世界史講義録
  


第103回  アヘン戦争(後編)


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厳禁論と弛禁論
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 清朝政府はアヘンにたいする禁令を繰り返し出していましたが、あまり効果はなかった。密貿易がおこなわれている広州では、清朝がわの官僚や軍人はイギリス商人に買収されていて、実際には禁令は形式だけになっていたのです。清朝政府も、本気でアヘンを取り締まる姿勢はなかった。首都北京から見ると、広州は実に遠い。辺境地域です。だからこそ、広州でのみ外国との貿易をしていたわけだ。辺境地域で、少々麻薬密貿易があっても、中央政府がしゃかりきになるような問題ではないと考えていた。
 ところが、1830年代になって、アヘン貿易による銀の流出、財政の悪化、中毒患者の増大と、さまざまな問題がはっきりしてくる。軍隊内部や皇室関係者にもアヘン中毒患者が出てくる。こうなると、さすがに清朝政府内部でアヘン問題に対しての議論がさかんになってきました。



 アヘン問題に対する意見は大きく二つに分かれました。
 ひとつは弛禁論(しきんろん)。禁令をゆるめよ、という意味です。アヘン貿易をきびしく取り締まるのをやめて、逆に、公認しようという立場です。
 アヘン貿易を公認すれば、輸入アヘンに税金をかけることができ、政府の収入が増える。。銀の流出を止めるためには、銀での取引を禁止して、物々交換で輸入すればよい。また、国内でけしの栽培を奨励して、自国でアヘンを生産すれば輸入を減らすことができる。アヘン中毒患者対策としては、官僚や軍人のアヘン吸飲はさすがに禁止を主張しますが、一般民間人にたいしては取り締まらない。放任することを主張しました。弛禁論者はこんな理屈を言います。アヘンを吸うような者は、みんな意志の弱いだらしない者ばかりだから、そんな連中のことを気にかける必要はない。中毒患者はやがて廃人になり死に絶える。そんな連中がいくら死んでも、中国は人口が多いのだから、どうということはない。逆に、だらしのない連中が死に絶えて、健全な中国人だけが生き残るから、かえってよろしい、と。
 これに対するのは厳禁論。その名のとおり厳しく取り締まれ、という。こちらも主眼は銀の流出をいかに止めるかというところにあるのですが、そのためにアヘン吸飲者を死刑にしろといいます。厳罰でいどめばアヘン吸飲者は減る。消費が減れば輸入も減る。輸入が減れば銀の流出も減る、という理屈です。輸入そのものを取り締まるのではなく、吸飲者を減らすところに出発点があるのが、現在の感覚でいうと少し変わっていますね。

 とにかく、有名無実の禁令が出ているだけで、密貿易はどんどんさかんになっているので、何らかの対策が必要でした。時の皇帝は道光帝(どうこうてい)。1838年、道光帝は全国の地方長官にアヘン対策についての意見書を提出させた。回答した29名中、アヘン厳禁に賛成したものはわずか8名、残り21名は厳禁に反対でした。清朝の官僚達の雰囲気がわかりますね。ここまで広がったアヘンを今さら取り締まるなんてもう無理、もうええやん、そんな感じですかね。
 そのなかで、厳禁論を主張した官僚は、このままアヘンを放置していては国が滅びるというまっとうな正義感を持った人びとでした。道光帝は、この厳禁論にひかれた。なかでも、湖広総督(湖北省・湖南省の長官)林則徐(りんそくじょ)の意見書に、道光帝は注目した。厳禁論を主張する林則徐は、ただの理論として厳禁論を言うのではなくて、具体的に取締の実施方法まで細かく提案していた。
 どんなふうにしたかというと、まず布告を出して、1年後にアヘンを吸飲したもの、アヘンやアヘンを吸飲するための道具を持っているものを死刑にすると住民に告げる。アヘン中毒になっているものは、1年以内に断ち切れ。アヘンや吸飲道具を持っているものは、自主的に役所まで差し出した者については、1年以内ならば罪に問わない、と。
 さらに、林則徐がユニークなのは密告を奨励したことです。1年経過後、アヘンを吸飲している者がいれば密告しろという。密告というのは、住民同士が監視しあい疑心暗鬼になる。社会が暗くなる。密告を奨励する政治に、ろくなものはない。林則徐は、そんなことも十分承知しているので、こんなふうに言います。密告という手段は、よくない。無実の者をでっちあげの罪で密告し、密告された者が処刑されたらとんでもないことである。ただし、アヘンの場合は無実の者が罰せられることは決してない。アヘン吸飲で密告された者を逮捕して、一日椅子に座らせておけば無実かどうかすぐわかる。アヘン吸飲者であれば、禁断症状が出るから一目瞭然。吸飲者でなければ、平然としているだろう。そうならば、すぐに釈放してやり、密告した者を逆に逮捕して罰することができる。だから、アヘン取締に関しては、密告という手を使っても大丈夫だと。
 林則徐の意見書は、論理的で理路整然としていたし、なによりも清朝を憂う気持ちにあふれていた。林則徐に興味を抱いた道光帝は、かれを北京に呼び寄せ、直接面談をすることにした。

