世界史講義録
  


第101回  東南アジアの動向

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東南アジア地域の概観
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 ヨーロッパ列強による東南アジアへの進出についての話です。時代は19世紀以降。東南アジアについては苦手の人が多いので、どんな地域なのかざっと見ておきましょう。

 東南アジアは島嶼(とうしょ)部(=大小さまざまな島からなる部分)と大陸部に分かれます。現在、島嶼部の大部分ははインドネシアに属しています。大陸部は、西からミャンマー(ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナム。マレー半島にはマレーシア、その先端の島がシンガポールですね。
 マレー半島をのぞく大陸部の国は、川と結びつけて覚えてほしい。
 ミャンマーはイラワディ川、タイはチャオプラヤ川、カンボジアとラオスはメコン川、ヴェトナムはホン川。それぞれの国はこれらの大河流域に生まれました。これらの大河の多くは、中国の雲南地方に源があります。


 そして大河に沿って、中国雲南地方から南下してくる民族移動の流れがあります。たとえば、タイの主要民族はタイ人ですが、中国雲南地方にもタイ族がいて、このタイ族の一部が長い時間をかけて南下してできた国がタイです。また、ヴェトナムは現在は南北に細長い国ですが、もともと北部のホン川流域にいたヴェトナム人がじょじょに南に領土を広げて現在の領域になったので、かつては、南部にはチャム人の国がありました。

 東南アジアの歴史に最初に登場するのは、「港市国家」とよばれる国々です。インド人などの貿易船が立ち寄る港を支配する現地の首長が、港湾施設や市場を整備して、これが発展して生まれた国家です。
 熱帯雨林の海岸線や河川流域に港市国家が点々とあって、その国の王様の権力が及ぶ範囲がその国の領土。その時々のよって、国の勢力範囲はのびたり縮んだりします。現在の地図を見ると、はじめから大きな領土を持った国があったように思いがちですが、そうではない。港市国家と港市国家の間には、誰も住まないジャングルがひろがっているというのが、17世紀くらいまでの東南アジアのイメージです。
 以上のようなことを頭に置いて、具体的に見ていきましょう。

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ミャンマー
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 イラワディ川流域に最初に登場する国はピューという。建てた民族はピュー人。8世紀から11世紀くらいまでつづきました。

 この国をほろぼしたのがパガン朝。イラワディ川中流のパガンを都にして栄えます。ミャンマー最初の統一王朝とされます。民族はミャンマー人。スリランカから上座部仏教を導入しました。雲南地方とベンガル湾をむすぶ交易で繁栄しましたが、元の侵入が原因で1287年に滅びました。

 13世紀から16世紀にかけて、イラワディ川下流地域にはモン人のペグー王国がありました。モン人は、チャオプラヤ川下流でも7~8世紀にドヴァーラヴァティーという国をつくっています。ドヴァーラヴァティーは、港市国家連合だった。モン人は、ミャンマーからタイにかけて、海上貿易で活躍した民族のようです。

 ペグー王国を滅ぼしてできたのがトゥングー朝(1531~1752)。ミャンマー人とモン人の連合国家でした。パガン朝につづく、ミャンマー二度目の統一王朝で、一時はタイのアユタヤを支配したこともあります。

 トゥングー朝がモン人の反乱のため滅亡したあと、ミャンマー人が建国したのがコンバウン朝(1752~1885)。清朝支配下の雲南地方に侵入したり(1765)、タイのアユタヤ朝を滅ぼしたり(1767)と、軍事的には活発です。1822年にはインドのアッサム地方を征服しますが、これがきっかけとなり、その2年後1824年にはイギリスとの第一次イギリス・ビルマ戦争が始まりました。イギリス・ビルマ戦争は、1852年の第二次、1885年の第三次と断続的につづき、1885年にコウバウン朝は滅ぼされ、ミャンマーはインド帝国に編入されました。


