世界史講義録 現代史編

 09-1 第三勢力の台頭 アジア=アフリカ会議

平和五原則

 1954年、インドの首相ネルーと中国の首相周恩来が、共同で「平和五原則」を発表しました。中国は国家主席が毛沢東、首相が周恩来ですよ。
 戦後世界の大きな枠組みとして、植民地の独立がありましたね。インドはイギリスから独立したばかりで、まさしくこの植民地から独立したグループの筆頭格。このグループを第三勢力という。独立したばかりのインドは、アメリカチームでもソ連チームではありません。(あまり知られていませんが、独立後のインドは社会主義主義的な経済体制をとっていました。アフリカ諸国も含め、第二次世界大戦後の独立国には似たような経済体制を取る国が多くありました。あくまで社会主義「的」です。)建国したばかりの中華人民共和国は、社会主義国であり、ソ連チームなのですが、自力で社会主義国家を建設したので、東欧の国々のようにソ連の子分ではない。そういう意味ではソ連チームに属しながらも第三勢力にも属していると言う立ち位置です。
 そしてこのインドと中国が平和五原則を発表した。「いま世界は西側チームと東側チームによって仕切られ、両陣営は対立しているけれども、私たち独立したばかりの第三勢力は、両チームの対立や利害からは一歩距離を置いて国家建設をすすめるのでそれを邪魔しないでね」というのが平和五原則の中身です。
 具体的内容としては、領土保全と主権の尊重、不侵略、内政干渉反対、平等と互恵、平和共存、です。 中身を全て覚える必要はありませんが、この内容が目指している方向は理解してください。この時にベトナムにはフランス軍がやってきてインドシナ戦争やっていた。朝鮮戦争は終わったばかり。旧宗主国が独立したばかりの国々の再植民地化をめざしてやってくる危険性は十分あるし、様々な内政干渉を行ってくる可能性がある。また、独立したばかりの国々が東西対立に巻き込まれる可能性もある。先進国はこの平和5原則を守って、われわれの国家建設を妨害するな、と世界に向けて訴えた。
 何度もいうけれども、アジアの、ちょっと前まで植民地だった国々が、世界に対して物申すということ、中国とインドの首相が世界にアピールするということ自体が事件でした。第三勢力が国際社会の舞台に躍り出てきた、という事件です。  周恩来はこの先も名前が出てきます。大事な人なのでしっかりと覚えておいてください。

アジア=アフリカ会議

 ネルーと周恩来が平和五原則を訴えた翌年、第三勢力の国々が一同に会して会議を開きました。1955年、アジア=アフリカ会議です。インドネシアのバンドンで開かれたのでバンドン会議とも呼ばれます。
 主催したのはインドネシアの大統領スカルノ。インドネシアも第二次世界対戦後オランダから独立したばかりの国でした。スカルノは独立運動をおこなってきたインドネシア国民党のリーダーで、独立後大統領になっていた。アジア=アフリカ会議の参加国は29カ国。ここで 反植民地主義など平和十原則を採択しました。
 前にも話したことがあったかもしれませんが、この人がデヴィ夫人の旦那さん。第二次世界大戦後、スカルノ大統領はしばしば来日しました。両国の経済関係など、昼間の正式な会議が終わった後は、日本の外務省の役人たちが、スカルノ大統領をはじめとするインドネシアのVIPを接待する。銀座の超高級クラブに連れて行く。そこにはきれいなお姉さんたちがたくさんいる。ただ美しいだけでなく、教養もあって機転もきいて、英語もペラペラ、そういう非常にランクの高いホステスさんがいっぱいいるクラブです。彼女たちは単なるホステスではない。外務省の役人たちは事前に彼女たちにいい聞かせているわけです。どんな偉い政治家でも、お酒を飲んで綺麗なお姉さんに接待されていれば、いい気持ちになっては気が緩む。繊細な政治的情報をうっかり漏らすかもしれない。どんな話をしたか、しっかりと覚えて伝えろよ、と言い含められたホステスさん達です。その中に後のデヴィ夫人となる日本人の女の子がいた。何回かそのクラブに通ううちに、スカルノ大統領はすっかり彼女が気に入って、一緒にインドネシアに来て自分の妻にならないかと、求婚したわけです。スカルノはイスラム教徒なので四人まで奥さんがもてる。すでに奥さんがいたのですが、空席があったのでそこに彼女が入った。美しいし、頭も良いので一番愛された。のちに、スカルノはクーデタで失脚したのですが、多分ものすごく莫大な財産を譲られていると思います。たまにテレビに出ていますが、そんなことしなくても十分なセレブです。今はどうか知りませんが、かつてはパリ在住でしたね。若い頃の写真を見るとやはり綺麗ですね。決して恵まれた家庭の出身ではない。努力して今の地位を掴んだ女性ですね。

