世界史講義録
  


第102回  アヘン戦争(前編)

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18世紀後半の清朝
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 康煕帝、雍正帝、乾隆帝と三代つづいた清の最盛期については、以前やりました。18世紀後半、乾隆帝の時代には、清の領土は最大となり、現在の中国よりも広い地域を支配しました。経済は繁栄し、人口は爆発的に増加しました。18世紀後半に中国の人口は2億を突破し、その後も増加をつづけました。辺境地域、山岳部の開拓や、東南アジアへの移住が進むのもこの時期です。
 1795年、乾隆帝は在位60年で退位します。これは、尊敬する祖父康煕帝の在位61年を越えることをはばかったためでした。跡を継いだのは嘉慶帝(かけいてい)。乾隆帝の息子です。


 嘉慶帝は決して無能ではありませんでしたが、乾隆帝の引退と同時に、いろいろな問題が表面化してきました。たとえば、乾隆帝のながい在位の間に、官僚の腐敗が進んでいたようで、嘉慶帝は、父乾隆帝が死ぬと、乾隆帝のお気に入りだったことをいいことに、不正蓄財していた官僚を処罰しています。
 また、1796年には大規模な反乱が起こっています。嘉慶白蓮教徒の乱という。白蓮教は、暗黒の現世に救世主が現れて光明の世界を実現するという教えを持ち、仏教やマニ教の影響を受けて生まれた中国独自の民間信仰です。白蓮教はいろいろな系統があるようで、救世主は、弥勒仏や地母神みたいなものだったりするらしいです。明を建てた朱元璋が参加していた紅巾の乱も、もともと白蓮教の反乱が母体でした。朱元璋が国号を「明」としたのは、光明の世界を実現するという白蓮教の教えの影響を受けていたからだ、という説もあります。清の時代にも、民衆の間で白蓮教の信仰がつづいていたわけですが、このときの反乱は、山間辺境地域に移住した民衆が起こしたもので、白蓮教に対する役人の弾圧と重税が直接の原因でした。この反乱は、1804年までつづく。清朝の支配体制が動揺し始めている、というわけです。

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清朝の貿易制限策
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 清朝は18世紀後半から貿易制限策をとり、欧米諸国との貿易は広東省の広州一港に限定していました。
 さらに、イギリス商人がとりひきする相手は、清朝政府の許可を得た特権商人に限定されていました。この中国側の特権商人を公行(コホン)と言います。十三の商人に限られていたので広東十三行ともいった。イギリス商人は、好きな相手と自由に取引が出来ない状態だったわけです。
 また、イギリス人などの商人が滞在する外国人居住区を広州の一区画に限定されていました。

 このあたりは、江戸幕府が海外貿易を長崎に限定し、オランダ人商人を出島に隔離したのと同じです。基本的に西欧人の文化に対する違和感、警戒感があって、できるだけ接触したくないという感覚があったようです。

 さて、清朝と積極的に貿易をしていたのはイギリスでした。イギリスは、中国からほしいものがたくさんあった。その代表が、茶、絹、陶磁器です。
 特に茶は重要で、イギリスの国民飲料紅茶は、中国から輸入するしかない。インドで茶を栽培するようになるのは、19世紀の後半になってからです。イギリスは中国で茶を買い付け、どんどんイギリスに運んだ。プリントにある絵は大型高速帆船カティーサーク号です。プラモデルで好きな人は多いかも知れない。こういう、スマートな船に茶葉を満載して、新茶を一番にイギリスに運ぶためのレースがおこなわれたりもしました。

 当時国際貿易の決済は銀でおこなわれていましたから、イギリス商人は中国から買い付けた商品の支払いを銀でおこないます。イギリス側は、中国に売る商品がない。というか、中国側は、買ってくれないので、イギリスは銀を支払うばかりで、清とイギリスの貿易は、一方的にイギリスの貿易赤字がつづきました。もし、中国側がイギリスからも、なにがしかの商品を買ってくれれば、一方的にイギリスが損をすることはない。
 イギリスには中国で売りたいものがありました。それは、綿工業製品です。産業革命が進展し、綿織物工業はその中でも特に発展していた。イギリスの産業資本家は、その製品を世界中で売りたい。人口の多い中国は、絶好の市場として期待されました。
 そこで、イギリスは中国に綿工業製品を買ってもらうための交渉をおこないました。1793年、イギリスはマカートニー使節団を清朝に派遣しました。乾隆帝時代の末期です。マカートニーは、乾隆帝に面会して、綿工業製品の販売拡大のため貿易制限の廃止を求めた。
 このときの乾隆帝の答えはこうでした。わが清朝は「地大物博」、つまり、領土は広大で、どんなものでもある。だから、お前の国イギリスから買いたいものなど何もない。現在、広州でイギリスと貿易をおこなっているのは、お前たちイギリス人が中国のお茶や生糸を欲しいとほしいと望むから、かわいそうに思って恩恵として貿易をしてやっているのである。それなのに、調子に乗って、綿製品を買ってくれとはどういう事か。文句があるのなら、現在おこなっている貿易をやめてしまうぞ。それでも、中国は全然困らないのだ。と、まあ、こんな感じだった。マカートニーは、そういわれると返す言葉もなく、すごすごと引き返すしかありませんでした。
 この段階で、清朝とイギリスとでは、清朝側が上手にたっているんですね。

