世界史講義録
  


第106回  日本の開国



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ペリーの来航と明治維新
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 西欧列強の勢力はトルコ、インド、中国と徐々に東に向かい、いよいよ日本に本格的にやってきました。これが、1853年、アメリカ海軍提督ペリーの来航です。時期的には、アヘン戦争終結10年後、太平天国の反乱がはじまって2年目のことです。ペリーの来航によって、「幕末」がはじまります。徳川幕府が崩壊して明治維新によって新政府が成立する激動の時代ですね。
 徳川時代の外交政策というと、鎖国という言葉がすぐに浮かびますが、実際には、中国、朝鮮、オランダとは貿易をおこない、使節の来訪がありました。
 インドや中国がイギリスなどのためにどのような目に遭っているか、武士階級を中心とする日本の読書人たちは、長崎にやってくるオランダ人や中国人からの情報で知っていました。それどころか、徳川幕府の為政者たちは、アメリカのペリーが日本にやってくることも、オランダ人からの情報で知っていたのです。

 ペリーが来航する50年以上前の18世紀末から、徳川幕府に貿易を要求するロシア船が来航していました。1792年にはエカチェリーナ2世がラクスマンを根室に派遣、1804年にはレザノフが長崎に来航し、貿易を求めて拒否されています。19世紀にはいると、イギリスの捕鯨船の乗員が燃料や水を求めて鹿児島や茨城に上陸したりする事件が起きたり、日本人漂流者を乗せたアメリカ船を日本側が砲撃して追い払うというモリソン号事件もありました(1837年)。
 当初、幕府は長崎以外の場所に近づく外国船は砲撃して追い払うという方針をとっていましたが、アヘン戦争の成り行きを知ると、燃料不足、食糧不足で困っている外国船には便宜を与えてお引き取り願うという方針に転換します。
 しかし、鎖国の方針は変えない。1844年、オランダ国王は世界情勢を説き鎖国をやめるよう幕府に忠告する国書を送るのですが、幕府はこれを無視しています。

 こういう流れの中でやって来たのがペリーです。ペリーの目的は日本を開国させることです。開国させたかったのはなぜかというと、第一には、日本をアメリカの捕鯨船の補給基地として利用したかった。当時、アメリカは北太平洋で捕鯨をさかんにおこなっていた。目的は鯨油です。石油が使われる前は鯨油が燃料として利用されたのです。使うのは油だけで鯨肉は食べずに捨ててしまっていた。もったいない話です。年平均100隻の捕鯨船が操業していたといいます。
 もう一つは、蒸気船でアメリカから中国へ直行するための中継基地として日本を利用したかった。すでに、蒸気船が遠洋航海に利用されていましたが、当時はまだ太平洋横断に必要な石炭を蒸気船に積めなかったようです。
 だから、ペリーが日本に来航したときに、通った航路は東回りです。なんとなく、太平洋を渡って日本に来たようにイメージしている人が多いと思いますが、ペリーはアメリカ東海岸のノーフォーク港を出発して、大西洋を横断後、アフリカを回ってインド洋、香港、上海、琉球を経由してやって来たのです。アメリカを発ったのが1852年11月24日、浦賀沖到着が53年6月3日ですから、約半年かかっている。

 ペリーは、半年以上かけて日本へ開国を要求しにいくわけですから、鎖国だからダメですといわれて、ハイそうですか、と簡単に引き下がるつもりはなかった。だから、この交渉を成功させるために、事前に日本について研究しました。オランダ人の著作など、日本に関する研究書を40冊以上読み込んだ。長崎に行って開国を要求しても、江戸からの回答が来るのをさんざん待たされたあげくに鎖国の国是を理由に拒否されている先例も知っています。
 研究の結果、ペリーが得た結論はこうです。「日本人は礼儀正しいが、権威に弱いから脅すにかぎる。」そして、江戸から遠く離れた長崎ではなく、江戸湾の入り口にあたる浦賀に現れ、大砲で脅したのです。

