世界史講義録
  


第104回  太平天国

--------------------
アヘン戦争後の中国
--------------------
 アヘン戦争後、中国南部の民衆の生活が悪化します。原因は大きく二つあります。
 ひとつは、清朝政府による重税。清朝は、アヘン戦争に関わる戦費の調達、賠償金の支払いのために増税しました。ここが不思議なところですが、清朝は、増税を全国一律でおこなわない。アヘン戦争に関連した中国南部の地域でだけ増税をおこないました。戦争で荒廃しているところへ増税だから、民衆の負担はさらに大きくなりました。
 二つめの原因が、通商交易路の変化がです。南京条約で上海が開港されると、貿易の中心が広州から上海に移りました。上海は中国の真ん中を流れる長江の下流にあり、また長大な南北海岸線のほぼ中央、まさに広大な中国大陸おへそにあたる場所です。広州は中国最南部で不便なところだから、上海に交易の中心が移るのは当然です。
 それまでは、各地の産物を広州に運ぶために、中国南部の民衆の多くが陸上運送に関わる仕事をしていたのですが、広州の港がすたれたためにかれらは失業してしまった。そこに、増税ですから、踏んだり蹴ったりなわけです。生活基盤が崩れていくという状況が広がっていました。


---------
洪秀全
---------
 生活困窮し疲弊している中国南部に、新しい宗教が生まれました。
 この宗教を作った人物が洪秀全(こうしゅうぜん・1813~64)。広西省の客家(ハッカ)出身です。
 客家というのは、中国南部に広く分布している人びとで、普通の中国人とは文化風習や言葉がちょっと違う。宋代くらいに、戦乱から逃れて中国北部から移住してきた人びとの子孫だと言われています。あとから移住してきたので、その多くが人の住んでいない山間部の荒れた土地に住みつきました。そのため、客家の多くは貧しいです。また、まわりの人びとと溶けあわず独自の文化を守りつづけたため、差別されていました。洪秀全は、そういう客家の人です。

 中国では、いくら貧しくても、一発逆転で富と名誉を手に入れる方法があった。それが、科挙です。科挙は男子であれば、誰でも受けることができる。客家でもOKです。ただ、超難関試験で誰でも受かるわけではない。ずば抜けて頭がよくないとダメ。だから、中国では、神童と呼ばれるような賢い男の子がでると、親戚中でお金を出し合って、塾に行かせて科挙の準備をさせる。もし、その子が科挙に合格して、官僚になれば一族全員が間違いなく大金持ちになれるからです。
 洪秀全は、まさしくそういう神童で、親戚みんなから期待されて、一族のみんなが朝から晩まで野良仕事をしている中で、小さい頃からひとり、勉強だけをさせられた。こういう勉強は、みんなの期待を背負っているから、つらいと思う。ものすごいプレッシャーだろうね。そういう勉強をつづけた。

 いくら優秀でも、簡単に受からないのが科挙。ちなみに、洪秀全の住んでいた地域の受験場所は広州でした。一回目の受験は当然失敗。二回目の挑戦が1834年。このときも、不合格でしたが、受験会場のそばでキリスト教のパンフレットをもらった。唯一の貿易港広州には、すでに中国人のキリスト教信者がいて、未来の官僚に布教活動をしていたんだね。このパンフ『勧世良言』という題名ですが、家に帰った洪秀全は、これを書棚に放り込んだままで読まなかった。
 1837年、三回目の受験をしますが、これも失敗。さすがにこれはこたえたようで、そのあと、洪秀全は高熱を出して寝込んでしまいました。

 高熱で苦しみながら、洪秀全は夢を見た。夢の中で竜や虎や牡鶏や多くの人に導かれて光り輝く場所に着きます。そして、案内されるままに大きな宮殿のような建物の中にずんずんと入っていくと、豪華な大広間があって高いところに金色の髭を生やした老人が座っていた。その老人が洪秀全を見て涙を流しながら言う。「世界中の人間はわしが作り、わしが養っているのに、人間たちは皆わしを忘れて悪霊を崇拝している。悪魔を絶滅し、兄弟姉妹を助けよ。」そう言って、ひとふりの剣を洪秀全に授けた。変な夢です。それ以外にも、夢の中で洪秀全が兄と呼ぶ中年の男がしばしば現れて、一緒に悪霊退治をしたりした。洪秀全は何のことかさっぱりわからない。わからないままに、やがて熱も下がり、夢も見なくなります。かれは、再び受験勉強を始めたわけですが、夢のことはずっと覚えていた。

