世界史講義録
  


第110回  義和団事件から日露戦争へ


中国民衆の排外運動義和団事件は清の植民地化を一層進めました。事件後、中国東北部地方をめぐって日露の対立は深まり、日露戦争が勃発しました。

■義和団事件
 1860年の北京条約でキリスト教の布教が自由になって外国人宣教師が奥地に入るようになると、治外法権を利用した横暴なふるまいによって中国民衆との紛争が頻発するようになりました。山東省では1890年代末から大刀会や義和拳という武術を習う人々を中心として宣教師や教会を襲撃する仇教(きゅうきょう・反キリスト教)運動が活発化しました。彼らは義和団と呼ばれ、1899年頃から参加者と規模を拡大し「扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)」を唱える大規模な武装排外運動に発展しました。1900年には鉄道、電信の破壊闘争をおこない天津と北京を占拠、北京では公使館地区を包囲しました。

 清朝政府は当初列強の要請を受け、義和団鎮圧にあたっていましたが、1900年6月、運動の盛り上がりをみて、義和団とともに外国勢力を排除することに方向転換し、列国に宣戦布告をしました。これに対し、日・露・英・米・仏・独・伊・墺の八カ国は共同出兵し2万の兵を送り込みました。連合軍は7月に天津、8月には北京を占領し、清朝は降伏、徒手空拳で果敢に戦った義和団も鎮圧されました。清朝は翌1901年の北京議定書で北京への外国軍の駐屯、賠償金4億5千万両などを受け入れ、半植民地化は一層進行しました。

■ふかまる日露の対立
 義和団事件後、各国軍が撤兵した後もロシア軍のみは中国東北部に留まり、この地域を事実上占領しました。そのため、朝鮮半島から中国東北部への勢力拡大をねらう日本とのあいだに緊張が高まりました。
 イギリスもロシアの南下を警戒しましたが、南アフリカでブール戦争を戦っていたため極東に大軍を送ることができず、ロシアを牽制するため日本を支援して1902年日英同盟を結びました。日本にとって世界最強国であるイギリスとの同盟は願ってもない事でした。

■日本軍が優勢に展開した日露戦争
 1904年、日露戦争が始まりました。戦場は中国東北部であり、ロシア軍の籠もる旅順要塞の攻防戦が最初の激戦となりました。日本軍は旅順要塞を陥落させましたが155日間の戦いで59000名もの戦死者をだしました。与謝野晶子が「君死にたもうことなかれ」と歌ったのは、旅順に出陣している弟を思ってのことでした。
その後、日本軍は、25万の兵力で北上し、1905年3月、奉天会戦でロシア軍本体32万と激突し、激戦の末ロシア軍を退却させることができました。5月には、対馬沖の日本海海戦でバルト海からアフリカを回航してきたロシアのバルチック艦隊を破り(ロシア海軍は38隻中19隻が沈没)、日本の優位は確定しました。

■戦争続行が困難な日本とロシアの国内状況
 開戦前はロシアとの戦争に懐疑的だった日本国内の世論は、あいつぐ戦勝の知らせに沸き立ち、社会主義者の幸徳秋水やキリスト者の内村鑑三らわずかな反戦論を除き好戦的気分に浸っていました。
しかし、もともと後発資本主義国の日本にとって、戦争による消耗は国力の限界に近づいており、武器弾薬を調達する戦費も底をつきはじめていました。実際、奉天会戦後の日本軍には退却するロシア軍を追撃するだけの弾薬は残っていませんでした。20億円近い戦費の45%をイギリスとアメリカの外債にたよっていた日本にとって、これ以上の戦争継続は不可能でした。
また、ロシアも1905年1月にペテルブルクで民衆のデモ隊に軍隊が発砲し死者を出した「血の日曜日事件」をきっかけに、専制政治に反対する労働者のストライキ、農民の蜂起や軍隊の反乱がおこり戦争継続は困難になっていました(ロシア第一革命)。

■アメリカの仲介による戦争終結
 1905年9月、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介によってポーツマス条約が結ばれ戦争は終結しました。内容は、日本の韓国に対する保護権を認め、遼東半島南部の租借権と南満州鉄道と沿線の利権、南樺太をロシアが日本に譲るというものでした。ロシアからの賠償金支払いはなく、日本国内ではこれを不満として暴動も起こりましたが、日本のきわどい勝利を反映した内容でした。

■アジア諸国にあたえた日露戦争の衝撃
 日露戦争は、植民地分割をめぐって戦われた初めての帝国主義国間戦争でしたが、ヨーロッパにアジアが勝利した戦争として、列強に侵略されているアジア諸民族を鼓舞する一面がありました。インドでは「アジア人に対するヨーロッパ人の絶対的優位性の神話は崩れ去った。インド人も民族的自信を持つべきだ」と唱えるティラクの指導でインド国民会議派による反英運動が活発化しました。第二次大戦後にインド首相となるネルーも「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に、大きな影響を与えた。わたしは、少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによくはなしたことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとながおなじ感激をした。」と書いています。また、1906年のイラン立憲革命や1908年のトルコのサロニカ革命も日露戦争の影響があるといわれています。
 しかし、その後の韓国の植民地化と中国侵略は日本がヨーロッパ列強と同様の帝国主義国であることを示すものでした。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第110回 義和団事件から日露戦争へ おわり

こんな話を授業でした

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