウコス朝シリアから自立して建てられた。④は紀元前2世紀にローマと争ったアフリカ北岸の都市国家。フェニキア人の国で地中海交易で繁栄していた国でした。
 ①のマタラムは難しい。8世紀から13世紀まで続いたヒンドゥー教のマタラムと、16世紀からと18世紀まで続いたイスラームのマタラムと二つのマタラムがある。どちらにしても、ジャワ島に栄えた国。国名がジャワ島のマタラムという地名からつけられているのです。これよりもよっぽど重要で、よく出題されるのがチャンパーなので、こちらを覚えておけば問題なし。
 ヴェトナムはかつては南北は別々の国で、南部にあったのがチャム人のチャンパー。中国の史書に林邑とか占城とかの表現で記されます。

解答番号21
 漢の武帝の経済政策で正しいものを選ぶ。
①中小商人への低利の貸付である市易法を施行した。
②土地政策として均田制を施行した。
③物価対策などのために均輸・平準法を施行した。
④貨幣を半両銭に統一した。
 中国の諸制度は基本問題。単純に覚えるものです。①市易法は宋代王安石の新法のひとつ。②の均田制は北魏、孝文帝。③均輸・平準法が前漢、武帝。④半両銭は秦の始皇帝。半両銭をしらなくても、貨幣の統一だけで始皇帝と解るべし。

解答番号22
 ポルトガルの交易の拠点とした都市の名と、その位置を示す地図のaまたはbとの組み合わせとして適当なものを選ぶ。
 地図は、中国南岸にa、インドネシアのジャワ島にbが記されています。選択肢は、
①バタヴィア-a
②バタヴィア-b
③マカオ-a
④マカオ-b
 単純な問題ですが、地図は苦手という人が多い。日ごろから、地名が出てきたら資料集などで場所を確認することが大事です。
 中国南岸の都市はマカオを指しています。ここは、1557年にポルトガルが明朝から居住権を得て、以後ポルトガルのアジアでの拠点の一つとなります。ただし、ここはポルトガルの植民地ではなく、あくまで居住権を得たに過ぎません。こののち、ポルトガルは毎年中国政府に献金をして居住権を維持し続けました。のち、清朝が弱体化した1887年になって、はじめてマカオはポルトガル領となりました。約百年間のポルトガル支配ののち、1999年には中国に返還されています。
 オランダのアジア貿易の拠点はジャワ島のバタヴィア。現在のジャカルタです。オランダはこの周辺の島々を支配し、オランダ領インドネシアを形成します。これが、現在のインドネシアという国の原型となりました。民族も言語も宗教もバラバラの島々が一つの国になっているのは、オランダ支配の名残といえるわけです。
 正解は③。

解答番号23
 「アメリカ大陸で産出された銀」に関連して、16世紀にアメリカ大陸で大量の銀を産出した鉱山として正しいものを選ぶ。
①クスコ
②ポトシ
③アンボイナ(アンボン)
④ゴア
 ①クスコはインカ帝国の首都。インカ帝国をピサロが滅ぼし(1533)、その旧領はスペイン領となります。ここでスペインが発見、開発したのがポトシ銀山。16世紀後半大量の銀をヨーロッパにもたらしました。メキシコから太平洋を渡って、スペイン領フィリピン・マニラに運ばれ、アジア貿易でも使われた。メキシコ銀と呼ばれます。日本の生野銀山産出の銀とともにアジア貿易の活況をもたらしました。
 ③アンボイナは、インドネシア・モルッカ諸島。オランダ商館がありました。アンボイナ事件で有名。④のゴアはインド西海岸。ポルトガルの拠点でした。

解答番号24
 中国の税制を振るいものから順に並べる。
a 地丁銀制
b 両税法
c 一条鞭法
 基本の中国制度問題。地丁銀制は清。両税法は唐の後半(安史の乱後)。一条鞭法は明。したがって順番は、b-c-aで④が正解。

解答番号25
 「保護関税」にかんして、a、b二文の正誤の組み合わせで正しいものを答える。
a 清は黄埔条約によって、イギリスに対する関税自主権を失った。
b イギリスは穀物法によって、輸入穀物に対する関税を撤廃した。
 アヘン戦争後に中国が結んだ不平等条約として南京条約(1942年)が有名ですが、これをみて、アメリカとフランスが清朝に迫って同様の条約を結びます。これが1944年に結ばれたアメリカとの望厦条約と、フランスとの黄埔条約。aの文は「黄埔条約」=「イギリス」ですから、間違い。
 穀物法は、1815年にイギリスで制定された法律で、穀物の輸入を制限するものです。目的はイギリス国内の地主を保護するため。保護貿易政策といいます。安い外国産穀物は輸入されないので、安い穀物を求める都市の住民がこれに反発します。新しく成長してきた産業資本家層は、自由貿易を求めて廃止運動を展開。1846年に廃止されました。コブデンとブライトによっておこなわれた反穀物法同盟は試験に頻出です。bの記述は正反対で誤り。
 正解は④「a-誤 b-誤」。