 1843年、四回目の受験です。アヘン戦争直後の広州での受験だから、いろいろなことを感じたと思う。結果はまたもや不合格。がっくりして家に帰った洪秀全は、かつて書棚に放り込んだままだった『勧世良言』を、ふと手にとって読み始めた。そうしたらびっくりしました。かつて見た不思議な夢が、今読んでいるキリスト教のパンフレットで解釈できるとかれは思ったんだ。
 つまり、夢に出てきた老人は神。兄というのはイエス=キリスト。そして、自分は神の子で、イエスの弟だったのだ。人びとが信じている邪教というのは、儒教のことだ。孔子廟とか、さまざまな偶像をつくって拝んでいる。この偶像こそが老人が言っていた妖魔にちがいない。こんな具合に、キリスト教の教えを、どんどん自分に引きつけて解釈していきました。

 こうして、自分が神の子、イエスの弟、救世主と確信した洪秀全は、科挙の勉強を放棄し、宗教結社「拝上帝会」を興しました。上帝とはヤハウェ神のことです。
 布教活動をはじめると、最初は幼なじみの受験仲間などが信者になり、1847年ころからは広西省の紫荊山区という山間の貧しい地域で、客家・貧民・少数民族中心に信者が増え始めました。拝上帝会は、キリスト教の影響を強く受けているので、神の前の平等を説きます。これが、アヘン戦争後急速に生活が悪化した人びと、その中でも差別に苦しむ人々の気持ちをつかんだのでした。
 また、拝上帝会は偶像崇拝を否定しました。だけど、中国は偶像崇拝の国です。儒教でも、仏教でも、偶像をつくって拝むのは当たり前。でも、洪秀全たちは、それを悪だと教えるのですから、一般の中国人と馴染むはずがない。拝上帝会は、実際に行動します。村の廟に祭られている孔子様の像や、関帝廟やそういう様々な信仰の対象となっている像を壊します。やがて、土地の有力者からにらまれ、政府の役人から迫害されるようになりました。
 こうして、ついに洪秀全は地上に天国をうち立てるため挙兵を決意しました。

-------------
太平天国
-------------
 1851年、洪秀全は広西省金田村で挙兵しました。反乱の名前は太平天国。挙兵したときの拝上帝会会員は1万から2万だったといいます。老若男女を含む大集団は、清軍と戦いながら北上を開始しました。
 太平天国軍は信仰のもとに団結し、規律がきっちりと守られ、腐敗した清の正規軍よりも強かった。拝上帝会に入会し、反乱に参加した信者は全員、すべての財産を拝上帝会に寄進します。だから、負けたら何もなくなる。勝つしかないです。また、信仰心で自分たちの正義を信じているから強い。軍隊といっても、貧民の集まりですが、男女を分けて軍隊を組織して、夫婦といえども別々に行動しました。博奕(ばくち)やアヘンは絶対禁止。略奪ももちろんダメ。必要な食糧や物資は支給されました。
 戦闘に勝って、どこかの町を占領すると、役所の倉庫や地主、商人などの金持ちから、食糧・物資・財産を没収し、太平天国軍共同金庫で保管します。信者への配給品はそこから配られます。また没収した食糧などは、占領地の貧民にも配られたから、貧民の多い一般民衆は太平天国軍がやってくるのを待ちわびています。占領地に対して3年間の租税免除も宣伝したから、太平天国への支持は急拡大しました。略奪暴行やりたい放題の、清朝正規軍は民衆の支持が全くないから、清軍が負けるのは当然です。

 太平天国軍は清朝正規軍を破り、占領地を拡大しながら北上をつづけ、1853年に南京を占領し、ここを首都にして天京と改名しました。、拝上帝会の会員数は100万に達しました。この段階で中国南部の広大な地域を勢力下に置いており、清という国の中に、太平天国という国ができているという状態です。
 とはいっても、まだまだ反乱勢力であって一人前の国ではない。洪秀全たち太平天国の指導者は、清朝打倒をめざし、北伐軍を北京に出撃させましたが、これは負けてしまって、清朝を滅ぼすという目標は遠のきました。以後は、支配地域を維持しようとする太平天国側と、これをつぶそうとする清朝との戦いが約10年間つづきます。

-----------------
太平天国の政策
-----------------
 太平天国は、どんな政策をとなえていたか。
 まずは、清朝打倒です。「滅満興漢(満州人を滅ぼし漢人の国を興す)」が反乱のスローガンでした。太平天国軍の男たちは、清朝が漢民族に強制していた弁髪をやめて髪を伸ばしました。弁髪をやめるということ自体が、清朝を否定する反逆行為だったのです。だから、かれらのヘアースタイルを見ればその主張は誰にでもすぐわかったのです。このため太平天国は「長髪賊の乱」とも呼ばれました。太平天国を満州族支配の清朝にたいする漢民族の民族運動と捉えることもできます。