 オランダ情報で、ペリーがやってくることは知ってはいましたが、実際に浦賀沖に現れたアメリカ船を見て、幕府の役人は驚いた。役人だけでなく、日本中が驚きました。
 まず、やって来た船は1隻ではなかった。4隻の艦隊でやって来ている。しかもそのうちの2隻、ペリーが乗っている旗艦サスケハナ号とミシシッピ号は、世界でもまだ珍しい蒸気船です。西欧人にとってもまだまだ珍しかったのです。大きさも、世界最大級でした。要するに、世界最新鋭の軍艦が目の前に現れたわけです。
 しかも、この2隻は、木造船ですが船体に鉄が張ってある。日本人には鉄の船が浮かんでいるように見えたのでしょう。他の2隻も防腐のため黒く塗装されていたため、日本人は黒船と呼んだ。黒い蒸気を吐き出している姿はいかにも恐ろしかったに違いありません。
 ついでに言っておくと、蒸気船といいますが、当時はまだスクリューが発明される前なので、船の両脇にでっかい水車のようなものをつけてぐるぐる回して走る外輪船です。蒸気の力だけにはたよれないので帆もついている帆走併用型です。

 「日本人は脅すにかぎる」というペリーの作戦どおり、黒船の威力に押されて、浦賀に上陸したペリーから開国を要求するアメリカ大統領の親書を受け取った幕府は、とりあえず時間稼ぎに翌年の回答を約束しました。ペリーは日本を去りますが、アメリカへは帰らずに上海で半年間待機した後、54年1月浦賀に再び姿を現しました。このときには、遅れてやって来た船を加えて7隻の大艦隊になっている。
 幕府は、ついに開国に踏み切りました。横浜に上陸したペリーと交わしたのが日米和親条約。下田、函館の二港の開港と、領事の駐在、アメリカに対する最恵国待遇の付与などがその内容です。
 上海には列強各国の艦隊が寄港しており、ここでペリーが日本を開国させた情報は西欧列強にすぐに知れ渡りました。同じ年には、イギリス艦隊やロシア軍艦も長崎に来航しました。もはや鎖国を理由に断ることが出来ない幕府は、同様の条約をイギリス、ロシア、オランダと結んでいきました。

 日米和親条約は、単に日本の開国を決めただけで、貿易に関する規定はありませんでした。このため、日米和親条約に基づいて来日したアメリカ総領事ハリスと幕府の間で貿易に関する条約交渉がはじまり、1858年に日米修好通商条約が結ばれました。これは、日本の関税自主権が無く、アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約でした。この後、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結びました。

 ペリーの来航から、日米修好通商条約を結ぶまでの過程で、それまで独裁政治を行ってきた幕府が自信を失い、朝廷に経過報告をしたり、条約調印の許可を求めたり、諸大名に意見を聞くようになりました。幕府の外交政策に対するこのような自信のなさは、幕府をおそれて政治的意見を控えていた諸大名や一般の武士階級を一気に勢いづかせた。また、幕府の権威の低下にともない、朝廷の権威が急上昇することになりました。
 外交問題に対して、世論は沸騰しました。このなかで主流となった意見は、幕府の弱腰を非難し、鎖国を守り、外国勢力を撃退せよ、というものでした。幕府が弱腰ならば、朝廷を押し立てて外国人を追い払えという「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」のスローガンが広がっていきます。
 しかし、実務を担当する幕政担当者にとって見れば、強大な軍事力を持つ欧米列強を拒絶できるものではない。それは、ペリー艦隊を見れば一目瞭然。ペリー艦隊が江戸湾に進入し、砲弾を撃ち込めば、江戸の町は壊滅します。あの中国でさえ、何千里も彼方からやってきたイギリス軍にアヘン戦争で敗れ、アロー戦争でも敗れつつある。
 反対派を大弾圧して、日米修好通商条約を結んだ大老井伊直弼は、「条約を拒否して戦争になり、敗れれば、領土を割かれ、賠償金を支払い、国辱を受けることになる。実害のない方を選択するのはやむを得ない」と語っています。中国の二の舞、植民地化されることをおそれていたのです。

