世界史講義録
  


第105回  アロー戦争・洋務運動

--------------
アロー戦争
--------------
 太平天国が中国南部を席捲しているとき、同時進行で、清朝とイギリス・フランスとの戦争が起こっていました。この戦争をアロー戦争、または第二次アヘン戦争といいます。この戦争の、経過と結果を見ておきます。

 アヘン戦争後の南京条約で開港場を増やしたイギリスは、このあと綿工業製品の中国への輸出が増えることを期待していました。そもそも、イギリスが一番売りたいのは、インドの農産物(?)のアヘンではなく、イギリスの工業製品なのですから。ところが、開港場が増えても、イギリスが期待したほどに綿工業製品が売れない。これは、中国産業の底力です。中国の綿工業製品は、機械制大工業のイギリス製品に対抗できるだけの価格と品質を備えていたということです。

 しかし、イギリスとしては、開港場をもっと増やせば、輸出は伸びると考えた。開港場を増やすには、新しい条約を清朝政府と結ばなければならない。しかし、基本的には清朝は欧米諸国と貿易をしたくないわけだから、開港場を増やすためにはアヘン戦争の責任をとらせる形で南京条約を結ばせたように、もうひとつ戦争を仕掛けて、清朝を負かして条約を結ぶのが一番手っ取り早い。というわけで、アヘン戦争後から、イギリスは、次に清朝に戦争を仕掛けるチャンスを狙っていました。

 その戦争のきっかけとなったのが、1856年のアロー号事件です。

 事件が起きたのは、広州の港です。アロー号という船が広州港に入港したのですが、この船が、実は海賊船であるという情報が、治安当局に入りました。そこで、広州の警察が、アロー号に乗り込んで調べてみると、本当に海賊船だったので、その乗組員12名を逮捕しました。乗組員は全員中国人です。警察が海賊を捕まえるのはあたりまえのことですし、容疑者は中国人なので、何も問題はないはずだったのですが、これにイギリスがいちゃもんをつけた。
 その理由が、この船がイギリス船籍だったことと、清朝の警察が船に乗り込んだ際に、船のポールに掲げてあったイギリス国旗を引きずりおろした、ということでした。国旗を引きずりおろしたことが事実かどうかは、どうもはっきりしないのですが、イギリス側は、イギリスに対する侮辱であると、ねじ込みました。もし、本当に国旗を降ろしたとしても、戦争の理由になるような大事件ではありません。また、アロー号がイギリス船籍だとして、そこに中国の警察が乗り込んだことを、主権侵害のように非難したのですが、実は、アロー号の船籍登録は期限切れになっていたのです。車で言えば、車検切れのようなものです。つまり、イギリス船籍ではなかった。
 しかし、イギリスは戦争をしたいので、この事件を盾にとって強引に清朝政府を責め立て、開戦に持ち込みました。いちゃもんをつけて、喧嘩をふっかけるゴロツキと同じです。

 この2年前の1856年、広西省でフランス人の宣教師が殺害される事件が起きており、フランスもイギリスと共同で清朝に宣戦しました。フランスはナポレオン3世の時代ですね。
 1857年に、インドで大反乱があったため、本格的な戦闘は57年末からはじまり、英仏連合軍が海路北上し天津に迫ると、清朝は降伏し、58年天津条約が結ばれました。この条約には、イギリス、フランスの他に、ロシア、アメリカも参加しています。条約が結ばれて、英仏軍が去ると、清朝政府内で、対外強硬派が力を持ち始めます。喉元過ぎれば熱さを忘れるというやつで、この辺の清朝政府の対外政策の一貫性のなさは、アヘン戦争以来全然変わっていません。
 59年に、英仏の使節団が、条約の批准書を交換するためにやってきたのですが、天津の近くで清朝側がこの使節団を砲撃して追い払ってしまいます。60年には、再び英仏連合軍が北上し、北京に向けて進撃しました。皇帝(咸豊帝(かんぽうてい))は、北方の熱河という町の離宮に逃亡し、北京に残された政府が連合軍と北京条約を結び清朝は、再び降伏しました。
 この時に、北京近郊にあった円明園(えんめいえん)は、英仏軍によって略奪破壊されてしまいました。宣教師カスティリオーネがヴェルサイユ宮殿を摸して設計した宮殿でしたね。現在でも、円明園の跡地は廃墟として残されています。私も、昔一度行ったことがありますが、草茫々のなかに大理石の柱の残骸がごろごろ転がっていました。

 北京条約の中身です。
 まずは、開港場の増加。天津や南京など11港を新たに開港しました。
 キリスト教の布教の自由。
 外国人の中国国内の旅行が自由になった。これによって、商人はどこにでも行けるようになりました。それまでは、開港されていた五港から出ることは出来なかったのです。
 北京に、外国公使の駐在を認めさせた。
 イギリスに九龍半島の一部を割譲。九龍半島は香港島の対岸にある半島です。現在では、一般には香港の一部として知られていると思います。
 そして、アヘン貿易の公認。アヘン戦争後の南京条約では触れられていなかったアヘンについて、ついに正式に認めさせたのです。これにともなって、清朝は民間人に対してのアヘン吸飲を認めることになりました。麻薬貿易も自由、吸うのも自由というわけです。

 この北京条約によって、中国の半植民地化は深まりました。1862年上海に密航した長州藩の高杉晋作が「上海は中国に属している土地なのに、イギリス・フランスに所属しているといってもよい」と述べるほどに中国の半植民地化は一層進んでいきました。

