世界史講義録
  


第107回  朝鮮の開国と日清両国の動き

■日本に強いられた朝鮮の開国
 1871年に日本は清朝と日清修好条規を結び、朝鮮にも国交求めました。しかし、朝鮮は清国を宗主国とする伝統的な外交秩序のなかに自国を位置づけ、西欧諸国に対しては鎖国政策をとっていたため、近代化した日本との通商を拒否しました。
1875年、朝鮮の首都ソウルに近い江華島の沖で、日本の軍艦雲揚号に朝鮮軍が砲撃を加える事件が起きました(江華島事件)。雲揚号が無断で測量をおこない朝鮮側を意図的に挑発した結果でした。日本は、江華島事件の責任を問う形で朝鮮と交渉をおこない、1876年、日朝修好条規が結ばれました。これにより朝鮮は開国し、釜山など三港を開港しました。また、この条約は日本の領事裁判権を認める不平等条約でもありました。ペリーが日本に対しておこなったのと同じ事を、日本は朝鮮におこなったのでした。この後、朝鮮はイギリス、ドイツなどとも同様の条約を結びました。



■朝鮮政府内の対立
朝鮮政府内では、国王高宗(位1863~1907)の実父大院君と王妃閔妃(ミンビ)がそれぞれ派閥を作り権力闘争をしていました。また、開国後の政権運営について、清朝の庇護のもとで伝統を守ろうとする守旧派と、近代化をめざす開化派の路線対立も生じていました。

■清と介入を招いた壬午軍乱
 1873年から政権についていた閔妃派政権は、開化路線をとり日本から軍事顧問を招き洋式軍隊の創設に着手しました。これに不満を抱いた旧式軍の兵士たちが、1882年反乱を起こすと(壬午軍乱)、開国後の米価高騰に不満を持つソウルの下層民衆もこれに加わり、閔妃派と日本公使館が襲われました。この反乱を利用して大院君は政権を握りましたが、宮殿から脱出した閔妃が清に救援を要請したため、清軍3000名が出動して反乱を鎮圧、大院君は捕らえられ中国に送られました。返り咲いた閔妃派政権は、保守的傾向と清への依存を深めるようになりました。一方、軍事顧問が殺された日本も出兵し、公使館に兵士を駐屯させる権利を得ました。

■金玉均ら急進開化派の動き
 事件後、朝鮮は謝罪使を日本に送りましたが、その中に金玉均(キムオクキュン)などの若手開化派官僚が含まれていました。金玉均は1882年にも日本に視察旅行をし、朝鮮の改革に期待を寄せる福沢諭吉の紹介で井上馨、大隈重信、渋沢栄一などと面識を得ており、今回も福沢などと接触して、日本をモデルにして一刻も早く朝鮮の近代化を図ることが必要と考えるようになりました。帰国後、金玉均らは急進開化派として政治改革を試みますが、守旧派の抵抗で身動きがとれず焦りを募らせていました。

■日本の軍事力をあてにして失敗した甲申政変
 1884年12月4日、金玉均ら急進開化派は、クーデタを決行しました。ソウル駐在日本公使が軍事援助を約束したのです。また清の朝鮮駐屯軍が清仏戦争の影響で3000名から1500名に減らされたことも好機と考えられました。
金玉均らは、国王の身柄を確保した上で閔妃派の政府要人を殺害し、5日には新政権樹立と改革を宣言しました。この間日本兵約150人は王宮の占拠にあたっていました。しかし、6日に袁世凱率いる1500名の清軍が王宮に至り日本軍を攻撃すると、日本軍は小競り合いの後に金玉均ら開化派を見捨てて退去しました。また事件を知った民衆によって日本公使館が焼き討ちにあい日本公使もソウルから逃れました。閔妃派の守旧派政権が復活し、事件に関わった開化派は処刑され金玉均は日本に亡命しました。この事件を甲申政変といいます。

■衝突を避けた日清両国
 事件の翌月、日本はソウルに軍隊を派遣し、自らの責任には触れず、朝鮮政府に公使館焼き討ちにたいする謝罪と賠償を要求して認めさせました。また、日清両国は朝鮮に駐屯する両軍の衝突を避けるため、1885年、天津条約を結びました。朝鮮からの日清両国軍の撤兵、朝鮮へ派兵する場合は相互に事前通告する、というのがその内容です。いずれ清朝との戦争は不可避と考えた日本は、この後戦争準備を進めていきました。

■その後の金玉均と福沢諭吉
亡命してきた金玉均は日本政府にとって利用価値はなく、小笠原の父島や、北海道に移送され罪人同様の扱いをうけました。日本に見切りをつけた金玉均は1894年上海に渡りましたが、そこで朝鮮政府から派遣された刺客に暗殺され、遺体はソウルに運ばれ「大逆無道玉均」としてさらされました。「日本が東洋のイギリスならば、朝鮮はフランスに…」との彼の夢は、日本の軍事力を頼ったため破れたのでした。
福沢諭吉は、近代化されたアジア諸国との連帯を模索していましたが、甲申政変以後、朝鮮近代化への期待を捨て「脱亜入欧」をとなえるようになりました。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第107回 朝鮮の開国と日清両国の動き おわり

こんな話を授業でした

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