こんな話を授業でした

世界史講義録

 第10回   古代ギリシア(2) 
目次 1ペルシア戦争
2ペリクレス時代
3スパルタの国政
4ポリスの衰退

 

1ペルシア戦争

 アテネ民主政治の第二段階はペルシア戦争(前492~前479)です。
この戦争を通じて、武具を買えない貧乏平民も政治参加できるようになります。
ペルシア戦争は、あのアケメネス朝ペルシアが、ギリシアに侵攻してくる、それをアテネなどのポリスが迎え撃つ戦争です。

戦争のきっかけは、ペルシア支配下のギリシア人の反乱でした。ペルシアの支 配下に入っていたイオニア地方のミレトスというポリスがペルシア帝国に反乱 を起こした。この反乱はすぐに鎮圧されるのですが、アテネがこれを援助して いたことにペルシアの大王は激怒する。ダレイオス一世です。ペルシアは絶頂 期ですね。

ペルシア帝国から見ればギリシア世界はちっぽけなモノですが、この策動を見 逃しては、しめしがつかないとでも考えたのかも知れません。
年表の期間中(前492~前479)ずっと戦争をしていたわけではなくて、 断続的に何回かの戦闘がありました。最初の大きな戦いが前490年、マラト ンの戦いです。

 これは、マラソン競技のもとになったので有名ですね。ペルシア軍に勝利した ニュースを早くアテネに伝えようと、一人の兵士が戦場からアテネの町まで走 りに走って息絶えたという話。でも、この話は作り話です。
実際のマラトンの戦いはこんなふうです。
マラトンというのはアテネの北東約30キロにある海岸の地名です。エーゲ海 に突き出たアッティカ半島の、アテネとは山を越えた反対側の海岸です。
ここにペルシア軍3万人が上陸します。
アテネも全軍が出動してこれに対峙しました。アテネ軍9000、これに他の ポリスからの応援が1000、合計1万の重装歩兵がギリシア連合軍です。
ギリシア最強の陸軍国スパルタは、満月以前に出陣してはいけないという掟に 従って出てきません。こういう非合理的なところで生きているのがまた、魅力 的ではありますね。

ギリシア軍は海岸に布陣したペルシア軍から1500メートル離れて布陣しま す。
ペルシアの戦法はまず、弓兵、弓ですね、これを敵に打ち込んで混乱させてか ら白兵戦に持ち込むんです。
だから、弓が届かないところに布陣するんだね。
そして、戦闘開始とともに重装歩兵達は弓の射程の中を全力で走り抜けました。
重装歩兵の突撃に慣れないペルシア側は算を乱して海上に逃れた。アテネ軍の 死者は192名、ペルシア軍は死者6400名と伝えられています。この時の アテネの将軍がミルティアデス。細かい知識だけど入試には出る。

さて、このあとなんです。ペルシア軍が退却したのはいいけれど、アテネ側が 冷静に考えると、この段階で全アテネ軍はマラトンに出陣しているのでアテネ 市はまったくの無防備なわけです。ペルシア軍が半島を回り込んでアテネに上 陸進攻してきたら必ず街は落とされます。そこで、重装歩兵1万は、重たい装 備をつけたまま山越えをしてアテネまでの30キロを駆け続ける。
ようやくアテネに戻ると、なんとか間に合っていました。
案の定ペルシアの軍船が半島を回り込んでやってきましたが、さっき闘ったア テネ軍がもうこちらの海岸に戻って布陣しいるのを見て引き上げていった、と いうのが実際のマラトンの戦いです。
このときのペルシア側の戦い方を見ていると、無理をしていない。ペルシアに とっては小手調べ、といった感じですね。

マラトンの戦い図

前490年 マラトンの戦い

 その10年後、今度はペルシアの大王クセルクセス自ら軍隊を率いて攻めてき ました。今度は本気です。30万の陸軍に海軍1000隻の兵力でした。
この大軍はダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島を南下してきました。これ を迎え撃ったのがスパルタ軍を中心とするギリシア軍7000。あまりにも少 ないね。オリンピアの祭りでみんな集まらなかったらしい。ただ、このスパル タ軍は最後の一人まで戦い抜いて全員玉砕しました。これが、テルモピレーの 戦い(前480)です。この戦いの指揮を執ったスパルタ王レオニダスは後々 まで讃えられました。
テルモピレーの防衛線を突破したペルシア軍はギリシア本土に怒濤の進撃をし、 あちこちのポリスを攻略していきます。アテネも例外ではなくて、ペルシア軍 に占領され町は破壊されました。

