世界史講義録
  


第117回  第一次大戦後の欧米諸国

戦後、アメリカ合衆国はイギリスにかわって世界経済の中心として繁栄しました。一方、敗戦国ドイツでは政情不安と経済混乱がつづきました。
イタリアでは、テロで勢力を拡大したファシスト党のムッソリーニの独裁政治が誕生し、ソ連では、社会主義建設の模索がつづくなか、レーニン死後スターリンの独裁が確立しました。

■空前の繁栄をむかえたアメリカ合衆国
 大戦中の貿易で利益をあげ戦争の被害も少なかった合衆国は、大戦後、「黄金の20年代」と呼ばれる空前の経済繁栄を謳歌しました。世界の工業生産の4割を占め、世界の金の44%を保有し、大戦中からの英仏などへの融資で世界最大の債権国にとなりました。
 経済の繁栄は、国民の生活水準を引き上げ、大衆社会が出現しました。金持ちの贅沢品だった自動車の普及がそれを象徴しています。フォード社は組立ラインによる大量生産を考案し価格を引き下げ、3世帯に2台の割合で自家用自動車が普及しました。日本では1970年代末の水準です。電気冷蔵庫やラジオも普及し、プロ野球や映画が大衆の娯楽として登場しました。ミッキーマウスが生まれたのもこの時代です。大量生産、大量消費、大衆文化という現代生活が出現したのでした。

■ひろまる保守的風潮
 一方で、豊かな生活を求めて、南部の農村地帯から北部工業都市への黒人の移住や、東欧・アジアからの新移民が増加したことは、それまでのアメリカ社会の主流を占めていた「WASP」の反発を生み、保守的・排外的風潮を生みました。1919年の禁酒法や1924年の移民割当法による移民制限、人種差別集団KKK団の復活は、そのあらわれでした。
国際政治では、孤立主義を主張する議会の反対により、ウィルソン大統領の提唱した国際連盟に加入しませんでした。
注:WASPとは、W=ホワイト(白人)、AS=アングロサクソン(イングランド系)、P=プロテスタントのこと

■ドイツ・ワイマール共和国の成立と混乱
 ドイツでは1919年ワイマール憲法が制定され、社会民主党のエーベルトを初代大統領として、いわゆるワイマール共和国が発足しました。ワイマール憲法は男女普通選挙、団結権や労働者の経営参加権を認める当時最も先進的民主的憲法でした。
しかし、敗戦直後から不安定な政情はつづき、ロシア革命の影響をうけ、1919年1月ベルリンで社会主義政権樹立をめざすスパルタクス団の蜂起がおこりました。これは鎮圧され、革命運動は退潮しますが、1920年にはヴェルサイユ条約で決まった兵力削減に不満を持つ軍部がクーデタを起こしベルリンを占拠しました(カップ一揆)。ベルリン市民のゼネストによる抵抗でクーデタは失敗しましたが、ヴェルサイユ条約に反対する旧軍人や右翼の活動は以後もつづきました。失敗に終わりましたがヒトラーが政権奪取をめざしたミュンヘン一揆(1923)もその一つです。彼ら右翼勢力は、ドイツ革命が起きなければ、先の大戦でドイツ軍は勝利したはずだと考えていたのです。

■超インフレをまねいたフランスのルール占領
 1923年、ドイツの賠償金支払いが不能になると、フランスとベルギーがドイツ最大の工業地帯ルール地方を占領しました(~25年)。これに対して、ドイツ政府は「消極的抵抗」を呼びかけ、ストライキによって生産が停止したためフランスは利益を得られませんでしたが、ドイツ経済も大打撃をうけ、インフレが一気に進行しマルクの価値が戦中の1兆分の1にまで下落しました。市民生活は混乱し、ドイツ共産党による武装蜂起が計画され、ヒトラーのミュンヘン一揆が起き、社会不安は増しました。

■軌道に乗り始めたドイツの再建
 この時、新たに首相になったシュトレーゼマンは、不動産と商工業資産を担保にした新紙幣レンテンマルクを発行することによって、超インフレを奇跡的に終息させました。また、1924年ドイツの賠償金支払いを可能にするための合衆国の提案、ドーズ案が成立しました。合衆国がドイツに多額の借款をあたえるもので、ドイツはこれによって賠償金の支払いと経済復興を軌道に乗せることができました。

■合衆国の資金にささえられたヨーロッパの安定
 外相となったシュトレーゼマンは協調外交を展開し、英仏などと集団安全保障を定めた1925年のロカルノ条約と翌26年の国際連盟加入で国際社会に復帰しました。
 賠償金が順調に支払われはじめたこととあいまって、ヨーロッパの政情は安定期を迎えました。しかしこの安定は、ドイツに投下されたアメリカ資本にささえられたものでした。