 また、土地制度として「天朝田畝制度」を掲げました。地主の大土地所有を否定して、土地を農民に均等に配分する政策です。ただし、戦いに明け暮れた太平天国なので、実際に土地均分が実施されたかどうかはわかっていません。

 あと、特徴的なのは、中国史上初めて男女平等を主張したことです。中国は男尊女卑の国だから、これは画期的なことです。
 男女平等に関連して、太平天国は纏足を禁止しました。
 纏足(てんそく)は10世紀の宋の時代からはじまった風習です。女の子が4,5歳になる頃から足を布でがちがちに巻いてギブスのように固めて、足が大きくならないようにするのです。成長期に固められているため、これをやられた女の子は、すごく痛い。しかし、小さい足が美人の基準だったので、親はなだめすかして子供に我慢をさせたそうです。成長とともに、足の先が内側に折れ曲がって畸形になる。大地をしっかり踏みしめられないので、立ち上がると不安定で歩くとふらふらする。極端に小さな足の女性は、何かにつかまって伝い歩きをしなければならいほどだったらしい。よちよち歩く女性の姿と小さい足が、男性にとって魅力的だったのです。要するに、男が女性を愛玩物のように扱っていたということです。ある意味、奇妙な姿に変形させる金魚並みです。この纏足を太平天国は禁止したのです。洪秀全たち太平天国の指導者の多くは客家出身でしたが、実は客家には纏足の風習はありませんでした。また、女の子に纏足をしてしまうと歩くことさえままならないのですから、労働力にならない。だから、貧しい農家などでは纏足をしていなかったといいます。実際には、太平天国に参加していた女性には纏足の女性は少なかったかも知れません。これを、太平天国は正式に纏足じゃなくて良いのだ、と宣言したということでしょう。
 太平天国軍では、女性も武器の運搬などで戦場で男と同様に活躍しました。

 さらに、これはふれましたが、アヘンと賭博は禁止でした。

---------------
太平天国の経過
----------------
 南京占領までは、破竹の勢いの太平天国軍でしたが、南京を首都にして以来、変に落ち着いてしまった。洪秀全は皇帝にあたる天王という地位につき、その他の幹部も北王、南王、東王、西王、翼王という王号をとなえ、それぞれが南京に豪華な宮殿を造り始めました。
 南京といえば、明の初期には首都にもなった中国屈指の大都会です。中国南方の辺境の、しかも貧しい客家出身の洪秀全たちは、大都会の魅力にあてられ、膨大な富を手に入れ、反乱を始めた頃のせっぱ詰まった緊張感を失ってしまったようです。 一部の軍隊を北伐軍として北京攻略に派遣しましたが、これは失敗に終わっています。もし、南京に落ち着いたりせずに、太平軍全軍で北京に攻め込んでいれば本当に清朝を滅ぼすことができたかもしれませんが、その機会を逃してしまったのです。
 太平軍の幹部は自分の富を増やし、権力をより強くすることに集中しだして、互いに仲間割れをしだします。最高指導者の洪秀全は、宮殿の奥深くに美女たちとこもってしまって、なかなかみんなの前に現れなくなってしまいます。めったに顔を見せないことによって、自分を神秘化するという作戦でもあったようです。
 諸王のなかでもっとも力を持っていたのが東王楊秀清(ようしゅうせい)で、天京(南京)を首都としての国家体制づくりの中心となっていました。東王は戦争指導もうまかったのですが、なんといっても面白いのが神が彼にとりついてお告げをするということです。東王が自分でそう言っているだけなのですが、誰にも否定できないので、彼がお告げをはじめると、みんながその命令に従わなければならない。天王洪秀全も神の命令には逆らえない。ということで、東王楊秀清は、洪秀全と並ぶ高い権威をもって太平天国を指導しました。
 東王の勢力がどんどん大きくなるのに反感を持ったのが北王だった韋昌輝(いしょうき)で、かれは自分の部隊を率いて東王の宮殿を襲撃し、東王を殺害してしまいました。東王の一族やその部隊も皆殺しです。こうして北王が権力を握ったのですが、次には北王が翼王石達開(せきたつかい)に殺されました。これら一連の事件は1856年に起きました。この内紛で3万人以上が殺されています。
 やがて、翼王石達開はこのような権力闘争に嫌気がさして、自分の部隊を率いて四川省方面に移動し独自の行動をとるようになりました。代わって、天京で洪秀全と太平天国政府を支えたのは、若い世代のリーダーで忠王という王号を持つ李秀成(りしゅうせい)などでした。太平天国の末期は、ほとんど李秀成ひとりが支えている感じです。洪秀全は、宮殿にこもったままでほとんど何もしなくなっていました。