 林則徐は、北京につくとさっそく紫禁城におもむき皇帝とアヘン問題について話し合った。道光帝は、林則徐の考えや人柄を大いに気に入り、一回の話では満足せず、明日も来い、また明日も来い、と呼びだしつづけ、二人の話し合いは連日8回に及んだ。
 しかも、呼び出すたびに、道光帝による林則徐の待遇がよくなる。紫禁城はすごく広い。広いけれど、役人達は歩いて宮殿内を移動する。まあ、当然です。林則徐もはじめは徒歩で入城し皇帝の執務室まで行くわけですが、林則徐を気に入った道光帝は、この広い紫禁城をここまで歩いてくるのは大変だろう、明日は乗馬で入城するのを許す、と言うのです。ものすごい特別待遇で「紫禁城賜騎(しきんじょうしき)」と言われ、有名なエピソードです。林則徐はこれに応えて翌日は、馬に乗って出勤、乗馬したまま紫禁城内も移動した。ところが、林則徐はあまり乗馬が上手ではなかった。道光帝は、これを見ていたらしく、明日は椅子駕籠で来い、と言う。これは八人で担ぐ御輿の上に椅子を設置したものです。馬よりもさらにランクアップです。異例中の異例。あり得ないような好待遇なわけです。当然、ものすごい話題となる。林則徐がどれほど皇帝陛下に信頼されているか、誰も知らない者はなくなるわけです。
 林則徐との話し合いを重ねて、ついに道光帝はアヘン厳禁に踏み切りました。道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し、広州に派遣しアヘン貿易の取締を命じた。欽差大臣というのは、皇帝と同等の権限を持つ大臣で、欽差大臣の命令は皇帝の命令に等しい。それくらい重い役職です。
 道光帝は、馬鹿ではないから、官僚達の多くが弛禁論者であるなかで、単純に厳禁論者の林則徐にアヘン取締をさせても、反対派の抵抗にあって手腕を発揮できないことをおそれたんでしょう。だから、乗馬や駕籠を許して、いかに皇帝が林則徐を信頼しているかを官僚集団全体に見せつけた。ここまでやられれば、弛禁論者もなにがなんでも林則徐の足を引っ張ってやろうとは思わない。まずは、静かに様子を見ておこう、ということになりますね。

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林則徐のアヘン取締戦争
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 道光帝の期待を一身にになって、林則徐は北京から広州へ出発した。この旅の途中でも有名なエピソードがあります。林則徐は、広州までの街道沿いにある府や県の長官に事前に手紙を出す。欽差大臣林則徐は、何月何日にその地域を通過するが、決して接待をするなという手紙です。宿泊したり、食事をする予定の地域の行政長官には、同行人数は何名である、食事はこれだけのものを用意すれば十分である、それ以上の料理を決して出すな、と書き送る。しかも、これは遠慮していっているのではなく、命令だから絶対守れと書き添えた。
 当時の中国では、中央の大官が、地方に出向くときは接待を受けるのが当たり前、賄賂を受け取るのが当たり前でした。地方の長官とすれば、皇帝お気に入りの大物官僚に気に入られたい、少なくとも悪印象をもたれて皇帝に告げ口をされてはたまらない。だから、全力で接待をしました。それが普通。ただ、これは地方長官にとっては大きな負担。しかも、その負担は最終的に地方住民への税金に転嫁される。地方長官を長く務めた林則徐は、そういう風習を苦々しく思っていた。そこで、自分が逆の立場になったいま、あらかじめ接待を禁じる命令を出したのです。
 欽差大臣としては、異例の簡素な旅行でした。林則徐が賄賂を受け取らない清廉潔白な人物であるということはすぐに広州にも伝わった。

