こんな話を授業でした

世界史講義録

   第11回   アレクサンドロスの帝国 

1アレクサンドロスの東方遠征

  ギリシアの北方にマケドニアという国があった。
バルカン半島の南端、アテネなどのポリスがたくさんあるこの地域が先進地域とすると、このマケドニアは後進地域です。
マケドニア人はギリシア人の一派なのですが、アテネなどギリシアの中心部の人々と比べて大分なまりがあったみたいで、彼らからはバルバロイ(汚い言葉を話す者達)と呼ばれて軽蔑されていた。野蛮人とされていたんだね。平安時代の近畿圏の人たちが東北地方の人々を「蝦夷」として自分たちとは別の人々と考えていたようなものですね。
さらにマケドニア人はポリスを形成していなくて、王のもとに貴族層が支配者層になっていました。そういう意味でも遅れた地方と見なされていた。

ところがこのマケドニア、南方の先進地域が指導権争いで衰退していく間にどんどん力をつけてきたんです。
マケドニアを一大強国に発展させたのがフィリッポス2世(位前359~前336)。
彼は、若いときにテーベに人質になっていたことがある。ちょうどエパミノンダスが斜線陣でスパルタを破り覇権を握った頃です。
重装歩兵の戦術をじっくりと身につけて、マケドニアで王位に就いた。
マケドニアの軍制は貴族の騎兵が中心だったのですが農民を重装歩兵にして、フィリッポスは軍制改革を成功させ、王権も強化します。
そして、相変わらずポリス間の対立抗争が続くギリシア本土に進出しました。

  アテネ・テーベ連合軍がマケドニア軍を迎え撃ったのが前338年、カイロネイアの戦い。
結局マケドニアが勝って、ギリシアのポリス世界はその支配下に入りました。

独立を失った諸ポリスの人々はどう考えたかというと、親マケドニア派と反マケドニア派があったんです。あくまでも独立と民主政の伝統を守ろうという人々は反マケドニア。ポリス間の長い抗争にうんざりしていた人々は親マケドニアですね。親マケドニア派はさらにマケドニアを押し立ててペルシアに対する報復戦争を考えていたようです。

こういう情勢の中で、前336年フィリッポス2世は暗殺されます。40代半ばでまだまだこれからの年齢ですね。背後関係はよく分かっていません。

反マケドニア派にとってはこんなチャンスはありません。独立を回復するにはフィリッポスの死ほどありがたいものはない。なにしろ、マケドニアはフィリッポス一代で強国に成り上がったんだから、彼さえいなければマケドニアの支配はすぐに崩れるだろうと考えたんだね。フィリッポスには息子がいたけれど、まだ20歳です。こんな若者にフィリッポスの跡を継げるわけがないというのが、まあ常識的な考えだろう。

  ところが、この20歳の跡継ぎがアレクサンドロスだったんです。
英語ではアレキサンダーと呼ばれます。聞いたことあるでしょ。
アレクサンドロスは王位を継ぐと、すぐさまマケドニア軍を掌握し、独立を企てたポリスを制圧しました。その上で、アレクサンドロスは全ギリシアの盟主にして対ペルシア戦最高司令官になります。ギリシアを固めてから彼がおこなったのが有名な東方遠征です。

アレクサンドロスは英雄だからね、いろいろな伝説がある。どこまで本当か分からない逸話もたくさんあるんですが、こんな話がある。
いろいろ準備を整えて東方遠征に出かけるときに、宴会をするんだ。出陣式だな。アレクサンドロスは22歳です。まだまだ若い。今なら大学4年生。若い仲間の貴族もたくさんいる。マケドニアは王と貴族の間がそんなに遠くない。貴族の第一人者が王という感じです。ギリシア人の人間関係は上下関係より横関係の方が強い。だから、王も若い貴族達も仲間同士的な感じでわいわいやって盛り上がったんだろう。
このときアレクサンドロスは自分の財産をほいほい仲間達に分けてしまうんです。森林や領地をね。あんまり、気前よく財産を分けて、アレクサンドロス自身の持ち物がなくなってしまったので、ペルディッカスという貴族が王にたずねた。
「王よ、あなたには何も残らないのではないですか?」
それに対してアレクサンドロスが言ったという台詞(せりふ)。
「私には希望がある。」
かっこよすぎる。