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ヴェトナム
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 ヴェトナムの歴史は大きく北と南に分かれ、北には中国の影響を受けながらヴェトナム人国家が、南部にはチャム人の国家が形成されてきました。

 まず、南部にあったチャム人の国家チャンパー。2世紀頃に成立し、15世紀後半にヴェトナムの黎朝に滅ぼされました。南シナ海貿易で繁栄し、中国の歴史書には、林邑(りんゆう)とか占城(せんじょう)という表記で登場します。文化的には、インド文化の影響を大きく受けています。東南アジア地域は、北部ヴェトナムを除いて、インド文化の影響が強いですね。
 チャンパーは黎朝に滅ぼされましたが、チャム人は少数民族として、現在もヴェトナム南部に住んでいます。

 北部は、東南アジアで唯一中国文明の影響を強く受けました。前214年、秦の始皇帝によって、現在の広西省、広東省からヴェトナム北部にかけて南海郡、象郡など3郡が設置されました。秦が衰えると、南海郡の漢人が自立して、南越国が成立しましたが、漢の武帝はこれを滅ぼし、前111年、ヴェトナム北部に、交趾(こうし)郡、日南郡など3郡を設置しました。
 このあと、唐が滅ぶ10世紀前半まで、中国の王朝が変わっても、ヴェトナム北部は中国の支配下でした。その中でA.D.40年のチュンチャク、チュンニ姉妹の反乱は、ヴェトナムの独立反乱として有名。独立はできませんでしたが、指導者のチュンシャク、チュンニの姉妹は、現在ヴェトナムでは民族的英雄です。

 10世紀になると中国から独立し、11世紀にはヴェトナム北部を統一する王朝が成立しました。
 最初に成立したのが李朝(1010~1225)。王朝名も人名も、中国文化の影響を受けて漢字で表記します。李朝は治水によってホン川デルタを開発した。
 次が陳朝(1225~1400)。この時代に、漢字をもとに、ヴェトナム独自の文字であるチュノムを作りました。また、北方からの元の侵入を撃退し、南ではチャンパーを圧迫し、領土を南にのばしました。これには、南シナ海貿易に参入しようという意図があったようです。
 陳朝が衰えたあと、1407年から1427年にかけて、ヴェトナムは再び中国明朝の支配下に入りますが、1428年、黎(れい)朝(1428~1789)が成立し、独立を回復しました。
 黎朝は、中国風の国家建設をおこない、儒教を柱に、律令を整備し、科挙を実施しました。1471年には南にあったチャンパーを滅ぼしています。
 しかし、16世紀には内乱で衰え、黎朝の王は名目だけの存在となり、北部は鄭氏、南部は阮氏という武人が実権を握りました。阮氏政権は領土をさらに南に拡大し、カンボジア領だったメコンデルタ地帯までを支配下に入れました。
 また、この頃には、オランダ、ポルトガル、フランスなどの商人や宣教師がヴェトナムにやってくるようになっています。ちなみに、日本は戦国時代で、南蛮貿易が活発におこなわれていたときですね。

 この鄭氏、阮氏を倒し、黎朝を滅ぼし、ヴェトナムを再統一し、ほぼ現在と同じ領域を支配したのが、西山(タイソン)朝(1778~1802)です。西山(タイソン)党という山岳地帯から起こった反乱軍が建てた王朝です。反乱軍のリーダーが阮氏三兄弟。阮氏政権の阮氏とは全く関係ない。ややこしいです。