ところで、その前の段階でアテネの指導者達は例のデルフォイの神殿の巫女さ んにお伺いをたてていたのです。ペルシア軍が攻めてきたらどうしたらよいか、 ってね。
その時の神託がこうだった。
「町も神殿も焼け落ちるだろう。しかし、木の壁に頼る限り、難攻不落であ る」
この神託をどう解釈するかで指導者達の意見は分かれたんです。
「木の壁」とは何か、ですな。
当時アクロポリスの上のパルテノン神殿は木で造られていました。もともとア クロポリスというのは戦争の時の最後の砦なので、「これはアクロポリスに立 て籠って戦えというお告げだ」と考える人たちと、「木の壁」とは船のこと である、と考えるグループがあった。船も木造ですからね。
結局「船グループ」の意見が勝って、この日に備えてアテネは軍船を大量に建 造していました。
ペルシア軍がアテネを占領したときには女子供は離れ小島に待避していて、男 達は最後の海戦に備えて準備万端だったわけです。

バルカン半島関連図

前480年のペルシア戦争

 当時の軍船は三段櫂船といいます。船の先端に衝角という鉄のかた まりが付いていて、これを敵船の横にぶつけて穴をあけて沈めてしまう、とい うのが海戦のやり方。
船の機動力が高い方が勝ちますから、スピードアップのためにこぎ手がたくさ んいた方がいい。そのために櫂を三段にしてこぎ手をぎっしり乗せる。一隻の 乗員が200人で、こぎ手が180人。
普通は誰が櫂を漕いだかというと、これはどうも奴隷らしい。つらくしんどく 危険な仕事ですからね、なにしろ船が沈んだら自分も死んでしまうわけです。

さて、アテネは軍船を200隻造りました。単純計算で乗組員全員で4万人要 ることになるんですよ。誰が、この船に乗り込んで漕ぐのか。このときに漕ぎ 手となったのが、それまで戦争に参加することが出来なかった貧乏平民です。
アテネを守るためにこの奴隷の仕事を買って出ます。武器自弁が出来なくても 身体さえあれば船を漕げますからね。
彼らは自分たちのポリスを守るための戦いですから、士気は抜群です。
一方のペルシア海軍の漕ぎ手は奴隷。しかも、アテネ側はペルシア海軍を狭い サラミス湾に誘い込みます。アテネのすぐ沖の海ですから、海流とか暗礁がど こにあるかとか、そういう事を知っているアテネが有利。というわけで最後の このサラミスの海戦でペルシアは負けます。

 このときペルシアのクセルクセス大王は最終勝利をその目で見ようと岬の上か ら観戦していた。そうしたら自分の海軍が次々に沈んでいくんだ。クセルクセ ス、思わず「しまった」と膝を打ち、退却命令を出し、真っ先にギリシアから 逃れていきました。
陸上は制圧しているのに何故逃げるかというと、ギリシアは山国でもともと食 糧に乏しいから、ペルシア軍の兵糧の現地調達は難しい。ペルシア軍30万の 兵糧は、海上輸送するつもりだったんですよ。その海軍がやられてしまって制 海権をアテネに握られたらギリシアに遠征した30万人は飢えて死んでしまう わけです。

このあと残存ペルシア軍とギリシア軍の戦いなどあるのですが、基本的にはサ ラミスの海戦で決着はつきました。
サラミスの海戦を指揮したアテネの将軍がテミストクレス。その後大いに羽振 りを利かせますが、のちに陶片追放でアテネを追われてしまいました。どこに 亡命したかというとそれがペルシアなんですよ。ペルシアも懐が深いね。
ちなみにこのときのペルシア海軍作戦会議の第一序列がシドン王、第二序列が ティルス王だった。この戦争、海上貿易をめぐるフェニキア対ギリシアの争い という面がありそうです。

