世界史講義録
  


第113回  第一次世界大戦のはじまり

バルカン半島で起きたサライェボ事件は、三国協商と三国同盟の戦争に発展し第一次大戦が始まりました。短期決戦をはかったドイツの作戦は挫折し、戦争は長期化しました。

■両陣営に分かれる西欧列強
 19世紀末、急速に工業化を遂げたドイツが、植民地獲得に乗り出したことを警戒したイギリス・フランス・ロシアは露仏同盟(1891)、英仏協商(1904)、英露協商(1907)によって結ばれ、三国協商とよばれる枠組みが成立しました。
一方ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアとともに三国同盟を結んでいました。オーストリアはバルカン半島への領土拡大を狙い、パン=スラブ主義を掲げてバルカン半島進出をはかるロシアと対立していました。


■バルカン半島におけるオーストリアとロシアの対立
 20世紀初頭のバルカン半島ではオスマン帝国の衰退に伴って紛争がつづきました。
 1908年、オスマン帝国でミドハト憲法の復活を求める軍人たちの結社「青年トルコ」によるサロニカ革命が起きると、その混乱に乗じて自治国だったブルガリアが独立を宣言し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。セルビア人住民の多いこの地域の合併を望んでいたセルビアは、ロシアを後ろ盾にオーストリアと激しく対立しました。
 1912年にはロシアの後押しで、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアはバルカン同盟を結んでオスマン帝国と戦い(第一次バルカン戦争)、イスタンブールを除くバルカン半島の全領土を奪いました。しかし、1913年、その領土の分配をめぐって、ブルガリアと他のバルカン諸国のあいだに戦争が起き(第二次バルカン戦争)、敗れたブルガリアは大幅に領土を縮小されました。この結果、ブルガリアはロシアから離れ急速にオーストリアに接近しました。
 こうして、ロシアとオーストリアの対立を背景に小国が分立するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれる紛争地帯となっていました。


■第一次大戦のひきがねとなったサライェボ事件
 1914年6月28日、軍事演習観閲のためボスニアの州都サライェボを訪れたオーストリア皇太子夫妻が、オープンカーでパレード中に暗殺されました。犯人がボスニア出身のセルビア人学生だったため、オーストリア政府は、セルビア政府の陰謀としてその責任を追及し、7月28日、セルビアに対して宣戦布告しました。
ドイツはオーストリアとセルビアの戦争が三国同盟と三国協商の戦いに発展することを予測したうえでオーストリアの宣戦布告を事前に認めていました。短期間のうちに勝利をおさめてドイツの国力にふさわしい位置をヨーロッパ列国に認めさせようと考えていたのでした。

■戦争の始まり
ロシアがセルビアを支援するために7月30日総動員を開始すると、8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告して第一次大戦が始まりました。ドイツは3日に、フランスに宣戦布告、ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入すると、4日にはイギリスがドイツに宣戦しました。
もともとドイツと共通の利害はなく、オーストリアとは未解決の国境問題があったイタリアは、戦争が始まると中立を宣言し、翌年、連合国側で参戦しました。そのため同盟国はドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリアの四国となりました。オーストリア軍は弱体でヨーロッパ戦線はドイツ一国で支えている状態でした。
連合国側には主力の英仏露以外にセルビア、モンテネグロ、日本、のちに合衆国など最終的に27カ国が参戦しました。日英同盟を理由に参戦した日本は、中国山東省と南太平洋のドイツ軍基地を攻略しました。
 開戦時の兵力は、ドイツ軍400万人、オーストリア軍250万人、フランス軍360万人、ロシア軍500万人、イギリス軍35万人でした。

■反戦を貫けなかった第2インターナショナル
 反戦を訴えていた第2インターナショナルですが、大戦が勃発するとその主張を貫くことが出来ず解体しました。国境を越えた労働者の団結よりも、各党が所属する国家の「防衛」を優先したのです。強硬に反戦を唱えたフランス社会党の指導者ジョレスは、7月31に暗殺され、第2インターナショナルを支えていたヨーロッパ最大の社会主義政党ドイツ社会民主党は8月3日に「われわれは危機にさいして祖国を見捨てないであろう」と述べました。


「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第113回 第一次世界大戦のはじまり  おわり

こんな話を授業でした

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