■大戦後のイタリアの政情
 大戦後、思惑どおりに領土を獲得できなかったイタリアでは、右翼的民族主義運動が盛り上がると同時に、インフレや失業の増大の中で革命運動や労働運動、貧農雇農による土地分配運動が活発化しました。社会党とカトリック系の人民党に挟まれて自由主義勢力による政府は指導力を発揮できず不安定な政局がつづいていました。
 1919年国粋主義者で詩人のダヌンツィオは義勇軍を率いてパリ講和会議で獲得できなかった港市フィウメを占領し、大戦中に社会主義から国家主義に転身した新聞記者ムッソリーニは、「戦闘ファッシ」を結成しファシスト運動を開始しました。
 一方で、社会主義革命をめざす社会党は1919年の総選挙で議席の3分の1を占め第一党となり、1920年夏には北イタリアで50万人の労働者が工場を占拠し自主管理をおこない、革命前夜の様相を呈しました。しかし、政府の調停によって労働争議が終息すると、社会党の分裂もあり、社会主義運動は徐々に下火になっていきました。

■荒れ狂うファシストの暴力
 20年秋からファシストによるテロが横行しはじめました。黒シャツ隊とよばれたテロ部隊は、社会党が政権を握る地方自治体に拳銃や棍棒を持ってトラックでのりつけ、暴力で町を制圧し、労働組合や農民組合の事務所や指導者を襲い、最後に市長に辞職を迫りました。抵抗した場合は家族を誘拐したり本人を殺害することもありました。こうしたむきだしの暴力で地方の支配権を握る「懲罰遠征」は参加者を増やしながら活動範囲を広げていきました。地主や資本家はこの運動を支援し、警察もファシストの暴力行為を黙認しました。

■ムッソリーニによる独裁政治の樹立
 1921年の総選挙では35名の当選者を出し、ムッソリーニは「戦闘ファッシ」を「ファシスト党」に改組し自ら統領の地位につきました。この間も地方でテロ活動を続け、1922年10月には「ローマ進軍」をおこないました。2万6千の武装したファシスト党員がローマに向かって進軍すると、内乱を恐れた国王は、戒厳令を求めて容れられず辞職したファクタ首相にかわってムッソリーニを首相に任命し、ファシズム政権が誕生しました。
35議席しかないファシスト党は、1924年の総選挙で、対立候補に対して暴行、脅迫、殺害など徹底的な選挙妨害をおこない535議席中375議席を獲得しました。議会でファシストの選挙妨害を非難した国会議員は暗殺されました。1926年にはファシスト党以外の政党は禁止され、一党独裁体制を樹立、1928年にはファシスト党の機関であるファシスト大評議会を国家の最高機関として独裁体制を完成させました。
権力掌握の過程でムッソリーニは資本家層と接近してその支持を取り付け、また1924年にフィウメを併合、27年にはアルバニアを保護国化して領土拡大を望む大衆も満足させました。
イタリアのファシズム政権の誕生は当時の国際社会で大きな問題にはなりませんでしたが、ムッソリーニの政治手法はドイツのヒトラーに大きな影響をあたえました。

■「新経済政策」によつソ連の安定と列国の承認
1922年、ソヴィエト政府はソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の樹立を宣言しました。その前年1921年には「戦時共産主義」を停止し、「新経済政策(ネップ)」を採用し、生産回復を図るために自由市場を復活させ小農や私企業の経営を認めました。これは資本主義的経済方式を導入したものでした。
ソヴィエト政府成立直後のボリシェヴィキの指導者たちは、経済発展の遅れたロシア一国で社会主義を建設するのは不可能であり、進んだ西ヨーロッパでも社会主義革命が起きることが必要だと考えていました。しかし、最も可能性の高かったドイツでも社会主義革命はおきず、西ヨーロッパ全体で革命運動が退潮すると、ロシアは一国だけで社会主義建設をおこなわざるをえませんでした。「新経済政策」はその一つの試みであり、資本主義諸国から見ると、ソ連が以前ほど危険な存在ではなくなったことを意味しました。
 まず、敗戦国として孤立していたドイツが1922年に最初にソ連を承認すると、1924年には英・仏・伊、25年には日本が承認しました。(合衆国は1933年に承認し、翌34年に国際連盟に加盟)。

■レーニンの死とスターリンの権力掌握
 1924年、ソ連と共産党の指導者であったレーニンが死去すると、党指導部内で後継者争いがはじまりました。皮肉なことに、レーニンが遺書で「粗暴すぎる」から解任するように求めていた党書記長スターリンが、実務を握る立場を利用してライバルたちを失脚させていきました。レーニンの後継者と目されていたトロツキーの「世界革命論(永続革命論)」に対してスターリンは「一国社会主義論」を唱え、路線論争の装いをとりながら権力闘争が展開されました。権力闘争に敗れたトロツキーは1927年に国外追放となり、以後スターリンは独裁体制をかためていきました。

■第一次五カ年計画による社会主義経済建設の開始
 1928年にはスターリンの指導により社会主義計画経済である第一次五カ年計画がはじまりました。コルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)による農業の集団化がすすめられ、農産物の飢餓輸出による犠牲のうえに、重工業が建設されていきました。


「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第117回 第一次大戦後の欧米諸国  おわり

こんな話を授業でした

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