解答番号26
 ビスマルクについて述べた正しい文を答える。
①ロシアと再保障条約を結んだ。
②フランクフルト国民議会を開いた。
③ユダヤ人に対する文化闘争を展開させた。
④積極的な海外進出を目指す「世界政策」を打ち出した。
 ビスマルクは19世紀後半のヨーロッパの大政治家で、さまざまなところで顔を出します。彼の最大の仕事はドイツの統一とドイツ帝国の建設。それに付随して国際問題にも関わります。
 ビスマルクはプロイセンの政治家。出身はユンカーとよばれるプロイセンの地主貴族階級。だいたいプロイセンの政治家・軍人はユンカー出身です。
 1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世から首相に任命され、ドイツ統一を託される。かれがドイツ統一のためにやるぞと宣言したのが「鉄血政策」。鉄は武器、血は兵士。つまり戦争でドイツ統一をすると言った。やがて軍備を増強して、鉄血政策を実行に移します。オーストリアと共同出兵して、デンマークとの係争の地であったシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方を奪います。これは小手調べ。次に、オーストリアと戦い(プロイセン=オーストリア戦争、1866年)、1867年に北ドイツ連邦を形成。1870年にはプロイセン=フランス戦争で、北ドイツ連邦に加入していなかった南ドイツの諸邦も巻きこんでフランスと戦い、1871年、オーストリアを排除した形でドイツを統一、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝として、ドイツ帝国を建てました。
 ドイツ帝国は、プロイセンによるドイツの統一でした。プロイセンはルター派新教の国であったので、カトリックの勢力の強い南ドイツでは、新生ドイツ帝国政府の政策に対する反発が強かったため、ビスマルクは反プロイセン的なカトリック勢力を弾圧します。これが文化闘争です。また、マルクスの弟子のラサールなどを中心にして、社会主義勢力も力をつけてきたので、社会主義鎮圧法でこれを弾圧しました。
 外交面では、「フランスの孤立化」を目標とします。プロイセン=フランス戦争でフランスを破って生まれたドイツ帝国に、フランスは恨みを抱いています。アルザス・ロレーヌ地方もフランスから奪っています。ビスマルクが最も恐れたのが、対ドイツ復讐に燃えるフランスが、第三国と同盟してドイツに宣戦することでした。そこで、フランスが第三国と同盟を結ばないように「フランスの孤立化」を目指したわけです。具体的には、フランスが同盟を結びそうな相手に、先手を打って近づいて同盟を結ぶ。その結果、結ばれたのがオーストリア・ロシアとの三帝同盟(1873年)、オーストリア・イタリアとの三国同盟(1882年)、ロシアとの再保障条約(1887年)でした。
 もうひとつ、外交面でビスマルクが心がけたのが「ヨーロッパの安定」。ドイツは国内整備に集中すべきであり、他国との戦争に関わったり巻きこまれたりするべきではないと考えたビスマルクは、平和を保つために、フランスに限らず周辺諸国で戦争になりそうな紛争の芽を摘んでいきました。その代表的な仕事がベルリン会議。露土戦争(ロシア=トルコ戦争)後に結ばれたサン=ステファノ条約(1878年)の内容に不満を持つイギリス・オーストリアとロシアの対立が深まると、ビスマルクはベルリン会議を主催し、サン=ステファノ条約に代わってベルリン条約を結び直すことによって、利害調整をおこなったのです。アフリカ分割を巡るヨーロッパ諸国の対立を調停した1884~85年のベルリン会議(ベルリン=コンゴ会議)も同様の目的の下に主催したものです。
 ドイツ国内の発展・整備に専念したビスマルクは、海外に植民地を獲得しようとは考えていませんでした。ところが、1888年に即位した新皇帝ヴィルヘルム2世は、帝国主義政策をとり、植民地獲得・海外発展を目指します。これが「世界政策」です。
 新皇帝の考えと、ビスマルクの外交政策は相容れません。結局、ビスマルクが引退してドイツは帝国主義政策に舵をきることになりました。
 ということで、ビスマルクの政策としては①ロシアとの再保障条約が正解。
 ②のフランクフルト国民議会は1848年二月革命、ウィーン体制崩壊の後、ドイツ統一を目指して開かれた議会です。ここでは、プロイセンを中心にドイツを統一しようとする小ドイツ主義、オーストリアを中心にドイツを統一しようとする大ドイツ主義が対立し、結局小ドイツ主義が主導権を取り、プロイセンをドイツ皇帝に推戴します。ところが、時のプロイセン国王がこれを拒否して、統一は流れました。プロイセン王は自由主義者の集まりである国民議会によって皇帝にはなりたくなかったのです。ドイツ統一はこの約20年後に実現しました。

解答番号27
 第一次世界大戦中の時期に起こった出来事について正しい文を選ぶ。
①フランスで、「平和に関する布告」が出された。
②ドイツ領南洋諸島が、日本によって占領された。
③イタリアのキール軍港で、水兵が反乱をおこした。
④中国で、共産党が結成された。
 第一次世界大戦中の1917年11月、ロシアで十一月革命が起こり、社会主義のソビエト政権が成立します。ソビエト政権は、すぐさま「平和に関する布告」を発表して交戦中の各国に即時停戦を呼びかけました。
 ロシアでの革命は、苦しい戦況が続く隣国ドイツに影響をあたえました。ソビエト(評議会)にあたるレーテと呼ばれる組織がドイツ各地で作られ、ドイツも革命前夜の様相となります。1918年11月にはキール軍港で水兵が即時講和を求めて反乱をおこし、皇帝ヴィルヘルム2世は亡命。こうしてドイツは休戦協定を結び戦争は終結しました。
 社会主義となったロシアのソビエト政権は、1919年、世界の革命運動・民族独立運動を推し進めるための組織コミンテルンを作り、コミンテルンの影響のもと中国では1921年に中国共産党が結成されました。1920年のインドネシア共産党、1922年の日本共産党の結成も、コミンテルンの影響によるものです。
 ①はフランスではなくロシア、③はイタリアではなくドイツ、④は第一次世界大戦の後の話、ということで正しいのは②。
 日本は日英同盟にもとづいて、第一次世界大戦がはじまると、連合国側で参戦。中国山東省にあった青島のドイツ軍基地、太平洋にあったドイツ領南洋諸島に侵攻し、それらを占領しました。ドイツ領南洋諸島は、第一次世界大戦後、日本の委任統治領となりました。

(2012/07/28記)

世界史講義録 トップページに戻る