 そして、1802年、この西山朝を倒して成立したヴェトナム最後の王朝が阮朝。また、阮です。ややこしいです。この阮朝を建てたのは、阮福映という人で、これは、西山朝に倒された阮氏政権の関係者。
 阮福映は、阮氏政権崩壊後、タイ王国に亡命し、タイ国王やフランス人宣教師ピニョーという人物の援助を受けて、ヴェトナムで政権を奪還したのでした。ピニョーは亡命中の阮福映と出会い、かれを援助することで、東南アジアにキリスト教王国を建設しようと考えました。ピニョーは、まだ4歳だった阮福映の息子を連れてフランスに帰国、国王ルイ16世と会って、ヴェトナムからの領土割譲と引き替えに軍事援助の約束を取り付けました。フランス革命のわずか2年前、1787年のことです。
 このあと、ピニョーはヴェトナムに戻るのですが、フランスのインド総督と対立し、実勢にはフランス軍の援助は得られませんでした。そこで、、ピニョーは独力で義勇軍を編成し、阮福映に協力しました。(ただし、ピニョーは、阮朝成立直前に死んでいます。)

 フランス人ピニョーの協力によって、阮福映が阮朝を建てたというのは、教科書には必ず出てきます。
 ところが、阮朝は、建国後すぐに、中国清朝を宗主国として、西洋諸国に対しては事実上の鎖国体制をとった。中国を中心とする伝統的な東アジアの国際秩序に納まってしまうわけです。フランスの援助を得ていながら、どうしてそういうことが可能だったのか。高校時代、このところを習った時に、疑問に思ったのを覚えていますが、ピニョーの援助=フランス政府の援助ではなかったのです。ピニョーも建国時には死んでしまっているし、阮福映としては、フランスに義理立てする必要は全然なかったわけです。

 ちなみに、阮朝に対して、清朝は越南国という名前をあたえました。この越南というのは中国の南にある国という意味で、ヴェトナムという国号はここから生まれました。それ以前は、やはり、中国王朝が付けた大越という名で呼ばれていました。

 この阮朝が成立して約60年後、フランスでは、ナポレオン3世の時代になり、かれは積極的に海外で軍事行動をおこなうのですが、その標的となったのがヴェトナムでした。阮朝ではキリスト教を禁じていたにもかかわらず、密入国したフランス人宣教師の活動が途絶えることがありませんでした。阮朝政府は、しばしば宣教師を弾圧処刑していたのですが、これがナポレオン3世の出兵の口実となりました。
 1858年、フランス軍が中部の港町ダナンに上陸して侵略は始まりました。阮朝は、成立当初から国内各地で反乱が絶えず、軍事的には弱体でした。したがって、フランス軍を撃退することができず、1862年、サイゴン条約を結び、ヴェトナムの南東部をフランスに割譲しました。

 フランスは、次にメコン川をさかのぼり、中国南部との通商路を開こうと考え、1863年にはメコン上流にあるカンボジアを保護国化します。ただ、メコン川探検の結果、途中に滝とかの障害が多く中国に到達することは不可能だとわかります。それならば、ホン川からならば中国へいけるのではないか、ということになり、次は北部ヴェトナムを得るために、阮朝への侵略戦争はつづきました。
 この時、劉永福という人物が率いる中国人義勇軍「黒旗軍」が、ヴェトナム政府のためにフランス軍と闘っています。有名ですので、覚えておいてください。
 この少し前、中国では太平天国の乱という大反乱が起きます。劉永福たちは、この反乱軍の一部隊で、反乱が鎮圧されたあとヴェトナムに逃れてきていたのです。劉永福は、さらにこのあと、台湾に渡り、日本軍とも闘っています。国境を越えて、帝国主義国の侵略に抵抗した象徴的な人物として取り上げられているようです。

 結局、阮朝はフランス軍に破れ、1883年、ユエ条約でヴェトナム全土がフランスの保護国となってしまいました。

 清朝は、ヴェトナムの宗主国でした。近代的な支配従属関係ではないけれど、清朝は阮朝の保護者的立場に立っている。宗主国とは、本家と分家で言えば本家、本社と支社で言えば本社みたいなものです。清朝はヴェトナムがフランスの保護国になったのを黙って見過ごすわけにはいかない。
 そこで起こったのが清仏戦争(1884~85)。結局清朝が負けて、1885年の天津条約で、ヴェトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を承認しました。

