世界史講義録
  


第119回  高揚するインドの民族運動独立

第一次大戦後、期待していた自治をあたえられなかったインドは、国民会議派のガンディーの指導で非暴力・不服従運動を展開しました。

■インド国民会議派によるインド民族主義の高揚
1905年、インドでは日露戦争で日本が勝利した影響で民族運動が盛り上がり、インド総督カーゾンはこれを抑えるためベンガル分割令を出しました。反英闘争の盛んなベンガル地方を、ムスリムの多い東とヒンドゥー教徒の多い西に分割することで民族運動の弱体化を狙ったものでした。これに対して猛烈な抗議行動が展開され、1906年インド国民会議派カルカッタ大会では「スワデーシー(国産品愛用)」「スワラージ(自治)」「イギリス商品のボイコット」「民族教育」の四大綱領が採択されました。


 インド国民会議は、1885年にイギリスがインド統治の円滑化のためイギリスの高等教育を受けたインド人を集めた組織でした。当初、インド国民会議に参加した弁護士、学者、ジャーナリストなどは、イギリスに協力することでインド人の地位向上を図ろうと考えていましたが、徐々に反英色を強め独立運動を指導するようになったのでした。
 一方、ヒンドゥー教徒が主導するインド国民会議に対して、少数派のムスリムはイギリスの支援を受け1906年インド=ムスリム連盟を結成しました。これはインド人同士を宗教で対立させようというイギリスの分断統治策でもありました。

■守られなかったイギリスの自治付与約束
 第一次大戦が始まると、イギリスは戦後の自治とひきかえに、インドに兵力・戦費の負担を求めました。ところが、戦後1919年に制定されたインド統治法は形式的な自治しか認めず、同時に制定されたローラット法は、令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、政治犯の上告不可という民族運動弾圧法であったため、抗議行動が全土に広まりました。

■ガンディーの指導によって大衆に広がる反英運動
この時「非暴力・不服従」運動を掲げて国民会議派の指導者として登場したのがガンディーでした。ガンディーは、非暴力・不服従の抵抗を「積極的な非暴力には真理と勇気が含まれる」として「サティヤーグラハ(真実をつかむ)運動」と名付けました。
イギリスは農民や下層労働者も参加したサティヤーグラハ運動にインド大反乱の再現を恐れました。パンジャブ地方のアムリットサール市では、2万人が集まった集会にイギリス軍が発砲し375人(国民会議派調査では1200人)が虐殺される事件が起き、反英運動はさらに勢いを増しました。国民会議派とムスリム連盟の協力関係も築かれました。
全国を遊説するガンディーを、民衆は熱狂して迎えました。洋服を着た他の国民会議派の指導者とは全く異なり、国産木綿の粗末なインド服をまとい自ら糸を紡ぐガンディーの姿は、「スワデーシー(国産品愛用)」と「イギリス商品のボイコット」を身をもって示すものでした。各地で人々はイギリス製の綿製品を積み上げて火を放ちました。
「非暴力」とは言いながらも運動の高揚にともなって流血事件はしばしば発生しました。1922年2月ある町で警官22名が群衆に殺される事件が起きると、ガンディーは統制のとれなくなった運動の中止を命じました。その後ガンディーは逮捕投獄されました。

■「塩の行進」
 一時沈滞していた運動は1929年のインド国民会議派ラホール大会で「プールナ・スラワージ(完全な独立)」方針を決定しふたたび高揚期を迎えました。運動に復帰したガンディーは1930年イギリスに抵抗する象徴的な行動として「塩の行進」をおこないました。「製塩禁止法」に反対して、自宅のあるアフマダバードから約380キロ24日かけてダンディー海岸まで行進し自ら塩を作ったのです。ガンディーと78名の弟子が歩く沿道には人々が群がり、一行は数千人の規模に膨らんでいきました。「塩の行進」では、ガンディーを含め6万人以上が逮捕投獄され、この運動に注目していた国際社会にイギリスの圧政を印象づけることになりました。「塩の行進」に刺激され全土で製塩運動やボイコット運動など非暴力・不服従運動がひろまり、第二次サティヤーグラハ運動がはじまりました。

■英印円卓会議と新インド統治法
 イギリスはインド独立運動を懐柔するために、インド各界の代表者をロンドンに招き円卓会議を1930年から32年までに3回開きました。円卓会議とは座席に上座下座の区別を作らず対等に話し合う形式です。このために釈放されたガンディーも、国民会議派の代表として独立の条件を獲得するため第二回会議に出席しましたが、会議は成果無く終わりました。
 1935年イギリスは新インド統治法を発表しました。各州の地方自治は認めるもののインドの自治や独立とはほど遠い内容に国民会議派の指導者の一人ネルーは「これは奴隷憲章だ」と反発しました。

<コラム:ガンディーの人となり>
ガンディー(1869~1948)はイギリスに留学し弁護士資格をとったのち、1893年インド人企業の顧問弁護士として人種差別の激しい南アフリカに渡りました。南アフリカのダーバンについて一週間後、一等客車に乗っていたガンディーは、あとからきた白人のために席を譲り貨物車に移るよう車掌に命令されました。ガンディーが一等の切符を示して拒否すると、車掌はガンディーをプラットホームに放り出してしまいました。ガンディーは寒さと屈辱に震えながらプラットホームで一夜を明かしました。「権利のために戦うか、それともインドに帰るべきか」と考えながら。「義務を果たさずに逃げるのは卑怯だ」というのが彼の結論でした。こうして1915年までの22年間、南アフリカでインド人の権利擁護運動をつづけ、そのなかでサティヤーグラハ運動を確立していきました。
粗末な衣服、菜食主義、妻帯しながら禁欲生活を貫くなど独特のスタイルは留学経験のある知識階層としては特殊なものでした。また、闘争の最高潮期に、流血事件を理由に闘争中止を命じるガンディーの姿勢は、ネルーなど他の国民会議派指導者の反発を招きました。しかし、一種宗教的ともいえる彼の思想と行動は、多くの民衆を惹きつけたのでした。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第119回 高揚するインドの民族運動独立  おわり

こんな話を授業でした

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