 広州でアヘン貿易をやっているイギリス商人達は、アヘン取締の命を受けた林則徐という大臣がやって来るという話を知りました。でも、はじめは全然気にしていない。中国の役人は、誰でも賄賂を握らせれば形だけの取締をして、あとはアヘン貿易を黙認する。だから林則徐という役人も、賄賂でなんとかなるだろうと考えていたのです。ところが、林則徐が接待を禁止しながら広州に向かっているという情報が入ると、これは今までの役人とは違うかも知れないと考えはじめたようです。
 イギリス商人よりも、もっとビビッたのが広州の役人達です。かれらのほとんどが、イギリス人から賄賂を受け取っていた。林則徐が着任したら、自分たちはどういう目に遭うのか、もうパニックです。
 1839年、広州に着任した林則徐は、中国人アヘン商人と、その便宜を図っていた役人や軍人で程度のひどい者たちを逮捕しましたが、その他大勢の役人、軍人については、今後は心を入れ替えよということで、過去の振る舞いは不問にした。厳しいばかりではないこういう態度が、部下の気持ちをつかんで、かえって綱紀粛正が進んだようです。

 さて、林則徐はさっそくイギリス商人に対して、アヘンをすべて差し出すことと、今後アヘン貿易をおこなわないという誓約書を出すようにせまりました。広州には300人近いイギリス商人が住みんでおり、政府から派遣されている貿易監督官チャールズ=エリオットがかれらを指導していた。エリオットは、とりあえず林則徐のメンツを立ててやるために少しだけアヘンを供出して、あとはうやむやにしてやろうと考えた。1037箱のアヘンを差し出して、これで全部ですと言う。ところが、林則徐は事前にアヘンの消費量や取引量などを計算していて、2万箱近いアヘンが沖合の貯蔵船にあると踏んでいた。こんなごまかしはきかない。
 イギリス商人たちは広州城外の一角に作られた外国人居住区に住んでいたのですが、林則徐は軍隊でこの居住区を封鎖した。食糧、水を断つ、いわゆる兵粮攻めにでた。48時間の封鎖で、エリオットをはじめとするイギリス商人たちは音を上げて、結局沖合に隠してあったアヘンを全部差し出しました。その量は約2万箱、1425トン。林則徐の計算とほとんど同じだった。当時の金額で1500万ドル相当という。

 1400トンのアヘンは保管する倉庫もないくらいのものすごい量です。北京からは現地で処分しろという命令が来た。しかも、周辺住民や外国人に処分するところを見せつけてやれという命令です。
 林則徐は処分方法を徹底的に研究した。林則徐がすごいと思うのは、きちんと情報を集めて検討して、確実に仕事をこなしていくその確実さです。
 素人考えだと、処分するなら燃やすなり埋めるなりすればいいと簡単に考えてしまうけど、ものがアヘンという麻薬だけに、処理するときに有害物質がでず、処分したあとの廃棄物を回収できず、回収しても麻薬成分が残っていないようにしなければならない。焼却処分してみると、燃やしたあとの土から麻薬成分が回収できることがわかった。しかも、燃やせばアヘンの煙がモクモクと出るわけで、1400トン燃やしたらどういう事になるか。だから、焼却処分はダメ。埋めてもあとから掘り出される可能性がある。
 研究の結果、林則徐は海岸に50メートル四方のプールを二つ作った。このプールにアヘンを溶かし込んだうえに、塩と石灰を入れます。石灰は水と反応して熱が出る。この絵はその様子を描いたものですが、もうもうと湯気が立っているのがわかる。アヘンの麻薬成分は塩と石灰に弱いのでこうやって処理をした。ただ、溶け残っていたりして、無害になっていないアヘンが残っているかも知れない。そこで、引き潮のときにプールの水門を開けて、アヘンの溶けた熱水を海に流した。引き潮と一緒に水は沖合へ。ここまでやれば、もう誰も回収できません。大勢の群衆が見物するなか、20日間かけてすべてのアヘンを処理しました。