 1887年、フランスは、ヴェトナムとカンボジアをあわせてインドシナ連邦としました。1899年には、ラオスもインドシナ連邦に編入されました。第二次大戦中の日本占領下の一時期をのぞき、1945年までフランスはこの地域を植民地としたのでした。

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カンボジア
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 カンボジアの主要民族はクメール人といいます。クメール人の国家として最初に登場するのが扶南国(ふなんこく、1~7世紀)。メコン川の下流にありました。この国にオケオという港があって、その遺跡からはローマの金貨が出土します。インド方面と活発な商業活動をしていたことがわかります。

 6世紀になるとメコン川中流域で、扶南国の属国だった真臘(しんろう)が独立し領土を拡大します。これも、民族はクメール人。中国の歴史書に出てくる国名で表記しているので中国っぽい感じがしてしまいますが、文化はインド系でヒンドゥー教を取り入れていました。7世紀には扶南国を滅ぼし領土を拡大しますが、8世紀には分裂します。

 9世紀に再統一されますが、そこからは真臘とは呼ばず、クメール王国とかアンコール朝と呼びます。有名な仏教寺院遺跡アンコール=ワットや首都アンコール=トムは、このときに建設されたものです。大規模灌漑工事による農業開発もおこない12世紀前半に最盛期を迎えました。
 しかし、13世紀前半に西北のタイ人が独立しスコータイ朝を建国すると、じょじょに衰え、14世紀になるとタイのアユタヤ朝になんどか首都アンコールを占領されます。1432年にアユタヤ朝に侵略されたときには、ついにアンコールを放棄し首都をプノンペンに移しました。それ以後は、衰退の一途をたどり、タイやヴェトナムに圧迫され、両国に朝貢して二つの国の属国のようになってしまいました。
 やがて、ヴェトナムがフランスの勢力下にはいると、カンボジアにはタイの属国になるかフランスの保護国になるかという選択肢しかなくなり、1863年にはフランスの保護国になってしまったというわけです。

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タイ
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 タイは、中国雲南地方から南下してきたタイ人が国家を形成します。
 最初の国が、スコータイ朝(13~15世紀)。真臘に従属していたタイ人達が自立した国です。

 スコータイ朝が衰えたあとに成立したのがアユタヤ朝(14世紀~1767)。チャオプラヤ川中流に建国されました。国王が貿易を独占管理して、西欧諸国や中国とも積極的に外交・通商をおこないました。外国人達は、アユタヤの王を商人王と呼んでいて、この国も港市国家と考える研究者もいます。
 アユタヤ朝はミャンマーのコウバウン朝に滅ぼされました。

 次に成立したのがバンコク朝(別名ラタナコーシン朝、チャクリ朝)(1782~)。現在までつづく王朝です。
 首都がバンコクなので、一般的にはバンコク朝と呼びます。
 バンコクは、18世紀末で人口約40万。その半数は中国人で、タイ人は三割に過ぎなかったという記録があります。この時期の中国は、人口が爆発的に増加していて、あふれるように中国人が華僑(華人)として、どんどん東南アジアに移住しているようすがわかっておもしろいです。彼ら華僑の多くは王の保護のもとで貿易に従事していたとおもわれます。