 この後、尊皇攘夷運動は討幕運動へと展開します。政権担当能力を無くした徳川幕府を倒し世界情勢に対応できる新政府樹立をめざしたのです。下級武士層が、尊皇攘夷運動で世の中を揺り動かし、その運動をうまくすくい取った薩摩藩、長州藩が中心となって幕府を倒すことに成功しました。これが1868年の明治維新。
 薩摩藩、長州藩は、幕末の時期に実際に攘夷を実行し、イギリスなどと戦い敗れています。その実力を知ってからは、幕府を倒し新政府を樹立し、大胆な開国政策で欧米文化を取り入れていかなければ日本が滅びると考えるようになっていました。はやくも明治維新が成功する前から、長州藩も薩摩藩も独自に留学生をイギリスに派遣しているほどです。前回紹介したように長州藩の高杉晋作などは、上海に密航して中国の現状を実際に見た。攘夷(外国人を追い払う)など、出来るはずがない。欧米に対抗するには、欧米文化を取り入れなければならないと考えたのは無理はありません。1861年には、ロシアが約半年間対馬の一部を占領するという事件も起きており(ロシア艦ポサドニック号による。イギリス軍の圧力で退去)、植民地化の恐れというのは、今われわれが想像する以上に、せっぱ詰まったものだったと思います。

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日本の改革
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 徳川幕府に代わって成立した明治政府は、次々と大胆な改革を断行し近代的な、言い換えると、ヨーロッパ的な国民国家をつくりはじめました。
 1871年には、廃藩置県によって藩をなくし、中央集権制度を確立します。1872年には徴兵令を公布し、国民皆兵の原則を確立。その前年1871年には解放令で被差別身分を解放し、平民と同様とします。現実には人々の意識が急に変わらないので差別はつづくのですが、国民国家をつくるためには、身分差別を法的に認めるわけにはいかないのです。徳川時代の士農工商のうち農工商は平民とし、それまでは許されていなかった苗字を許可し、他の身分との結婚、職業選択、移住の自由を認めました。旧藩主や公家は華族、武士階級は士族となります。華族、士族、平民という区別があるなら、平等じゃないのではないかという考え方もありますし、華族は確かに特権階級なのですが、身分間の通婚が自由というところがポイントなんだと思います。現実に、この後、士族と平民という違いは、何の意味もなくなっていきます。人口に占める割合が極少でも華族身分があるので、「四民平等」はまやかしと言えばまやかしなのですが、この言葉自体は実感をともなって広まり、受け入れられたように思います。
 明治政府のめざすところは、西欧列強と互角の国づくりですから、「殖産興業」というスローガンのもと、近代工業の育成に力を入れた。工業化によって国を豊かにして、強力な軍隊をつくる。「富国強兵」です。そうすれば、植民地化を免れる。

 この明治政府のさまざまな改革の方向性を一言でズバリとあらわした言葉が「文明開化」。中国の洋務運動の「中体西用」と比べてみるとその特徴がはっきりします。
 中国ではあくまで中国の文明が変更不要のもの「体」として中心に据えられています。日本の場合は、西洋化によって「文明」が開くのですから、それ以前の徳川時代までの日本の文化を全面否定しているといっていい。だから、徹底的に変えてしまう。
 見た目で一番わかりやすいところで言えば、服装。女性の服装が変化するのはゆっくりですが、男性の公的な場面での服装が一気に替わる。1871年に条約改正のために欧米を歴訪した岩倉使節団の写真がありますが、正使の岩倉具視は着物(和装)を着ていますが、大久保利通や木戸孝允など他の副使以下はすべて背広にネクタイ姿です。明治維新の3年後ですからね。この変化の速さはすごいことです。明治政府は西洋化をすすめるため、公務員には洋服を着用させました。役所の部屋に入室するときも靴を履いたままでいるように命じるのが1871年です。 伝統であり慣習である服装という文化を一気に変えるのは難しい。そこで、政府は天皇にも洋装させます。明治天皇の若いころの写真で、伝統的な装束を身につけたものを一枚だけ見たことがありますが、それ以外すべて洋装、軍服をつけての写真や肖像画ばかりですね。天皇ですら洋装なののだから、役人はすべて洋装になるわけです。
 ただ、庶民のプライベートの時間まで完全に洋装になるには、まだまだ時間がかかっています。私の子供のころ、1960年代ですが、父親は会社から背広姿で帰ってきましたが、帰るとすぐに着物に着替えていましたね。母親も、着物姿に割烹着を着て家事をしている写真がありました。ただ、1960年代後半から70年代には完全に、着物を着なくなっていったように記憶しています。
 余談ですが、この1871年には裸体禁止令というのも出ています。すっぽんぽんで出歩く人がかなりいて、外国人の目にはまさしく野蛮そのものに見えたのが恥ずかしかったのでしょう。昭和の初めころの地引き網を引いている漁師の写真を見ると、素っ裸の人がけっこういます。夏目漱石が学生時代に、瀬戸内の友人の家に遊びに行って、ふんどし一丁で海に遊びに行き海岸で貝をたくさん捕った。両手に持ちきれないので、ふんどしをほどいて、これに貝を包んで、素っ裸で宿に帰ったという話もあります(伊藤整『日本文壇史』)。浮世絵を見ても、ふんどし姿の男だらけです。日本の文化の根っこは、裸に寛容だと思います。