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アヘン戦争
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 アヘンの没収と処分はおわったけれど、今後もアヘン貿易をしないという誓約書が出ていない。林則徐は、イギリス商人に誓約書を要求しましたが、エリオットは断固としてこれを拒否した。それでは貿易を認めないということで、林則徐はイギリス商人を広州から追放しました。この間に、アヘン貿易と関係ないアメリカ商人は誓約書を差し出して広州でさかんに貿易をして儲けています。これを見ていて、イギリス商人のなかにも、誓約書を出して貿易をしようとする者も現れましたが、エリオットは抜け駆けを許さなかった。兵粮攻めにされてアヘンを没収されたことも許せないし、そのアヘンを全て処分されてしまったことも許せない。イギリスのメンツの問題だし、今後、アヘン貿易ができなければ、イギリスは儲からない。だから、誓約書はだせない。広州を追い出されたイギリス人たちはマカオに一時避難しますが、ここも追放され香港島周辺で状況が変わるのを待った。

 一方、イギリスでは林則徐によるアヘン没収処分のニュースが伝わると、報復のため戦争をするべきだという議論が高まった。しかし、麻薬の密輸をして、その麻薬を没収されたからといって仕返しするのは、道理がない。イギリスの政治家にもさすがにそう考える人物がいました。自由党のグラッドストンは議会でこんな演説をしている。「中国にはアヘン貿易を止めさせる権利がある。…これほど不正な恥さらしな戦争は、かつて聞いたことがない。…国旗の名誉はけがされた…。」でも、多数決の結果は開戦賛成271、反対262。1840年2月、イギリス政府は出兵を決定しました。

 林則徐はというと、アヘンを処分して以来英字新聞などを入手して、しきりに海外情勢を研究した。イギリスが報復のため実力行使にでるかもしれないと予想した。そこで、広州周辺の沿岸漁民を民兵に組織して軍事訓練をしたり、広州湾近辺の要所要所に砲台を築くなど、戦争に備えて防備を固めました。

 1840年6月、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍約4000のイギリス軍が中国に到着しました(42年5月には軍艦25隻、陸軍1万6千名などの援軍到着、うち8割はシパーヒー)。イギリス軍は、林則徐によって広州周辺の防備が固められていることを知ると、沿岸を北上、杭州湾沖にある船山列島を占領し、渤海湾に入り天津に向かいました。天津は北京に一番近い港湾都市です。アヘンをめぐるイギリスとのもめ事は遠い広州の出来事と思っていたので、イギリスの艦隊が北京に近づくと清朝宮廷はおおいに動揺した。
 林則徐の抜擢を苦々しく思っていた弛禁論の官僚たちは巻き返しに出ました。この責任は林則徐の責任である。かれを罷免しろという声が政府内で大きくなる。こういうなかで道光帝その人が、ゆれてしまった。とにかく、イギリス艦隊を北京から遠ざけたい。道光帝は林則徐を解任、かわって弛禁論の琦善(きぜん)を欽差大臣に任命し、琦善はイギリスに広州で交渉するよう要請しました。
 これを受けてイギリス軍は南下し、広州で琦善とイギリス全権使節ジョージ=エリオットの交渉が始まりました。琦善はイギリス人は林則徐を憎んでいるだろうから、林則徐がやったことを全部ひっくり返せば、イギリス人がよろこび交渉が有利に進むと考えた。そこで、林則徐が設置した砲台を撤去し、沿岸に組織した民兵を解散、要所に配置した部隊の兵員削減をどんどんすすめてしまった。イギリス側は琦善の態度をみて、なめてかかります。イギリス軍が広州への入り口を守る虎門砲台に攻撃をくわえると、琦善はイギリスの要求をどんどん受け入れた条約案を作成した。
 一方、北京の宮廷では、イギリス艦隊が広州に去ると強硬論が強まる。実に政治方針が場当たり的で節操がないです。政府は琦善が結んだ条約案を拒否し、琦善は解任、北京へ呼び戻されました。

