世界史講義録
  


第109回  挫折した清朝の変法運動

日清戦争後、光緒帝は立憲君主政などの政治改革を主張する変法派を登用し、改革に着手しました。しかし、西太后ら保守派のクーデタで改革は潰され清朝再生の機会は失われました。

■日清戦争敗北の原因
 清軍は、洋務運動によって近代的な装備を持ち、特に最新鋭の軍艦を備えた北洋海軍は日本軍に見劣りするようなものではありませんでした。それでも日清戦争で敗れたのは、直接的には政府部内の不統一と為政者の自己保身が原因でした。日本軍と戦った清の北洋海軍と淮軍は、直隷総督(河北省長官)兼北洋大臣(外交軍事の責任者)だった李鴻章が洋務運動によって作りあげた私軍ともいうべきもので、李鴻章は勝利よりも、軍を温存して権力基盤を守ることを優先しました。そのため、ロシアなどに仲介を求め決戦を回避しつづけ、日本軍は有利に戦争を進めることができたのです。また、宮廷の実権を握る西太后は自分の還暦記念のための頤和園改築工事に戦費を流用する始末でした。



■勢いを増す列強による利権獲得
 清朝は日本に対する2億両の賠償金支払いのため海関税等を担保に西欧諸国に借款を求め、これをきっかけに各国は鉄道敷設権、沿線の鉱山採掘権などを清朝から獲得していきました。
 また、1898年にドイツが宣教師殺害事件をきっかけに山東半島の膠州湾を租借したのを皮切りに、ロシアが旅順、大連、イギリスが威海衛、九龍半島、フランスが広州湾を租借し、鉄道敷設権を獲得した地域と合わせて排他的な勢力範囲を形成し、中国の分割が一気に進行しました。

■強まる政体変革の主張
 日清戦争の敗北によって、洋務運動が国力強化につながらない事が明白になり、強まる列強の圧迫のなかで、若手知識人から政体変革を求める変法運動が起こってきました。
運動の中心となった康有為、梁啓超らは、明治維新を模範として立憲君主政や議会の開設による清朝再建をめざしていました。1888年に皇帝に政治改革を求める上書をして、既に有名になっていた康有為は、1895年、科挙の会試受験で北京に滞在した際に、下関条約に反対して1200名の受験生の署名を集め抗議活動をおこないました。
 科挙に合格してからも、康有為のグループは雑誌出版などで変法=政治改革の必要性を訴えましたが、その意見は保守派の官僚に阻まれ皇帝には届きませんでした。

■光緒帝による改革開始
 1898年、康有為らの主張は遂に光緒帝(位1875~1908)の知るところとなり、6月、光緒帝は康有為らを登用して変法を開始しました(戊戌の変法)。科挙の改革、近代的学校制度の創設、官庁の統廃合など康有為らの改革案が皇帝を通じて次々と発せられました。
しかし、改革案には財政的裏付けがなく、また保守派官僚が強硬に抵抗したため、その多くは実行されませんでした。また西太后が変法に反対したため、多くの官僚が傍観的態度をとり、光緒帝を含む変法派は孤立していきました。
西太后は、1861年以来、5歳で即位した同治帝(位1861~75)の生母として、また4歳で即位した光緒帝の伯母として権力を握りつづけた人物でした。光緒帝が成人に達すると政権を譲りましたが、宮中に隠然たる勢力を持っており、光緒帝も西太后に逆らうことはできませんでした。そんな中で、戊戌の変法は、光緒帝がはじめて西太后の意向を無視しておこなった政治的決断でした。

■西太后による巻き返し
 保守派の西太后は改革に反対なのはもちろんのこと、自分を無視して改革を断行した光緒帝を許すことができませんでした。変法が開始された四日後には、光緒帝から高級官僚の任命権を奪い、軍隊を掌握する直隷総督兼北洋大臣に自分の側近を任命して改革に圧力を加えはじめました。
光緒帝も、保守派官僚の罷免と変法派の登用によって抵抗しました。しかし、思うように改革は進展せず、西太后派による光緒帝廃位計画も検討されるなか、変法派は日清戦争後創設された近代的装備を持つ新建陸軍の指揮官袁世凱に西太后派の排除を要請しました。袁世凱は李鴻章の後継者として頭角をあらわしてきた軍人で、1895年に変法運動に資金援助をしたことがあったため、最後の頼みの綱とされたのです。
しかし、袁世凱はこのことを西太后に告げ、西太后派は逆にクーデタを決行しました(戊戌の政変)。変法が始まって三ヶ月後のことでした。光緒帝北京の湖南海に浮かぶ小島瀛台(えいだい)に幽閉され、康有為と梁啓超は日本に亡命しました。その他の変法派のメンバーは皆処刑されました。

■その後の西太后と光緒帝
西太后は再び政権につき、光緒帝は死ぬまで皇帝のまま幽閉生活を送りました。1908年、光緒帝が没した翌日に、西太后は次の皇帝を指名して亡くなりました。光緒帝は死期を悟った西太后によって毒殺されたといわれています。彼女が指名した宣統帝(位1908~12)が清朝最後の皇帝となりました。

■変法運動の失敗が示したもの
 変法運動が清朝内の権力闘争で失敗したことは、清朝を倒さなければ中国の再生があり得ないことを若い知識人たちに示す結果となりました。これ以後の改革運動は反清革命運動となって展開することになります。


「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第109回 挫折した清朝の変法運動 おわり

こんな話を授業でした

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