三段櫂船

ペリクレス像

三段櫂船

ペリクレス(前495?~前429)

 さて、戦争が終わってみるとサラミスの海戦で活躍した漕ぎ手、貧乏平民の発 言力が増すんですね。俺達が漕いだから勝てたんだ!俺達にも参政権を!とい うわけです。
また、いつペルシアが報復戦を仕掛けてくるか判らないわけですから、彼らの 要求をのまざるを得ない。こんなふうにして、すべての市民に参政権が与えら れることになりました。
貧乏平民という言い方をしてきましたが、これを格好良く言うと「無産市民」 財産のない市民という意味です。

2ペリクレス時代

 アテネ民主制発展の最終段階がペリクレス時代(前443~前429)です。
ペリクレスというのは人名です。はい、この人。頭に重装歩兵のヘルメットを 載せているね。この人あだ名が「デカ頭のペリクレス」。頭が異常に大きかっ た。だからそれをごまかすためにちょいとヘルメットを載せて彫像を彫らせた とも言われています。頭が大きすぎて被れなかったのかもね。
ともかく、このペリクレスの時代にアテネの民主制は完成します。また、この 時代アテネそのものの絶頂期でもあったのでその時代の指導者の名をとって、 ペリクレス時代と呼んでいます。

民会、これが国政の最高機関です。18歳以上の男子市民による直接民主政。
財産に関係なく誰でも民会に参加できました。民会は今の日本で言えば国会だ ね。今の国会の審議はどうも気に入らない、一言物申したい、と思って私が国 会に行っても中に入れてくれません。私、国会議員じゃないからね。国民に選 ばれた者が国政について話し合う今の仕組みは「間接民主制」。アテネは直接 民主政、ここがポイント。どちらが民主主義として理想かと言えば、誰でも物 申せる直接の方がよい。そういう意味でこのアテネの民主政は一つのお手本で あるわけです。

もう一つのアテネの政治の特徴は、公職担当者を抽選で選んだ点です。
今で言えば総理大臣も裁判官も役人もくじで選ぶ。くじに当たったら誰でもそ れをやる。
これはいいことかどうか。少なくとも役人は自分はエリートだからと威張らな いだろうね。たまたまくじで選ばれただけだから。だから腐敗もない。現代の 官僚制と比較してそういう点は評価できるのだと思います。現在の政治経済は 非常に複雑だから、抽選制を今実施することは不可能です。私が日本銀行総裁 にあたっても何をしたらいいか全然分かりませんね。この時代はポリスの規模 も小さいし、それほど複雑な行政制度でもないので抽選でやれたんです。アテ ネの人々はこういう政治制度を誇っていました。ある意味では徹底的に公平で す。

政府の公職はくじで選んだのですが、例外があった。それが将軍です。戦争の 指揮というのは、誰でも出来るものではない。ある種の才能や人望が必要です。
もし無能な者が将軍になって戦争に負けたら取り返しがつかない。だから将軍 職は選挙で選びました。ペリクレスはこの将軍職に15年連続して選ばれたの です。その地位からアテネの政治を指導したわけ。
だから完全に平等のように見えてもやはり指導者は必要だったんですね。

 古代ギリシア民主主義の陰の部分を見ておきましょう。
ギリシアは奴隷制度の社会です。奴隷制の上に成り立った民主主義だったこと を忘れてはなりません。
このころのアテネの人口を見てみると、市民が18万。奴隷が11万くらいで す。この奴隷は喋る家畜です。人間としての権利など全くない。この奴隷に働 らかせて、ぶらぶらしている市民達の民主政です。
もう一つ、市民でも女性は権利ありません。女は子供を産む道具です。民会な んかには出られない。それどころか、男達からは対等な人格を持った存在とは 考えられていなかった。対等な人格がないんですから愛も生まれないの。男は 女を可愛がりますが、たとえて言えばそれは私たちがペットの犬を可愛がるの と同じようなものです。
じゃあ、男は誰と愛し合うかというと、当然男と愛し合う。戦場で一緒に隊列 組んで生死を共にするんだから、愛が芽生えるのも当然かもしれません。愛の 形というのは時代と共に変わるんですよ。