 条約案は決裂し、広州とその周辺で清軍とイギリス軍との戦闘が始まりました。しかし、林則徐が作り上げた防衛体制はなくっているので、どこでもイギリス軍が圧倒的優勢で各地で暴行略奪やりたい放題だった。一方の清軍はというと、装備も劣るし、士気規律が全くない。近代的な国民軍ではないので、清の兵士が同じ中国人に対して暴行略奪をするんですね。しかも、イギリス軍が攻めてくると、戦わずに逃げます。
 住民たちは、自分たちの村を自衛するしかない。負けっぱなしの中国側で唯一イギリスをおいつめたのがこの農民自衛組織でした。広州郊外の三元里の農民2万人が平英団という自衛軍を組織し、イギリス軍部隊1000人を包囲するという事件がありました。
 こういう地元の住民たちを組織して戦えば、武器が劣っていても、勝つ可能性はあったかも知れませんが、清の政治家たちにはそんな発想はなかった。平英団も、広州知府(広州の行政長官)の圧力で解散させられました。これなんかは、イギリス側が広州知府に包囲されたイギリス部隊の救出を要請して、それで解散命令だから清朝の役人は誰の味方だかさっぱりわかりません。

 広州一帯を荒らし回ったあと、1841年8月、イギリス艦隊は再び北上、廈門(アモイ)、寧波(ニンポー)などを制圧し、42年5月には長江に入り、7月、大運河の入り口に当たる鎮江を占領し、大運河を封鎖したため、8月ついに清朝は降伏し、南京条約を結びました。

 南京条約の内容は、五港(上海、寧波、福州、廈門、広州)の開港、公行の貿易特権の廃止、香港島をイギリスに割譲、賠償金2100万ドルの支払い、イギリスの領事裁判権の承認、関税自主権の放棄などです。これが、中国が結んだ最初の不平等条約となりました。 五港開港は、開港場を増やすことで、中国市場をイギリスの工業製品を売り込もうという狙いです。
 この条約は、アヘン取締をきっかけに起きた戦争だったのに、アヘン貿易については一言も触れていません。イギリスにとって、麻薬貿易は不名誉なことなので、あえて条約には書かなかったと考えてください。この戦争のあと、清朝はアヘン貿易を公然と黙認(変な言い方ですね)するようになるので、イギリスにとっては事実上アヘン貿易を認めさせたのと同じ事です。
 1844年には、アメリカとフランスが、清朝に迫り同様の条約を締結しました。アメリカとの条約が望厦(ぼうか)条約、フランスとの条約が黄埔条約です。

 余談。戦争のきっかけとなった林則徐は、1841年にアヘン戦争の責任を問われ中央アジアのイリ地方に左遷されました。林則徐は腐ることなくイリでも行政官として多くの仕事を残し、民衆から慕われ長く語り継がれたそうです。没年は1850年。

 林則徐は欽差大臣を解任されたとき、広州で収集したすべての外国情報を友人の魏源に託しました。魏源はその資料をまとめて『海国図志』を著しました。この本はすぐに日本に伝えられ、幕末の志士たちが世界情勢を学ぶ貴重な情報源となりました。
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実録アヘン戦争 (中公文庫) 陳舜臣 著
決定版です。小説は長すぎるという人にはこれ一冊。
新装版 阿片戦争 (一) (講談社文庫) 陳舜臣 著 これにつづいて中、下と三冊あります。(今はキンドル版で4分冊)。 詩社という名目で政治結社的な読書人のサークルがあって、官僚を含む知識人達が政策論を練っている様子も描かれていて興味深い。勉強になる小説。


第103回 アヘン戦争(後編) おわり

こんな話を授業でした

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