 バンコク朝の貿易は国王に独占されており、西欧の商人の貿易は制限していましたが、1855年、イギリスとの間にボウリング条約を結んで開国をしました。これは、治外法権を認める不平等条約でした。このときの国王がラーマ4世(モンクット王ともいう)。タイは、もともと米の輸出国でしたが、この条約を結んだあと、イギリスの要求に応えて米の輸出を増やすため、未開拓だったチャオプラヤ川のデルタ地帯の開発がはじまりました。開国後の50年で50万ヘクタール近くが水田となり、輸出量は1857年の5万9千トンから、1907年には89万トンに激増、さらにこの後も増え続けました。何が言いたいかというと、西欧列強が中心となる世界経済の中で、米の生産輸出国として位置づけられたということです。タイから見れば、植民地にされないよう、世界情勢の変化に必死に対応していったということです。
 ラーマ4世は、自分自身が英語を学ぶなど、積極的に西欧の諸制度を研究し、王子の教育にはイギリス人女性を家庭教師にやといました。この家庭教師の話が、『王様とわたし』という有名なミュージカルのモデルになっていて有名です。
 次の王ラーマ5世(チュラロンコン王)は、日本の明治時代とほとんど重なります。タイ政府の近代化を進めて、タイの独立をまもりました。中央集権化もすすみ、地方長官を派遣して辺境地域の領土を確定するのもこの時代です。

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インドネシア
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 東南アジアの島嶼部で、オランダの植民地となった部分が現在インドネシアという国として独立していますが、オランダに支配されるまではさまざまな国がありました。ごちゃごちゃしていて、流れが系統だってもいないので、非常に覚えにくい。

 よく出てくるのが、スマトラ島を中心とするシュリーヴィジャヤ(7~14世紀)。マラッカ海峡を押さえる場所にあり、貿易船のルートとなり繁栄しました。
 インドまで海路で旅した唐の僧義浄(ぎじょう)が書いた『南海寄帰内法伝』に登場して有名。

 ジャワ島ではシャイレーンドラ朝(8世紀)。有名な石造りの仏教寺院の遺跡ボロブドゥールを残した国です。
 ジャワ島ではもうひとつシンガサリ朝(1222~92)。この国は元の侵入を撃退したということで教科書に登場します。
 ジャワ島の三つ目がマジャパヒト王国(1293~1520?)。スマトラ島のシュリーヴィジャヤを圧倒し、東南アジア交易を支配した。それから、島嶼部最後のヒンドゥー教の国ということでも大事です。マジャパヒト王国以後は、島嶼部にはイスラーム国家が成立していきます。

 16世紀以降になると、この地域にポルトガル、やがてオランダが来航します。オランダは、1623年のアンボイナ事件で、イギリス勢力を追い払いインドネシアでの貿易を独占しました。しかし、17世紀以降は、過剰供給でヨーロッパでのコショウ価格が暴落し、香辛料貿易中心の商業活動だけではもうからなくなってきた。そこで、オランダはジャワ島を中心に、ヨーロッパで高く売れる商品作物の栽培をおこなうようになった。
 そのためにおこなったのが、強制栽培制度です。1830年以降、オランダは、コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物の栽培をインドネシアの農民に強制したのです。耕地の5分の1に強制がおこなわれ、その結果、食糧生産が少なくなります。オランダは莫大な利益を得ましたが、1845年からの凶作では多数の死者が出ました。
 1904年、オランダはインドネシア全域を占領し、植民地オランダ領東インドが成立しました。

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マレー半島
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 マレー半島には、14世紀にマラッカ王国が成立します。これが東南アジア最初のイスラーム国家です。これ以後、小さなイスラーム国家が半島に多数成立していきました。マレー半島は、マラッカ海峡に面する海上交通の要所なので、マラッカ王国は貿易港として繁栄しますが、1511年ポルトガルによって占領されました。その後、1641年にはオランダがポルトガルから奪い、1795年にはイギリスがさらにオランダから奪いました。
 イギリスは、1786年にペナン島、1819年にはシンガポールを獲得し、マラッカと併せて1867年に海峡植民地としました。1895年には、さらに領土を拡大してマレー連合州としました。現在のマレーシアにあたります。
 イギリスは、マレー半島で錫高山の開発をおこない、労働力不足を補うために、中国人やインド人の移民が多数集められました。そのため、原住民であるマレー人とインド系、中国系などさまざまな民族が混住する複合社会が形成されました。





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