市民18万中民会に参加できる成年男子人口は4万人。奴隷もいれれば、全人 口約30万人中の4万だけが参政権を持つ。そういう民主政だったわけです。

 民会はどのくらい開かれたかというと年間40回くらい。だいたい一週間に一 回の割合です。結構多いね。4万人全員が参加するわけではなくて、参加者は だいたい6000人位だったらしい。これがアゴラ(ポリスの中心にある広 場)に集まって、わいわいがやがや。でも、6000というのはすごい数です ね。これがどんなふうに議論できたのか、ちょっと想像できませんね。弁の立 つものが順番にスピーチをしていたんでしょうかね。

ペリクレス時代のアテネはギリシア諸ポリスのリーダーでもありました。サラ ミスの海戦でペルシア軍は撤退しましたが、またいつ攻めてくるか分からない。 そこで、諸ポリスは対ペルシアの軍事防衛同盟を結成しました。これをデロス 同盟といいます。アテネはデロス同盟の盟主として全ギリシアに号令する立場 についたのでした。

3スパルタの国政

 ここで、スパルタの話をしておきましょう。スパルタはアテネと並ぶギリシア の大国ですが、アテネのような民主政は発達せずギリシア世界の中でも特殊な 国造りをしました。

スパルタには三種類の身分がありました。一番上に立つのが支配者であるスパ ルタ人、これが市民です。その下にペリオイコイと呼ばれる人々。ペリオイコ イは軍事的な義務はありますが参政権がありません。不完全市民です。一番下 がヘイロータイ。事実上の奴隷です。ヘイロータイが農業をします。スパルタ は広い領土を持っていて、割合に平地も多い。この農村に住んでいるのが奴隷 身分のヘイロータイです。

スパルタがアテネなどと比べて変わっているのはこの奴隷の人口が非常に多い ところでした。
アテネの市民は18万、奴隷が11万。市民の方が多い。
スパルタは、市民が2万5千人。奴隷が20万。圧倒的に奴隷人口の方が多い んです。この奴隷が団結して反乱を起こしたら2万5千人では負けるね。2万 5千人で20万人を押さえつけるためにはどうしたらよいか。
スパルタ人は非常に単純な答えを出します。スパルタ人一人ひとりが滅茶苦茶 に強くなればよい、とね。
そこで、スパルタ人は幼い時から非常に厳しく子供を育てました。厳しい子育 てをスパルタ教育と言うでしょ。ここから来ているんですね。

 まず、赤ちゃんが産まれる、ここからスパルタ教育は始まる。長老がやってき て、赤ん坊をチェックするんだ。五体満足か?健康に育ちそうか?
障害があったり虚弱だったりしたらタイゲトス山に捨ててしまう。育てない。
7歳になると男の子は親元から引き離されてみんな合宿所に入れられます。こ こから男ばかりの集団生活が始まります。男ばっかりで一緒に起きて、一緒に 飯食って、一緒に身体鍛えて、また一緒に飯食って、一緒に寝るの。
何歳までこの生活をするかというと30歳までです。嫌だねー。
30歳になると家庭生活が許されるんだけれども、やはり夕食は家で食べない。
男達が集まって共同食事をするんです。これをしないと市民の資格を奪われて しまいます。
だから、スパルタでは一家団欒の夕食というのはない。
こんなふうな生活をしながら、肉体を鍛えていきます。男達同士の団結はもの すごいものになる。お互いみんな気心が知れあっている。これが密集隊を作っ て戦場に出てきたら他のポリスは太刀打ちできない。スパルタ陸軍はギリシア 最強でした。

成人の儀式ではこんな話も伝えられています。スパルタの少年は13歳位で成 人の儀式を迎えます。その年齢になった少年は短剣一本だけを渡されてスパル タの町を追い出されるというんです。金も食糧も何も持たせずに1年間放浪の 旅をしなければいけない。食糧はどうするかというと、「奪え!」といわれる。
具体的には近郊には農村が広がっていてそこには奴隷身分のヘイロータイが住 んでいる。彼らから食糧を奪うんです。ヘイロータイが抵抗したら殺してかま わない。
ヘイロータイからすれば、常に年頃の少年が短剣を持ってうろついていて、何 時襲ってくるか分からない。こんなふうにしてヘイロータイにはスパルタ人に 対する恐怖心を植え付け、少年は放浪を通じて立派な戦士に成長する、という のです。