--------------------------
太平天国を追いつめた義勇軍
--------------------------
 太平天国内部では抗争で弱体化が始まっているものの、清朝正規軍はそれよりも弱い。そこで、清朝政府は全国にいる引退した元官僚や、服喪などで帰郷している現役官僚に対して、地元で義勇軍を結成して太平軍と戦うように呼びかけました。義勇軍のことを郷勇といいます。だいたい、官僚になる人物は裕福な地主出身で、郷土に帰れば地元では名前がとどろいている地域のリーダーです。かれらが中心になれば義勇軍はすぐにできる。また、戦乱に巻きこまれれば、郷土が荒廃するし自分たちの財産も奪われてしまうのですから、義勇軍は必死に戦います。正規軍に替わって、この義勇軍が太平天国と戦いました。
 義勇軍の中で、とりわけ強力だったのが、今で言えば文部大臣にあたる礼部侍郎(れいぶじろう)だった曾国藩(そうこくはん)が郷里の湖南省で結成した湘軍(しょうぐん)です。湘というのは湖南地方の雅名です。曾国藩は、清朝軍が内部の腐敗で弱体化していることを知り尽くしていたので、自分が組織する義勇軍の将校は、腐敗や堕落と縁のない信頼できる人物だけで固めようとしました。そのためにどうしたかというと、学問上の弟子や同学の友人ばかりを集めた。科挙に合格して中央の大臣にまでなるような人物は、学者としてもひとかどの人物である場合が多く、曾国藩はまさしく大学者だったので、地元には同門の者や弟子がたくさんいるわけです。学問上の信頼関係というのは結構強い絆です。将校になる連中も、やはりみんな地主です。で、自分たちの土地で働く信頼できる素朴な農民を兵士にしました。
 湘軍は、規律ある軍隊となり、太平天国軍を圧迫していきました。また、曾国藩の弟子である李鴻章(りこうしょう)も安徽省で同じように淮軍(わいぐん)を組織しました。
 欧米列強は、太平天国の反乱が始まった当初は、太平天国がキリスト教を標榜していることもあり、わりと好意的に中立を守っていました。しかし、内乱を逃れて多くの難民が上海に集まるなどして、やがて、内乱が対中国貿易にはマイナスと判断します。1860年に貿易に有利な北京条約を清朝政府と結んだのちは、積極的に清朝支援を打ち出しました。米国人ウォードは、中国人を集めて義勇軍「常勝軍」を結成し、かれの死後は、イギリス軍人ゴードンがこれをひきつぎ太平天国軍と戦いました。ちなみに、このゴードンは、太平天国で活躍したあと、エジプトのスーダンで起きたマフディーの乱とよばれる現地住民の反英闘争の鎮圧におもむき、戦死しています。
 これらの義勇軍によって太平天国は徐々に支配地域を奪われ、1864年、南京が陥落し太平天国は滅亡しました。最後まで、神の奇蹟による逆転勝利を信じていた洪秀全は、その直前に病死していました。忠王李秀成は捕虜となり処刑されました。翼王石達開はその後もしばらく単独で戦いつづけましたが、これもやがて鎮圧されました。

----------------
太平天国の意義
---------------
 太平天国の反乱は、清朝政府の弱体ぶりを明らかにしました。イギリス軍に弱いだけではなかった、ということです。
 また、太平天国が、「滅満興漢」のスローガンを掲げ、民族運動的な性格を持ったことは中国革命の先駆けとして位置づけることができます。事実、のちに辛亥革命のリーダーとして清朝を倒した孫文は、少年時代に洪秀全を知る太平天国軍の生き残りの老人の話を聞いて、すっかり影響を受けて友人から洪秀全というあだ名をつけられていたといいます。また、中国共産党の軍隊である紅軍の司令官となった朱徳(しゅとく)も、少年時代に翼王石達開の部下だった機織り職人の話を聞き、革命に強いあこがれを持ちました。脈々と革命の志が受け継がれているのがわかります。
 幕末日本にも影響がありました。長州藩士久坂玄瑞(くさかげんずい)は「英仏がいまだ日本に武力を加えないのは太平軍が英仏と戦っているからだ」ということを言っています。この認識が正しいかどうかは別にして、中国の次は日本が英仏の侵略の標的になる、という危機感が感じられます。太平軍が時間を稼いでくれている間に、日本を変えなければならないということですね。この意識が、幕府を倒す強烈な原動力になります。
 一方、郷勇を組織し、太平天国を鎮圧するのに活躍した官僚達は、乱後の清朝の政界で大きな影響力を持ち、清朝の改革がはじまります。



第104回 太平天国 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第103回 アヘン戦争(後編)

次のページへ
第105回 アロー戦争・洋務運動