父王フィリッポスがマケドニアの勢力を伸ばしてギリシア全土を制圧していくときにアレクサンドロスが仲間に言ったという言葉。
「困ったものだ。父上が何もかもなされてしまっては、我々のやることがなくなってしまう。」
東方遠征というのは具体的にはペルシア遠征なんですが、これは彼の父フィリッポスがすでに計画をしていたものです。これは、息子に残されたというわけだ。

  前334年、アレクサンドロスは東方遠征に出発。率いるギリシア軍は騎兵、歩兵あわせて約4万。
このとき兵糧は30日分しかなかったというから、絶対勝って軍資金や食糧は現地調達するつもりだったんです。

ヨーロッパとアジアを分けるダーダネルス海峡を渡って、まず最初の会戦。グラニコス河畔の戦いといいます。このときのペルシア軍もだいたい4万くらいです。ここでアレクサンドロスは軽く敵を蹴散らして、途中の都市を制圧しながらメソポタミア地方に向かいます。

ペルシア側が本気でアレクサンドロスを迎えたのがメソポタミア地方の入り口にあたるイッソスという場所です。ここで、はじめてペルシア大王ダレイオス3世自身が出陣するんです。ペルシア軍公称60万、実際には40万くらいでしょう。それでもギリシア軍の10倍ですよ。
しかし、この40万の中で本体であるペルシア人は、そんなに多くないと思います。ペルシア人の戦士は全部集めてもせいぜい10万程度です。ペルシア領内の色々な民族から兵士は集められている。
ペルシア軍にはギリシア人の傭兵も結構いたんですよ。食い詰めたギリシア人がペルシアまで出稼ぎに来ているんだ。なにしろギリシアの重装歩兵は強力ですから、重宝されていたようです。
のちの時代の壁画ですが、イッソスの戦いを描いた絵です、逃げようとするダレイオス3世の後ろに控えているこの軍勢は長い槍を持っているでしょ。これ、重装歩兵です。ペルシア大王の親衛隊になっているんだ。
まあ、そんなわけで、ペルシア軍は数は多いが、決して一つにまとまった大きな力を発揮できる状態ではないということです。

前333年、イッソスの戦いです。戦いは乱戦になります。アレクサンドロスは自分から真っ先に敵に突っ込んでいくタイプです。ペルシア大王の本陣にまで肉薄します。
ペルシア大王ダレイオス3世は、どちらかといえばお坊ちゃんで、こういう戦には向いていなかった。ギリシア軍が迫ってくるとあわてて戦車の向きを変えて逃げてしまった。王様が逃げて他の一般兵士が頑張ることはないです。
というわけで、イッソスの戦いはアレクサンドロスの勝利でした。

  勝ったあと、戦場には財宝がたくさん残されていたんです。何故かというと、ダレイオスは戦場でも豪勢な生活をするために特別の天幕に家具調度品を持ち込んでいたの。ついでに自分の母親に妃、お姫様まで連れてきていたんですな、これが。でも、彼女たちみんな置き去りにして逃げちゃった。
この妃やお姫様はものすごい美人だったらしい。
みーんなアレクサンドロスのものになる。ですが、アレクサンドロスは彼女たちには指一本触れず丁重に保護をしたんだ。この辺は禁欲的で潔癖でしょ。

これをあとで伝え聞いたダレイオス3世は、「もし余がペルシア大王でなくなったとき、代わりに玉座に座るのはアレクサンドロスであって欲しい」と言ったとか。
本当にこんな事を言ったかどうか分かりませんが、この言い伝えはアレクサンドロスの意図を想像させるね。
つまり、ペルシア帝国を滅ぼして、その領土を支配するつもりなら、ペルシア人の協力は絶対必要でしょ。ペルシア人を手なづけるにはどうしたらよいですか。
彼のペルシア王妃達に対する保護にはそういう深謀遠慮があったんではないか、そう思えます。賢いね。

このあとアレクサンドロスはすぐさま逃げたダレイオスを追わずに、進路を南に取ります。
まずフェニキア攻略を目標にします。7ヶ月かけて、ティルス市を攻略しているんです。ギリシアの海上貿易の利益にとってはフェニキアは潰さないとね。