 マカトーニー使節団の交渉が失敗したあと、1816年、イギリスは再び貿易制限撤廃を求めてアマースト使節団を派遣しました。このときの清の皇帝は嘉慶帝。このとき、アマーストは貿易交渉をするどころか、嘉慶帝に面会すら出来なかった。実はこのとき、清朝側は、皇帝に面会するに当たってアマーストに「三跪九叩頭礼(さんききゅうこうとうれい)」を要求した。これは、臣下が皇帝に謁見するときにする礼で、両膝を三回床につく。これが、三跪。そして、一回ひざまずくたびに、三回頭を床にこすりつける。これが叩頭。三回ひざまずくので、叩頭の回数は、合計九回。で、この礼を「三跪九叩頭礼」といいます。
 伝統的な中国の世界観では、中国と対等な国は世界に存在しない。全て中国王朝より格下です。だから、どの国の使者であろうと、清朝皇帝のまえでは、臣下の礼をとらなければならない。その建前にたって、清の役人は、嘉慶帝に謁見したかったら、「三跪九叩頭礼」をおこなえと言う。アマーストは、自分はイギリス国王の臣下ではあるが、清朝皇帝の臣下ではない。イギリス国王の使者である自分が、清朝皇帝にひざまずくことは、イギリス国王が、清朝皇帝にひざまずくことであって、ぜったいにそんなことはできない、と拒否しました。
 マカートニーの時はどうだったかというと、同じように「三跪九叩頭礼」を要求されたのですが、マカートニーが拒否すると、片膝を床につくだけの略式の礼で許された。乾隆帝は鷹揚なところを見せたわけです。ところが、今回はどうしてもダメ。両者折り合わず、マカートニーは最終的に何の交渉も出来ず、イギリスとしては、貿易交渉は失敗に終わりました。

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アヘン貿易
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 イギリスの望む綿工業製品の輸出はできず、対中国貿易の赤字だけが増大する。この状態がいつまでもつづくことは、イギリスにとって最悪です。綿工業製品が売れなくても、とりあえず、何かを中国に売って、貿易赤字増大だけは防ぎたい。そう考えたイギリスが始めたのが麻薬の密貿易でした。麻薬ですよ。具体的にはアヘンです。

 アヘンは「けし」という植物からとれる。けしの花が咲いたあと実がつくのですが、種が完全にできる前に実を傷つけると乳液が出てくる。これを乾燥したものがアヘンです。 これがけしの花の写真。きれいな赤と白の花が咲いている。この写真はアフガニスタンで撮影されたものです。紛争地域なので麻薬栽培で生計を立てている農家がいるんですね。日本で、この花を栽培していたらすぐ捕まります。農業試験場とか、特別に許可された農家だけが栽培しています。けしの実が完全に熟すると、小さい種がたくさんできます。これがいわゆる「けし粒」。おまんじゅうやあんパンの上についている小さなつぶつぶです。見たことあるでしょ。あのけし粒には麻薬成分がほとんど含まれていません。だから、輸入もできて、お菓子に使われているんです。ただし、種をまいて芽が出ると、これは法律違反。だから、輸入されるけし粒は、加熱処理がしてあって、発芽しないものばかりです。
 アヘンを精製してつくるのがモルヒネ。現在、病院で麻酔や鎮痛剤として使っています。ただ、麻薬なので、慎重に使わなければダメだし、管理も厳格です。

 アヘンを吸うと、夢見心地のいい気持ちになるといいます。走り回ったり、叫んだりというような活動的になるのではなくて、だらーっと寝そべる。気持ちよく寝ているが、麻薬だから、クスリが切れるとたまらなく苦しくなるし、やがては脳が冒されて廃人になってしまう。
 中国ではアヘンが流行し出すと、アヘン窟(くつ)といって、アヘンを吸飲させる専門店がたくさんできた。そこでアヘンを吸っている人の写真です。ゴロッと横になってパイプを吹かしている。こんな風に専用のパイプに詰めて煙にして吸っていたんだ。