女の子は合宿生活はないですが、やはり集められて肉体の鍛錬をしました。こ れは立派な戦士を産むため。
要するに、スパルタは社会全体が戦争モードのポリスでした。
このようなポリスの在り方はギリシア全体から見たら特殊です。

4ポリスの衰退

 このアテネとスパルタが戦争をします。
これがペロポネソス戦争(前431~前404)です。

アテネはデロス同盟の盟主としてギリシアの指導的立場に立つんですが、その やり方は他のポリスの反感を買うようなことが多かった。例えば、これ、現在 のアテネですが、アクロポリスの上にパルテノン神殿が建っていますね。この 大理石の立派な神殿はペリクレス時代に造られたものですが、この建設費は実 はデロス同盟の資金を流用しているんですよ。デロス同盟は軍事同盟ですから、 加盟ポリスから軍資金を集めてる、これをアテネはペルシア戦争で破壊された 自分の町の復興のために使ってしまうんだ。
当然、他のポリスは反感を持ちますわな。

その筆頭がスパルタだったわけ。
スパルタは自国を盟主とするペロポネソス同 盟という同盟のリーダーでした。
このギリシアの両雄がギリシア全土の覇権を賭けて衝突したわけです。

 細かい経過は省きますが、最終的にスパルタが勝ってアテネは降伏。
アテネに代わってスパルタが覇権を握りますが、これも長続きしません。

関連地図

関連図

次に覇権を握ったのがテーベというポリス。
このテーベに、エパミノンダスという人物が登場し急速に勢力を伸ばしてきま した。彼は、斜線陣という新しい戦法を編み出して前371年にレウクトラの 戦いでスパルタ軍を破ります。
覇権はスパルタからテーベに移りました。

斜線陣 斜線陣

テーベは密集隊を1,2,3のように斜めに配置し、1の部隊は隊列を厚くする。1の部隊が最初に敵軍と衝突、突破し後ろに回り込み2,3の部隊と共に敵軍を包囲する。

 こんな具合にギリシア内部で次から次へと戦乱が続いていくんです。
ギリシア世界が全体として衰退してしまいます。
まずは農業が荒廃していく。例えば、ペロポネソス戦争の時に陸軍では劣るア テネは籠城戦をするんですが、アテネ市を包囲したスパルタ軍はアテネ近郊に 広がる畑、そこのオリーブやブドウの木を切り倒してしまうのね。米や麦だっ たら一年草だから、刈り取られても翌年は収穫できるけれど、果樹は切られて しまったら次に苗木を植えても収穫できるまでには何年かかかるわけでしょ。
こういう農業荒廃です。戦争が終わってもすぐに回復できるわけではない。
農業経営者の中産市民はこれで没落する者が出る。収穫なければ収入ない、農 地を売る、財産を処分する、最後には重装歩兵の武具を売る。そこまで没落す る市民も出てくるんですね。

 さらにこのころの政治は衆愚政と呼ばれます。民主政の腐敗堕落したものです。
愚か者が集まっている政治という意味ですね。
民主政と見た目で違いはありません。政治に関わる市民達の考え方の違いだと 考えてもらったらいい。ポリス全体の事を考えるのではなくて、目先の自分の 利益を第一に考える、そんな者達の民主政です。

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世界軍事史―人間はなぜ戦争をするのか 小沢郁郎著。 ペルシア戦争だけでなく、洋の東西を問わず、古代から19世紀に至るまでの、主要な戦争の軍事技術、戦略と、それを生み出した社会体制に言及した名著。
著者が高校教師だったためか、かゆいところに手が届くような、教師にとっては「おいしい」本。本当は、誰にも教えたくない私の「ネタ」本です。
ちょっと高いですが、世界史教師には充分おつりが来ること請け合い。


第10回 古代ギリシア2 おわり

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