そして、エジプトに入ります。エジプトではペルシアの支配に対して抵抗が強まっていたので、ギリシア軍は歓迎される。アレクサンドロスは解放者として迎えられていい気分です。これは、あとの展開に影響するので頭の隅に入れておいてください。

  次が前331年、アルベラの戦いです。エジプトからメソポタミアに軍を進めたアレクサンドロスとダレイオス3世の最後の決戦です。ペルシア側は100万の軍勢です。
4万のギリシア軍に勝ち目はないと考えたパルメニオン将軍はアレクサンドロスに進言しました。「王よ、この大軍に勝つには夜襲しかありません。」
アレクサンドロス答えて言う。「私は勝利を盗まない。」

これもアレクサンドロス伝説ですから本当かどうか分かりませんけれど、こんな話になっている。
ペルシア側は逆にギリシアの勝機は夜襲しかないと考えた。そこで、夜襲に備えて全軍に完全武装で起きているように指示を出した。アレクサンドロスが夜襲をかけたら、すぐさま逆襲にでようと言うわけです。しかし、アレクサンドロスは全然その気はないでしょ。
ペルシア軍はいつ来るか、いつ来るかと緊張しながら夜を明かしてしまいました。徹夜で緊張してくたくたです。
一方のギリシア軍はぐっすり眠って元気一杯で朝が来た。
というわけで、翌日の決戦はアレクサンドロスの勝利となった、という。

実際に今度の決戦も乱戦になって、またもやダレイオス3世は逃げ出してしまうんです。そのため全軍総崩れになって負けてしまった。
これで、事実上ペルシアは滅亡し、アレクサンドロスがその帝国の後継者になりました。

逃げたダレイオス3世は地方のサトラップ(総督)の裏切りで殺されてしまいました。

  アレクサンドロスはその後も旧ペルシア領を支配下に納めながら東に向かって転戦していきました。
前326年にはインダス川を渡りインドに侵入しました。
どうも、アレクサンドロスは本気で世界征服を考えていたんではないかな。人間の住む所どこまでも東に向かうつもりみたいです。
彼の率いる兵士達は不安になるんだね。おい、大王よ、どこまで行くつもりだ、てな心境でしょう。
この段階で兵士達がストライキを起こす。もう帰りたい、と言うんです。東方遠征に出発してからすでに8年が経っている。気持ちは分かるね。

いくらアレクサンドロスでも兵士が動かなければどうしようもありません。
ここでようやく遠征は終わりアレクサンドロスの軍は帰途につきました。
ただ、アレクサンドロスがマケドニアに帰ることはありませんでした。彼はペルシア帝国の後継者としてバビロンから帝国を統治しました。

彼の作ったこの大帝国は名前がありません。というのはこのあとすぐにアレクサンドロスは死んでしまうんです。この国は普通アレクサンドロスの帝国、と呼ばれます。

2アレクサンドロスの政策

  短い間でしたがアレクサンドロスがどのような政策をすすめたか見ておきます。
まず彼は新たに征服した領土にアレクサンドリアという名前の都市を建設します。
中でもエジプトのナイル河口に築いたアレクサンドリアが有名ですが、帝国各地に支配の拠点として同じ名前の都市をたくさん造っている。全部で70以上あるそうです。
この新しく造った都市に誰が住むかというと、アレクサンドロスがギリシアから連れてきたギリシア兵達が住む。中央アジアやインドに近いアレクサンドリアに住まわされたギリシア人達はギリシア本土から遠く離れているし、現地の人々と結婚なんかしてやがて土地の人たちに吸収されていくんですがね。しかし、ギリシア風の文化がこういう地域にも広がったわけです。

何年か前のことですがNHKで、インドの山奥の谷あいに住む部族が紹介されているのを見たんですが、その部族の人々は自分たちはアレクサンドロスがインドに残したギリシア人の末裔と名乗っているんですよ。顔つきや風俗も周囲のインド人と違うんです。そういう人々が今でもいるんですね。

  さらに、アレクサンドロスはギリシア文明とオリエント文明の融合をめざしました。
具体的には民族融合を考えたようです。ギリシア兵士とペルシア貴族の子女との集団結婚なんていうのをやります。自分自身もペルシア王族の女性を妻にする。
広大な帝国を治めるためにもペルシア人をどんどん登用します。
アレクサンドロス自身がペルシアに傾いていくんです。
これがマケドニア以来アレクサンドロスの身近にいた貴族グループとの間にしっくりしない雰囲気を生み出します。「アレクサンドロスの勝利はマケドニア人のおかげじゃないか」と、不満を持つ。

