世界史講義録
  


第114回  総力戦となった第一次大戦


大戦は予想を超えた長期戦となり、膨大な人命と物資を消耗する総力戦となりました。従来の戦争とは異なり、銃後の国民も負担を強いられ、植民地からも兵力は動員されました。

■長期化する戦争
二正面作戦を強いられるドイツは、最初にフランスに兵力を集中し、短期決戦でフランス軍を殲滅したのち反転し、東部戦線でロシアと戦う作戦でした。
防備の薄いベルギー国境からフランスに侵入したドイツ軍はパリ近くまで進撃しましたが、9月になると体勢を立て直した英仏連合軍にマルヌの戦いで敗れ、西部戦線は膠着し持久戦となりました。互いに相手を包囲しようとして前線はフランドル海岸からスイス国境まで延び、両軍は塹壕を掘って対峙しました。塹壕の総延長は両軍あわせて約4万キロに及び、1914年末までで、ドイツ軍68万人、フランス軍85万人の死傷者を出すという大規模な戦争になりました。

東部戦線では、1914年8月タンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシア軍に大勝しましたが、その後は持久戦となりました。バルカン半島では同盟国側が優勢でセルビア、モンテネグロ、北アルバニアを占領しましたが、大勢に影響を与えるものではありませんでした。
1916年5月、英独両海軍はユトランド沖海戦で戦ったものの勝敗はつかず、その後イギリスは海上封鎖によってドイツを苦しめました。

■莫大な戦死者数と新兵器開発
1916年のドイツ軍の総攻撃、ヴェルダンの戦い(2月末~年末)では、ドイツ軍33万7000人、フランス軍37万7000人の死傷者を出しましたが前線を突破できず、同年の英仏軍の総攻撃、ソンムの戦い(7月~11月)では、連合軍250万とドイツ軍150万が戦い、死傷者は連合軍90万、ドイツ軍60万を数えました。この戦いでも莫大な犠牲を出しながら相手の陣地を抜くことは出来ませんでした。戦況を打開のため、ドイツ軍による毒ガス使用、イギリス軍の戦車開発、飛行機による爆撃など新たな兵器や戦術が開発されましたが、膠着状態はつづきました。

■第一次大戦の特徴である総力戦
第一次大戦は、交戦国が自国の工業力、技術力、労働力など国力のすべてを戦争遂行に動員する総力戦となりました。
たとえば、砲弾の消費量は各国首脳陣の予想を上回る膨大なものでした。1914年9月のマルヌの戦いで独仏両軍は日露戦争の全消費量にあたる弾薬を消費、ヴェルダンの戦いでは両軍で2000万発以上、136万トンの砲弾を消費しています。フランスは開戦1ヶ月で、ドイツは2ヶ月で備蓄砲弾の50%を使い果たし砲弾不足に陥りました。各国はこういう状況に対応して、武器弾薬の増産体制を敷かなければなりませんでした。また、前線で戦う何十万という兵士に物資を供給するためには道路や鉄道、水道の建設も必要でした。ヴェルダンの戦いでフランス軍は道路を新設し4000台の自動車をフル回転させ前線に物資を供給しました。 
 総力戦においては、何らかの形で全産業、全国民が戦争遂行に協力する必要がありました。

■国民生活の変化
戦争は国民の生活も変えました。男性の出征による労働力不足で女性が職場進出しました。イギリス首相ロイド=ジョージは全女性に対して軍需工場で働く事を要請し、弾薬工場では労働者の60%を女性が占めました。フランスでも軍需産業労働者の4割が女性でした。 
ドイツでは、イギリスの海上封鎖により物資の輸入が困難となり、食糧、綿花、銅、ニッケル、石油、ゴムなどが不足し、戦時統制経済によって軍需生産を維持しました。食糧不足のため、1915年1月からパンの切符制が導入され、1916年末に労働力確保のため、政府が全成人男性に必要な労働を命じ転職を禁じる「愛国的労働奉仕法」が制定されるなど、国民生活への統制が強まりました。ロシア、オーストリアでも国民生活は急激に悪化しました。

■ヨーロッパで戦うインド兵
志願制だったイギリス軍は、兵力不足を補うため1916年から徴兵制を導入しただけでなく、植民地からも兵士を動員しました。インド兵144万人を筆頭にカナダ兵82万、オーストラリア兵41万などがヨーロッパ戦線でたたかいました。また、中国人10万が物資輸送人夫として働いていました。フランスもアルジェリアなど海外領土から兵士を動員しました。

■トルコに対するアラブの反乱
 イギリスは、行き詰まっていた対トルコ戦を打開するため、メッカ太守だったアラブの名門ハーシム家のフサインにオスマン帝国への反乱を要請し、1915年フサイン=マクマホン協定で大戦後のアラブ人国家樹立を約束しました。翌年フサインの息子ファイサルひきいるアラブ人部隊はヒジャーズ地方(アラビア半島西部)を制圧しました。有名な「アラビアのローレンス」はイギリス軍から派遣された連絡将校です。
 ところが、イギリスは1916年にフランスとサイクス=ピコ協定を結び、両国による戦後のアラブ地方分割を密約し、さらに1917年には英米のユダヤ人財閥の支援を得るため、バルフォア宣言を発表し、アラブの一地域であるパレスティナ地方でのユダヤ人国家建設を約束しました。アラブ人やユダヤ人を利用するために出されたイギリスの相矛盾する約束は、パレスティナ問題の元凶となりました。


「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第114回 総力戦となった第一次大戦  おわり

こんな話を授業でした

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