 福沢諭吉を初めとして啓蒙思想家が、ヨーロッパの思想や制度をどんどん紹介する。そういう中で、民主主義的な考え方も徐々に広まってくる。明治政府は基本的には、薩摩・長州出身者による藩閥独裁政治です。これに対して、自由民権運動がわき起こるのが1870年代半ばから。今風に言えば、民主化運動です。
 明治政府も、一定の譲歩を示し、徐々に民主化をしていきます。1881年には、「国会開設の詔」を発表し、10年後の国会開設を約束、1889年には大日本帝国憲法を発布、1890年には国会を開設しました。
 政治制度も完全に西欧式に変えたわけです。明治政府の中心である薩長藩閥グループにとっては、民主化自体はあまりやりたくなくても、西欧列強に日本を文明国として認めてもらうには、憲法を制定し国会を開かなれればならないということは強烈に意識していました。

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明治政府の対外政策
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 明治政府による国境の確定は次のようにすすめられました。
 1872年、琉球王国を滅ぼし琉球藩を設置、琉球藩は1879年には沖縄県となり、完全に日本の領土となります。
 北方に関して、徳川幕府が1855年にロシアと結んだ日露和親条約では、樺太は日露雑居地、択捉(エトロフ)島以南が日本領とされました。1875年には、樺太・千島交換条約によって、樺太はロシア領、シュムシュ島以南の全千島列島が日本領となります。領土の大きさからいえば、圧倒的に樺太が広い。

 中国との関係では、1871年清朝との間に日清修好条規を結びました。これは、ヨーロッパのルールに基づいた条約。日本が中国を中心とした従来の東アジアの国際秩序から抜け出したということ、ヨーロッパ風の国として中国もそれを認めたということです。この条約で、日本と清は対等です。
 1874年には台湾出兵という戦争を行っています。約3000名の日本兵が台湾を占領した事件で、2つの意味があった。ひとつは、この戦争の原因は琉球の漁民が台湾に漂着して現地民に殺されたという事件だったのですが、日本政府が清朝政府に抗議すると、清朝はこれに対して、殺したのは台湾の原住民で清朝の国民ではないから関知しないといった。実は、清朝は日本からの抗議そのものを受け付けないという選択肢があったのです。琉球はこの時点で、日本によって琉球藩とされていますが、徳川時代からこの時点までずっと、清朝に朝貢していた。日本と清に両属しているわけです。だから、清は、琉球はわが国の属邦である、日本にこれを抗議する権利はないということができた。だけど、清はそういう回答をしなかった。つまり、日本が琉球を領土としていることを事実上認めたということ。しかも、責任はないというのなら、台湾の原住民に責任をとらせるために出兵しても文句ありませんね、ということになる。
 幕末維新で活躍した武士、士族階級は、明治になってさまざまな特権が奪われ、こんなはずではなかったという不満がたまっていました。とくに、薩摩をはじめとする九州や長州の士族に不満が多い。明治政府としては、この不満をそらすために、戦争をやって彼らの不満をそらす必要があった。だから、台湾遠征軍には薩摩士族が多く従軍しています。
 こうして、おこなわれた台湾出兵でした。台湾を占領したものの、日本はここを領土として維持していくだけの準備も力量もなかったし、イギリスの調停もあってやがて撤兵しました。

 そして、日本の近現代史にとって大きな意味を持つ朝鮮との関係ですが、これは次回に詳しく話しましょう。


第106回 日本の開国 おわり

こんな話を授業でした

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