  また、エジプトでアレクサンドロスはシワーという神殿都市に行くのですが、ここの神殿で神の生まれ変わりというお告げをうけて、すっかりその気になる。エジプト人に歓迎されていい気持ちでいた上に、これですからね。しかも、もともとエジプトは王を神の化身と考える伝統がある。神の生まれ変わりといわれ、神の化身のように接待される。
王を友人のように対等に近い感じで扱うマケドニア人やギリシア人との落差は大きいです。
ペルシア人の王に対する態度もエジプトに近い。王を高いところに置いてお仕えする感じです。難しい言い方をすると、ペルシアやエジプトの王の在り方は「専制主義的」なのです。
アレクサンドロスにとってギリシア風よりもオリエント専制主義が気に入ったことはもちろんです。そして、彼はギリシア人やマケドニア人に対しても神のごとく自分に接するように強制しはじめます。気軽に声をかけるな、話すときは跪け、とかね。

アレクサンドロス大王のコイン
プリントのアレクサンドロスのコインを見てください。彼の横顔から角が生えているでしょう。角、牛にも生えている、これは神聖なものの証(あかし)です。神、もしくは神に近いものとして自分を描いているのです。
(補足)読者の方より以下のご指摘をいただきました。 「ヘアバンドは王権を示し、羊の角はアモン神の子としての神権を象徴する」(日本 大百科全書・小学館)

これに対してマケドニア貴族の中からは反乱計画なども出てくる。
こういう状況の中でアレクサンドロスは突然死んでしまいます。
アラビア方面に遠征計画があってその出陣を祝う宴会で突然倒れます。何日か寝込んだ後で亡くなります。死因はよく分かりません。33歳でした。

3ヘレニズム諸国

  後継者が問題になる。子供がまだないんですよ。妃の一人が妊娠中で、アレクサンドロスの死後息子が生まれますが、こんな子供に統治能力はないですね。あと、肉親としては腹違いの兄がいたのですが、この人は知的障害があって、もともと王位には耐えられない。

臨終間際にアレクサンドロスは後継者についてきかれてこう言った。
「最も王たるにふさわしいものに」
実力者にとっては都合のいい遺言だね。
彼の死後、マケドニア貴族の有力武将による後継争いの戦争が起こります。
この後継者戦争を経て、アレクサンドロスの帝国は大きく3つの国に分かれました。

前200年頃の情勢
前200年頃の情勢

マケドニア、ギリシアに建国したのが、アンティゴノス朝マケドニア、旧ペルシア領に建国したのがセレウコス朝シリア。エジプトにプトレマイオス朝エジプト。何とか朝というのは建国した将軍の名前です。このあと、その子孫が王位を継承していくことになります。

セレウコス朝シリアは領土が広すぎて中央アジア方面まで統制できなかった。中央アジア方面のギリシア人総督は、やがて自立してバクトリアという国を建設しました(前255)。
ペルシア本土、現在のイランですが、ここではパルティアというペルシア人の国が自立します(前248)。

  こんなふうに徐々に旧アレクサンドロスの帝国は分裂していくのですが、アレクサンドロスの東方遠征以来、プトレマイオス朝エジプトが滅亡する前30年までの約300年間をヘレニズム時代といいます。ギリシア風の時代という意味です。メソポタミアや、エジプトなどのオリエント地方にもギリシア文化が広まった時代だというわけですね。
アレクサンドロスの帝国の流れを汲む国はヘレニズム諸国と呼ばれます。

いちばん長く続いたヘレニズム諸国がプトレマイオス朝エジプトです。ここの最後の王が有名なクレオパトラ。世界三大美人だそうですが。このクレオパトラですが、何民族だったかというと、だから、ギリシア人なんですね。アレクサンドロスの武将プトレマイオスの子孫なんですから。
ヘレニズム時代というのはギリシア人が支配者であった時代でもあるわけです。

第11回 アレクサンドロスの帝国 おわり

トップページに戻る

前のページへ
第10回 古代ギリシア(2)

次のページへ
第12回 ギリシア・ヘレニズム文化