 忘れてはならないのは、この時期、南京を中心として太平天国の反乱が起きているということです。内側に反乱、外からは外国の侵略と、大変な状態だったわけで、不平等な条約でも結ばざるを得なかったのです。英仏にとっては、自分たちの要求を呑ませたわけですから、清朝政府にこの条約をきっちり守らせたい。そのためには、清朝にしっかりしてもらわなければならないから、これ以後、太平天国平定に力を貸すようになったわけです。

-----------------
ロシアの東方進出
-----------------
 イギリス、フランスが南方から中国をうかがうだけでなく、北からはロシアが中国清朝に対して領土的な野心をもって接近していました。
19世紀半ば、ロシアの初代東シベリア総督となったムラヴィヨフは、衰退した清朝からの領土割譲を図り、アムール川(黒竜江)を探検、占領し、1858年、清朝と愛琿(アイグン)条約を結び、アムール川以北の土地を獲得しました。同時に沿海州(アムール川の支流ウスリー川以東)を清朝との共同管理地としました。アロー戦争の天津条約を結んだのと同じ年です。
 また、アロー戦争終結の1860年には露清北京条約を結び、沿海州を獲得しました。この沿海州の南端にロシアが開いた軍港がウラジヴォストークです。この名前は「東方を支配せよ!」という意味。こうして、ロシアは東方に不凍港を獲得することに成功しました。
 この後1875年、ロシアは日本と結んだ千島・樺太交換条約で、樺太を獲得しています。どんどん東へ向かっている感じですね。
 ロシアは、東部だけでなく、中央アジアでも清朝の領土をうかがいました。1860年代に新彊地域(中央アジア)でイスラーム教徒の反乱が起きると、混乱に乗じてイリ地方を占領しました。この後、1881年、イリ条約でイリ地方は清朝に返還されました。その代償として清朝は、新彊地域の一部、賠償金、貿易特権をロシアに与えました。
 ちなみに、ロシアは、1868年には中央アジアのブハラ=ハン国を、1873年にはヒヴァ=ハン国を保護国化しています。両国は、それまでは清朝の朝貢国でした。

----------
洋務運動
----------
 太平天国の乱が終息したあと、清朝内部で改革が始まりました。中心となったのは、郷勇(義勇軍)を組織し、太平天国鎮圧に活躍した官僚たちです。かれらは、その活躍によって、政権内で大きな発言力を持つようになりました。具体的には、曾国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)、張之洞(ちょうしどう)といった人々で、太平天国で自分の地元の人々を組織して戦ったわけですから、当然皆漢人です。清朝は、満州人の政権ですから、基本的には漢人官僚を警戒するところがあるのですが、もはやそんなことを意識している場合ではなくなってきたということですね。
 かれらは、共通して、地方長官となり、西洋の科学技術の導入を図りました。太平天国との戦いを通じて、軍事技術を筆頭に中国の科学技術が西洋に比べて大きく遅れをとっていることを強く自覚したようです。この西洋の科学技術導入運動を洋務運動と言い、洋務運動をすすめた官僚を洋務官僚と呼びます。地方長官は、大きな裁量権を持っているので、かれらはそれぞれに鉱山開発や工場建設、鉄道敷設などを行っていきました。

 洋務運動は、中国の文化が世界の最高峰であるという中華意識を捨てて、他の文明を取り入れようとしたという点では、画期的ではあったのですが、清朝を強化するという点では、効果は限定的でした。
 その理由のひとつは、中華意識の捨て方が中途半端だったこと。洋務官僚の考え方は「中体西用(ちゅうたいせいよう)」というものでした。中は中国、西は西洋、つまり、中国の文明が本体であり正しいものであって、西洋の文明の便利なところだけを使うのだ、ということです。科学技術は進んでいるから、そこだけは取り入れる、しかし、文明そのものは中国の方が優れているのだから、科学技術以外の西洋文明に見習う点は無いということです。
 しかし、西洋の科学技術は、西洋文明の中から生まれたものです。すぐれた技術は、資本主義経済の競争の中で、常に改良を加えられ発展してきたものです。また、西欧列強が戦争に強いのは、ただ単に武器が優れているからではなく、国民国家が形成され、兵士ひとりひとりが政府のために戦う意味を自覚しているからです。法の下に個人の権利が保障されており、国民全員ではないにしろ、国民の意思を繁栄した議会のもとで政治が運営されている。
 洋務官僚たちは、こういう文明全体を考察することはなかった。西欧の政治制度や社会制度については無関心で、清朝に議会を作ろうとか、資本家を育成しようとかいう発想は全くなかった。根っこではなく、枝葉だけを真似ようとしたのです。
 また、洋務官僚たちは自分の管轄地で、工場建設などを行いましたが、これらの企業は国有ではなく、地方長官の私物というべきものになっていきます。清朝全体の強化ではなく、洋務官僚個人の権力強化の傾向が強いものでした。
 洋務運動では、軍事工場の建設や西洋式軍隊の育成に重点が置かれたので、西洋式の軍隊を育成した官僚は、そのまま軍閥化していきました。特に李鴻章は北洋軍という軍隊を組織し、政治的に強大な力を持ちました。後の話ですが、李鴻章の部下で、北洋軍を継承した袁世凱(えんせいがい)は、その軍事力を背景に清朝を倒すことになります。


第105回 アロー戦争・洋務運動 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第104回 太平天国

次のページへ
第106回 日本の開国