 バンドン会議に引き続いて、1961年に似たような会議が開かれます。 第1回非同盟諸国首脳会議。東ヨーロッパのユーゴスラビアで開かれました。場所はベオグラード。主催はユーゴスラビア大統領ティトー。ユーゴスラビアは社会主義の国だけれども、ソ連とはちょっと距離を置いていると以前にいいましたね。

 もう一度いいます。西側のアメリカチームと東側のソ連チームが対立している。新しい独立国がどんどん出来ています。これらの国々は、東西の争いに巻き込まれて自分たちの国の発展を阻害されたくない。独立したばかりのまだまだ貧しい国々です。これから発展していくためには、冷戦に巻き込まれて、ベトナムや朝鮮半島みたいにはなりたくない。だからちゃんと平和五原則守ってね、平和十原則守ってね、ということです。

 だからこの非同盟諸国首脳会議でも、同じような事を再確認しています。 平和共存、民族解放、植民地主義の打破などです。
 これはその時の写真。 右側がティトー。左がネルー。中央がエジプト大統領ナセルです。この人はまた後で話します。当時ブイブイいわせていた人物です。当時、彼ら第三勢力のリーダーは、世界の主役でもありました。

アフリカ諸国の独立  1960年代を中心にアフリカ諸国の独立が続きました。
 その前には、1957年、ガーナがイギリスより独立します。指導者はエンクルマ。
 1958年、ギニアがフランスから独立。指導者セク=トゥーレ。覚えておくのはこれくらいで良いでしょう。
 この後、1960年は「アフリカの年」と呼ばれ、カメルーン[仏領]、コンゴ[ベルギー領]など17カ国が独立しました。
 アフリカの地図を見るとわかりますが、これらの独立国は皆サハラ砂漠の南に位置します。いわゆる ブッラク・アフリカです。黒人の国々です。アルジェリアやモロッコなどはアフリカではありますが、サハラ砂漠の北に位置している。民族はアラブ系です。黒人の国々ではない。そこに注意しておいてください。ヨーロッパ人から見て最も野蛮で遅れていると考えられていた黒人の国々も独立していくということです。
 ガーナはブラックアフリカで独立した最初の国なので、試験にはよく出ます。エンクルマも頻出ですね。当時、世界的に名の知れた指導者となりました。コンゴのムルンバも有名だった。
 ヨーロッパ宗主国は、これらの国々の政治的独立を認めるのですが、地下資源の豊富な旧植民地に対して、経済的にちょっかいを出してくる旧宗主国はけっこうあった。そのせいで内戦がはじまる国がたくさんあった。コンゴのムルンバも、すぐ内戦が始まって、ベルギーに操られた勢力によって捕まえられて処刑されてしまった。平和五原則も、平和樹原則も、非同盟諸国首脳会議の呼びかけも、アフリカではあからさまに無視されています。
 アフリカ諸国は、建国した後も困難が続く。現在もアフリカには政治が安定しない国々が多いのですが、こういうところに遠因があると思います。
 また、アフリカの地図を見たらすぐわかりますが、国境はほぼ直線です。自然に人々が住んでいる範囲に国境線を線を引けば、直線にはなりません。 ヨーロッパの国々が適当に直線を引いて植民地の境界を定めた。その境界線を国境線にして各国は独立していた。 この国境線は現地に住んでいる人々の暮らしを全く無視したラインです。一つの民族が国境線で分断されてしまっていたり、一つの国の中に大きな民族集団が複数存在していたりすることが、数多くある。だから独立した後、民族独立を求める内戦や、民族差別が原因となった虐殺とか、しばしば起きるのです。
 1963年には独立したアフリカの諸国が集まってアフリカ統一機構を設立しました。植民地支配の排除を目指すことを大きな目的としていますが、結果としてあまり機能していないようですね。

 2021年08月07日

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