世界史講義録
  


第120回  第一次大戦と朝鮮・中国


第一次大戦後の朝鮮では民族自決に期待して大規模な三・一独立運動が湧き起こりました。中国でも、大戦中の日本による二十一カ条の要求に対して、五・四運動が起こりました。

■ウィルソンの民族自決と朝鮮
 1918年、米大統領ウィルソンが「十四カ条の平和原則」を発表すると、自由に活動のできる海外在住の朝鮮人から「民族自決」に期待した運動がおこりました。アメリカにいた李承晩(イスンマン)はウィルソンに韓国独立を要望し、上海の新韓青年党呂運亮(ロウンヒョン)はパリ講和会議への代表派遣を計画しました。これらの動きが日本留学生に伝わると、1919年2月東京神田朝鮮YMCA会館に600名の留学生が集まり「独立宣言大会」が開かれました。朝鮮半島でもこれに呼応して、宗教団体などの指導者33名によって独立宣言が起草され、前月(1月)に死去した元国王高宗の葬儀にあわせてソウルの中心パゴダ公園で独立宣言を読み上げることになりました。

■日本の支配を揺るがした朝鮮の三・一独立運動
 3月1日、パゴダ公園に集まった青年学生を中心とする5000名は、独立宣言を読み上げたのち、市街に出て「大韓独立万歳」と叫びながらデモ行進をおこないました。隊列はたちまち数万の規模に膨れあがりました。この三・一独立運動は朝鮮全土218の府郡のうち211カ所に広がり、示威運動の回数は1200回をこえ、参加者はのべ110万人にのぼりました。

■日本の弾圧と統治方針の転換 
 これに対して、朝鮮総督府は朝鮮常駐の二個師団に日本本国からの援軍を加えて徹底的な武力弾圧をおこないました。水原郡堤岩里(チエアムリ)では村民全員を焼き殺す虐殺事件の現場がアメリカ人宣教師たちに目撃されています。三・一独立運動での朝鮮人の死者約7000人、負傷者約4万5000人、逮捕者約5万人におよびました。
 運動は鎮圧されましたが、総督府はこれを契機に統治方針を従来の武断政治から文治政治に切り替えました。具体的には憲兵警察を普通警察にかえ、日本人官吏教員の帯剣を廃止するなど、あからさまな武力支配を改め、出版・集会・結社の自由を一部許可するようになりました。

■日本による中国に対する干渉強化
 日本は、第一次大戦中の1915年、ヨーロッパ列強が中国から後退した間隙をついて、袁世凱政府に二十一ヶ条の要求を突きつけました。その内容は、ドイツが租借していた山東省膠州湾などの権益の日本への譲渡、中国東北地方での権利拡大、中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くことなど、中国の主権を侵害するものでした。
袁世凱政府が最終的にこれを受けいれると、民族的危機意識が中国民衆に広がりました。袁世凱死後も、その後継者段棋瑞が利権と引き替えに日本から多額の援助を得るなど軍閥による政府の私物化はつづきました。

■新思想をひろめた文学革命
一方で、1910年代後半から、新中国・新社会をめざす文化・思想運動が始まりました。
文学革命とも新文化運動とも呼ばれるこの運動の中心となったのは、陳独秀が発行した雑誌『新青年』でした。「民主主義と科学」を標榜し、封建制度や儒教思想、特に個人を縛り付ける伝統的家族制度を批判する論陣を張り、青年層に大きな影響を与えました。同誌を舞台に、胡適による白話文学運動(文語だった書き言葉を口語に変えることを提唱)が展開され、魯迅は口語文学の傑作『狂人日記』『阿Q正伝』などを発表しました。また、李大釗はマルクス主義を初めて中国に紹介しました。やがてかれらを教授陣として迎えた北京大学は文学革命の拠点となっていきました。

*****コラム:医学から文学へ、魯迅の転身*****
 少年時代に民間療法で病気の父を亡くした魯迅は、医者を志し1904年日本の仙台医学専門学校(現東北大医学部)に入学しました。日清戦争後、中国人に対する蔑視が広がりつつあるなかで、藤野厳九郎教授が魯迅を気にかけ、ノートの日本語を添削するなどの指導をしてくれたことを、かれは後年、深い感謝の気持ちとともに書き記しています(『藤野先生』)。
その仙台時代のことです。幻灯機を使ったある講義で、時間が余ったのか教授が日露戦争の写真を映写しました。勝利の場面が映し出されるたびに、学生たちは熱狂して万歳と叫んでいました。やがて、ロシア軍のスパイとしてとらえられた中国人が日本軍に銃殺される場面が映し出され、学生たちはやはり万歳と叫びました。その時、魯迅にとってショックだったのは、彼らの態度よりも、映し出された写真の中で、多くの中国人が銃殺される中国人をのんびりと見物していることでした。
このとき魯迅は、中国にとって必要なのは医学ではなく「彼らの精神を改造すること」だと思い立ちます。1906年、医学校を退学した魯迅は文学の道を歩み始めました。

■中国全土に広がった五・四運動
 1919年、第一次大戦が終わりパリ講和会議が始まると、中国代表は「民族自決」にもとづいて、日本の二十一カ条要求の破棄と、山東省の権益返還を要求しました。しかし、中国政府の要求は拒否され、そのニュースが伝えられると、5月4日、憤激した北京の学生を中心に、二十一カ条と親日的軍閥政府への抗議デモがおこなわれ、政府の弾圧にも関わらず抗議運動は全国に広まっていきました(五・四運動)。上海では学生・労働者のストライキと商店の休業が8日間つづきました。ついに、北京の軍閥政府は親日官僚を罷免するとともにヴェルサイユ条約の批准を拒否しました。大衆運動が政府を動かしたのは中国史上初めてのことでした。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第120回 第一次大戦と朝鮮・中国  おわり

こんな話を授業でした

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