世界史講義録
  


第121回  北伐~中国国民革命

中国革命のため中国国民党と中国共産党は合同して国民政府を樹立しました。革命軍司令の蒋介石は、北伐の途上で共産党を弾圧し、国民党の主導権を握って中国統一を達成しました。

■中国革命の新たな担い手、国民党と共産党
五・四運動における大衆運動の高揚を見た孫文は、秘密結社による革命運動を転換し、1919年10月、国民大衆に基盤をおいた中国国民党を結成し、革命派軍閥の協力を得て広州に広東政府を樹立しました。


 また、1921年にソ連・コミンテルンの指導のもと、陳独秀や李大釗により中国共産党が結成されました。反帝国主義の立場から民族独立を支援するソ連は孫文にも接触し、1923年、孫文はソ連との協力にふみきり反帝国主義、反軍閥を掲げて、「連ソ・容共・扶助工農(ソヴィエト政府と連携し、共産党を受け入れ、労働者農民を助ける)」の三大政策を発表しました。
翌24年、国民党が改組され、共産党員がその資格のまま国民党に入党することによって両党は合同しました(第一次国共合作)。また、広州には黄埔軍官学校が設立され、革命軍幹部の養成が始まりました。高い政治意識を持つ革命軍を持つことで、軍閥勢力の打倒をめざそうとしたのです。校長に国民党の蒋介石、政治部主任には共産党の周恩来が就任しました。
蒋介石は、1907年に日本の陸軍士官学校に留学した際に孫文と知り合い、それ以来忠実な態度で孫文に接し、軍閥に煮え湯を飲まされつづけた孫文に信頼された数少ない軍人でした。1923年には孫文の名でモスクワに渡り軍事組織の研究を行っています。
広州にはソ連から資金や武器が届けられ、コミンテルンの政治顧問も派遣されてきました。

■北伐の始まり
1925年、上海で労働者のデモ行進にイギリス警察が発砲し多数の死傷者を出す事件(五・三〇事件)が起きると、これに抗議して上海、北京、香港など全国でストライキが組織され反帝国主義運動が高揚しました。
孫文はこの年の3月「革命いまだ成らず」の遺言を残し癌で死去していましたが、7月、国民党は運動の高揚を好機ととらえ、広州で国民政府の成立を宣言し、翌26年7月、蒋介石を国民革命軍総司令官として北伐を開始しました。10万の北伐軍は、共産党に指導された農民運動や労働運動の支援を受けて、各地の軍閥を破りながら北上し、12月に武漢に政府を移動し、翌年3月までに上海、南京を占領し中国南部を制圧しました。
■蒋介石によって破られた国共合作
蒋介石は、孫文には忠実でしたが反共主義者だったため、北伐の過程で勢力を拡大する共産党に危機感を強め、同じく共産党を警戒する民族資本の浙江財閥や列強の支持を受け、27年4月上海で共産党に対する弾圧をおこない、多数の共産党員や労働運動指導者を殺害しました(上海クーデタ)。蒋介石は、南京に国民政府を樹立し、共産党との連携を主張する国民党左派を排除し武漢国民政府を吸収、国民党の支配権を握りました。国共合作は崩壊しました(国共分裂)。
28年4月、蒋介石は25万の国民革命軍を率いて北伐を再開しました。しかし、共産党を排除してその性格は変質し、蒋介石自身が最大の軍閥ともいうべき存在となっており、諸軍閥を傘下に編成しながら北京に進撃しました。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第121回 北伐~中国国民革命  おわり

こんな話を授業でした

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