 話をもどしますが、イギリスは、このアヘンに目をつけた。昔でも、麻薬は禁止です。清朝でもイギリスでも許されてはいない。だから、犯罪行為なのですが、これをイギリスはやる。密貿易で中国にアヘンを販売する。アヘンは麻薬だから、中毒性がある。簡単にやめることはできない。一度アヘンの快楽を知った者は、ずっとアヘンを買いつづけるし、吸飲が流行して中毒者が増えれば増えるほど、イギリスは儲かるわけです。
 イギリスは、このアヘンの生産をインドでおこないました。インド農民にけしを栽培させ、アヘンを生産し、これを中国広東に運び密輸する。この販売自体は、ズバリ犯罪行為なのでさすがに東インド会社は直接おこなわず、民間業者にゆだねました。密輸品のアヘンを広州港に持ち込めないので、イギリス商人は、沖合の島影にアヘン貯蔵専用の船を用意して、ここにアヘンを蓄えました。そこに中国の麻薬販売業者が舟でやってきて、海上で取引がおこなわれた。支払いは、銀です。
 イギリス側は、中国人の好みに合わせて、アヘンの味なども改良を加え、中国でのアヘン貿易はどんどん発展してイギリスの対中国貿易の柱となっていきました。

 その結果、イギリス、インド、中国のあいだで、三角貿易が成立しました。
 イギリスからインドへ綿工業製品が、インドから中国へアヘンが、中国からイギリスへ茶が輸出されます。この商品の流れと逆方向に銀が移動する。イギリスが買う茶よりも、中国が買うアヘンの金額が大きくなれば、イギリスの貿易は赤字から黒字になるわけです。実際に、1827年には、アヘン貿易が茶貿易を逆転しています。
 プリントの表を見てください。中国流入アヘン量(年平均)が書かれていますね。
1800~1804年 3,562箱
1810~1814年 4,713箱
1820~1824年 7,889箱
1830~1834年 20,331箱
*1箱=約60㎏
1820年代くらいから急増しているのがわかります。

 アヘン貿易は中国にどんな影響をあたえたか。
 まずは、アヘン貿易の拡大にともなって、銀がどんどん中国から国外へ流出していきました。中国の貿易赤字の始まりです。
 しかも、清朝の税制である地丁銀制では、税を銀で納めることになっていた。農民であれば、農作物を売って銀に換えて税金を支払う。ところが、アヘン貿易による銀の大量流出で、中国国内の銀価格が高騰しはじめます。たくさんの農作物を売っても、以前のように銀が手に入らない。税金を納めるのが苦しくなるわけです。事実上の増税です。銀の高騰は、諸物価もつりあげ、民衆の生活を圧迫するようになりました。
 一方で、清朝政府としては、税金の滞納未納が増えて、物価高とあわせて財政難に陥りました。

 また、アヘン中毒患者の増加は、風紀の乱れ、治安の悪化を招きました。アヘン中毒患者の推定数があります。1820年36万人。1829年100万人。1845年3000万人。当時の中国の人口がだいたい4億人。だから、中毒患者3000万人ということは、7.5%。一クラス40人として、クラスで3人が麻薬中毒ということだから、これはすごい数だね。
 中毒患者は、何がなんでもアヘンを買って吸いたい。だから、一所懸命働こうと思うわけはないから、財産を切り売りしてアヘンを買う。家、土地を売って、売るものがなくなったら、女房子供を奴隷に売る。最後は、犯罪に走ってでもお金を手に入れるようになる。麻薬が蔓延するということは社会が崩壊するということです。アヘン貿易は、中国社会をそういう状態に追い込んでいきます。

 アヘン貿易は、インドにも被害をもたらしました。これは、以前にも話しましたが、飢饉の増大という形で現れました。インド農民は、イギリスによってけしの栽培を強制されるわけで、その分、食糧生産が減少するわけです。
 イギリスにも影響があった。インドでのアヘン生産が中国販売用としても、大量にアヘンをつくってイギリス国内に入ってこないわけがない。この時期、イギリスにもアヘンが一般的に広がっていたようで、貧しい労働者の妻が、お乳を欲しがってなく赤ん坊に、アヘンを水に溶かしたアヘンチンキを飲ませていた、というのを読んだことがあります。低賃金で、お乳も出ないほどの苦しい生活をしていても、アヘンなら買えたんですね。
 『シャーロック・ホームズ』シリーズ知っていますね。イギリスの作家コナン・ドイルが19世紀後半に書いた探偵小説ですが、子供向けに翻案したものではなくて、ちゃんとした翻訳を読んだことありますか。主人公ホームズは何か事件があると生き生きと行動するのですが、何もないときは倦怠感に浸っている人物です。小説を読んでいると、事件がないときに、刺激をもとめてホームズがモルヒネを注射しているシーンが出てくる。どうも彼は麻薬中毒という設定じゃないかな。モルヒネはアヘンから精製する。『ホームズ』シリーズにはインド帰りの人物がしばしば登場するし、インドを支配しアヘン貿易をおこなっていた当時の大英帝国の状況を知っていると、いちいち腑に落ちるものがあります。



第102回 アヘン戦争(前編) おわり

こんな話を授業でした

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