世界史講義録
  


第116回  戦争から生まれたロシア革命

最も遅れた帝国主義国ロシアは総力戦に耐えきれず、三月革命によって帝政が崩壊し、十一月革命によって社会主義のソヴィエト政権が誕生し、大戦から撤退しました。

■後進的な帝国主義国ロシア
 ロシアは帝国主義諸国の中では政治的にも経済的にも最も遅れた国でした。1905年、日露戦争による国民生活の悪化によって第一次ロシア革命が起きています。この時に初めて議会が開設されましたが、それ以後も専制政治(ツァーリズム)はつづいていました。

■ツァーリズムを打倒した三月革命
 第一次大戦が長期化し総力戦の様相を見せはじめると、厭戦気分が蔓延し、輸送は停滞し、食糧不足と物価高騰により国民生活は窮乏し社会不安は増大しました。1917年3月(新暦、ロシア暦2月、以下新暦使用)首都ペテログラードで20万人規模の反政府デモが連日発生すると、首都防衛軍もこれに加わり無政府状態となりました。混乱を収拾するために皇帝ニコライ2世は退位し、弟ミハイルに譲位しようとしましたが、ミハイルがこれを拒否したためにロマノフ朝は崩壊しました(三月革命)。
 
■二重権力状態の出現
 国会臨時委員会を基礎に新たに成立した臨時政府は、戦争の継続と普通選挙による議会召集を約束しました。産業資本家層に支持され、穏健な自由主義的立場に立ち、戦争継続を掲げる臨時政府の成立を連合国は歓迎しました。
 一方、臨時政府とは別に各地にソヴィエトが組織されていました。ソヴィエトは「評議会」と訳しますが、職域や地域などで民衆が作る政治組織で、1905年の第一革命の時の経験にならって再び組織されたのです。ペトログラードに成立した労働者・兵士ソヴィエトは労働者と兵士の代表によって構成され、その決定は労働者や兵士に大きな影響力を持ちました。3月14日の「命令第一号」では兵士に対してソヴィエトの指令に従うことを命じています。
 ソヴィエトも事実上の政府であり、ロシアには二つの政府が成立する二重権力状態が現出したのです。民衆は臨時政府の戦争継続方針には不満でしたが、ソヴィエトに強い影響力を持っていた社会主義政党の社会革命党とメンシェヴィキは、祖国防衛の立場から臨時政府と戦争継続を支持しました。しかし、なお政治状況は流動的でした。
■レーニンの帰国とソヴィエトの掌握
 1917年4月、戦争反対をとなえていた社会主義政党ボルシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから封印列車でロシアに帰国しました。ドイツ政府はロシアの混乱が増すことを期待して、レーニンの乗る列車のドイツ通過を許可し、ドイツで途中下車して革命運動をしないように列車に封印をしたのでした。
 帰国したレーニンは「四月テーゼ」を発表し、戦争の即時停止と、社会主義革命に向けて「すべての権力をソヴィエトへ」集中し臨時政府を支持しないことを訴えました。戦争停止の訴えは多くの支持を獲得し、ボルシェヴィキは急速に勢力を伸ばしました。これに対して7月、臨時政府はボリシェヴィキを弾圧し、一方で労働者の支持を得るために社会革命党のケレンスキーを首相に迎え、多くの社会主義者を入閣させたうえで、戦争を継続しました。
 ところが9月に軍の最高司令官コルニーロフ将軍が反革命クーデタを企て首都に進撃すると臨時政府はボルシェヴィキとソヴィエトの協力でようやくこれを撃退したため、ボルシェヴィキは再び勢力を盛り返しペトログラードとモスクワのソヴィエトで主導権を握りました。

■世界初の社会主義革命十一月革命
11月、レーニンの指導でボリシェヴィキは武装蜂起し臨時政府を打倒してソヴィエト政権を樹立しました(十一月革命)。世界初の社会主義政権の誕生でした。
政府成立の翌日にソヴィエト政府は、「平和に関する布告」で全交戦国に無併合・無賠償・民族自決による即時講和を訴え、「土地に関する布告」で土地の私有権廃止を宣言しました。
 1918年1月、ボリシェヴィキは憲法制定議会を解散し一党独裁を開始、3月には共産党と改称しました。また、1919年に世界革命の指導部としてコミンテルンを創設し、世界各国の革命運動の組織と援助を開始しました。

■ドイツとの講和と対ソ干渉戦争
ソヴィエト政府の休戦よびかけを無視した連合国は、自国民に戦争継続の意義を説明する必要に迫られ、アメリカ合衆国のウィルソン大統領は「平和に関する布告」に対抗して「14カ条の平和原則」を発表しました。ドイツは、1918年3月、ソヴィエト政府とブレスト=リトフスク条約を結び単独講和しました。この条約はドイツへの領土割譲を含み、ソヴィエト政府にとって不利なものでしたが、レーニンはドイツでも社会主義革命が起きることを期待して条約締結に踏みきりました。ボリシェヴィキの公約でもある平和はようやく実現されたかにみえました。
 しかし、1918年には、連合国の支援を受けた旧ロシア軍人など反革命勢力との内戦がはじまり、4月以降には、英・仏・日・米などの連合国軍が対ソ干渉戦争を起こしてロシアに侵入しました。資本主義国にとって、社会主義政権の存在と革命の波及は脅威だったのです。
一時は崩壊寸前まで追いつめられたソヴィエト政府ですが、軍事人民委員トロツキーによって組織された赤軍(=革命軍)の反撃や、民衆の抵抗などで反革命軍は鎮圧され、列国の軍隊も1920年には撤退し(日本のシベリア出兵だけは1922年までつづけられました)、ソヴィエト政府は危機を乗りこえました。しかし、その間実施された、農村からの食糧の強制徴発や全工場の国有化、労働義務制など「戦時共産主義」に対する不満は強く、1921年にはクロンシュタット軍港で水兵の反乱が起きるほどでした。


「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第116回 戦争から生まれたロシア革命  おわり

こんな話を授業でした

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