■革命によるロシアの戦線撤退
総力戦に耐えきれなかったロシアでは、1917年、十一月革命でソヴィエト政権が成立し、全交戦国に即時講和を呼びかけ、1918年3月にブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和を結びました。この結果、東部戦線は消滅しドイツの負担は軽減され、戦力を西部戦線に集中することが可能となりました。
■革命によるドイツの降伏
ロシア革命は、各国の反戦運動を刺激しました。1917年にはドイツで戦争終結を訴える独立社会民主党が結成され、議会でも講和を求める決議が可決され、18年1月には軍需労働者100万人の反戦ストライキが起こりました。
しかし、軍部は独裁体制を強め、東部戦線の兵力を西部戦線にまわし、1918年3月から大攻勢を開始しましたが、7月以降アメリカ軍100万が加わった連合国が逆襲に転じ、ドイツ軍は占領地を放棄し退却をはじめました。9月にブルガリアが、10月にはオスマン帝国が降伏し、11月にはオーストリアも臨時政府が成立して降伏、同盟国は崩壊しました。ドイツでは、11月、無謀な出撃命令を拒否してキール軍港の水兵が反乱を起こすと、各地に反乱が広がり、全国で労働者と兵士によるレーテ(評議会、ロシアのソヴィエトにあたる)が組織されました。ベルリンでゼネストと労働者の武装デモが起きる中、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し(ドイツ革命)、社会民主党を中心とする臨時政府が休戦条約に調印し、第一次大戦は終結しました。
連合国同盟国あわせて約6500万人が兵士として動員され、戦死・戦病死者約802万人、戦傷者数約2123万人、非戦闘員死者数約664万人を出した未曽有の戦争でした。
■「14カ条の平和原則」を基礎に開かれたパリ講和会議
1919年1月、連合国は戦後処理を話し合うパリ講和会議を開きました。会議の基本方針とされたのは合衆国大統領ウィルソンが1918年1月に発表していた「14カ条の平和原則」でした。これはソヴィエト政府の「平和に関する布告」に対抗して連合国の戦争目的を掲げたもので、秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備縮小、民族自決、国際平和機構の設立などを提唱していました。諸民族に独立国家樹立を認める「民族自決」原則は、世界各地の被抑圧民族の期待を集めました。
会議には、敗戦国とロシアのソヴィエト政府は招かれず、米・英・仏を中心に進められ、国際連盟の設立を決定したあと、敗戦国に対する講和条件を決定していきました。
■ドイツに過酷な講和条約
対ドイツ講和条約のヴェルサイユ条約は、「ドイツ人に何もかも払わせてみせる」(フランス首相クレマンソー)というフランスの態度を反映して、ドイツにとって過酷なものとなりました。全植民地の放棄、潜水艦と空軍の保有禁止など軍備の制限、ラインラント地方の非武装化、アルザス・ロレーヌ地方のフランスへの割譲、そして天文学的数字といわれた1320億金マルクの巨額賠償金支払いが課せられました。
多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国はサン=ジェルマン条約で解体され、ハンガリー、チェコスロヴァキアが独立し、オーストリアの国土は四分の一に縮小しドイツとの合併も禁じられました。オーストリア皇帝は正式に退位し共和政となりました。
ブルガリア、トルコもそれぞれ領土を削減され、トルコ領のシリア、イラクは「国際連盟の委任統治」という名目で英仏によって再分割されました。
■中東欧に多くの独立国を生んだ「民族自決」
旧ロシア領からはフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドが独立し、大戦の発端となったバルカン半島ではセルビアが中心となって南スラブ系民族が住む旧オーストリア領(スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)とモンテネグロを併せセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(ユーゴスラヴィア)が成立しました。
■問題を残したヴェルサイユ体制
ヴェルサイユ条約などの一連の条約で新しい国際秩序ヴェルサイユ体制が成立しました。この体制は当初からいくつかの問題をはらんでいました。
ひとつは、ドイツへの対応が報復的で、あまりに過酷だったことです。この処置がドイツ人にあたえた屈辱感が、ヴェルサイユ体制打破をとなえるナチスの台頭をまねきました。
また「民族自決」は、ヨーロッパの諸民族にしか適用されず、アジア・アフリカの植民地の独立を求める声は無視されました。
国際連盟には、提唱国であるアメリカ合衆国が国内事情から加盟せず、ドイツ、ソヴィエトも当初は排除され平和機関としての影響力ははじめから限定されたものとなりました。
「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より
第115回 同盟国の降伏とヴェルサイユ体制
おわり