世界史講義録
  


第124回  ヴェルサイユ体制の崩壊

ナチス=ドイツはヴェルサイユ条約を無視し再軍備を開始しましたが、英仏はこれを阻止せず、スペイン内乱ではドイツ・イタリアの援助をうけたファシズム勢力が勝利しました。

■再軍備に踏み出したドイツ
 ヒトラーは政権を獲得した1933年に、軍備平等権を主張して、これが容れられないことを理由に国際連盟を脱退しました。

1935年1月、国際連盟管理下のザール地方が、住民投票でドイツに併合されました。同年3月、ドイツは再軍備宣言をおこない、徴兵制の復活、10万に制限されていた常備軍を50万に増強すること、空軍が存在することを表明し、公然とヴェルサイユ条約を無視しました。

■ドイツの行為を阻止できなかったイギリス・フランス
これに警戒感を抱いたフランスとソ連は35年5月に、ドイツを仮想的として仏ソ相互援助条約を締結しました。反対に、イギリスはドイツの要求を認めることが国際社会の安定につながると考え、同年、英独海軍協定を結びました。ヴェルサイユ条約でドイツの潜水艦保有が禁じられていたにもかかわらず、この協定で、イギリスはドイツの潜水艦保有を認めました。イギリスの対応は、ドイツを増長させただけでなく、イタリアがエチオピア侵略にふみきるきっかけとなりました。
 1936年3月、ドイツ軍はライン川の右岸50キロから独仏国境まで設けられていたラインラント非武装地帯に進駐しました。英仏などはドイツを非難し、国際連盟はドイツ問責決議案を採択しましたが、具体的な行動でドイツの行為を阻止せず、実態としては黙認しました。

■連携を深めるファシズム諸国
1935年10月のエチオピア侵略によって国際社会で孤立したイタリアはドイツに接近、36年10月、両国は友好関係を深めベルリン=ローマ枢軸が形成されました。枢軸とは、ヨーロッパ諸国の中心機軸という意味でムッソリーニが使った言葉です。
11月にはソ連を仮想的として日独防共協定が結ばれました。すでに日本は中国東北地方に満州国を建国していました。翌37年にはイタリアも加わり日独伊三国防共協定が成立、全体主義国家三国の枢軸が形成されました。この年イタリアは国際連盟を脱退しました。

■高まる反ファシズム人民戦線の動き
 1930年代半ばにはファシスタ党やナチスに刺激され、ヨーロッパ各国でファシズム勢力が登場していました。フランスでは1934年右翼勢力による議会攻撃の争乱事件が起きると、それまで敵対していた共産党と社会党、急進社会党が人民戦線を結成し反ファシズムで統一行動をとるようになりました。
また、コミンテルンは35年、モスクワに65カ国の代表を集めて第七回大会を開き、平和と民主主義の擁護が各国共産主義運動の課題であるとして、ブルジョワ自由主義者も含めた反ファシズム統一戦線の結成を呼びかけました。翌36年には、6月フランスの総選挙で人民戦線が過半数を獲得し社会党のブルムを首班とする人民戦線内閣が誕生しました。

■ファシズムと人民戦線のスペイン内乱
左右両派の激しい対立がつづいていたスペインでも1936年2月に人民戦線内閣が成立しましたが、7月、右派勢力の軍部がこれに反発し内乱がはじまりました。武装した市民と労働者の活躍によって反乱軍はいったん鎮圧されましたが、ドイツとイタリアが反乱軍のフランコ将軍を支援し、モロッコに孤立していた3万7千のフランコ軍をスペイン本土に空輸したため反乱軍は攻勢に転じ、内乱は長期化しました。
ドイツ、イタリアはこの後も、反乱軍に物資や援軍を送りフランコを助けました。
これにたいして人民戦線政府を支援するため、50数カ国から延べ5万人の国際義勇兵がスペインに渡りました。義勇兵は共産主義者から自由主義者までを含み、スペイン内乱は世界のファシズム勢力と反ファシズム勢力の代理戦争の様相を呈しました。
 しかし、国家として人民戦線を支援したのは武器援助をしたソ連とメキシコだけで、戦火の拡大を恐れた英仏は不干渉政策をとり、内乱は39年4月、反乱軍の勝利に終わりました。この後フランコはスペインに独裁政治を布き、1975年の死までその座にありました。
 ちなみにドイツはスペインを新兵器の実験場にしました。1937年4月、ドイツ空軍はバスク地方の都市ゲルニカへ世界初の無差別爆撃をおこない1600名を超える市民を殺害しました。スペイン出身の画家ピカソは怒りを込めて同年のパリ万博スペイン館に壁画『ゲルニカ』を描きました。

■ソ連にふきあれるスターリンの粛正
 反ファシズム統一戦線を支援したソ連ですが、国内ではスターリンによる反対派への粛正が進行していました。1935年から38年までに800万人が処刑されたり強制収容所に送られたといわれます。この結果、スターリンを頂点とする個人独裁体制が完成しました。
 1936年にはスターリン憲法が制定され、スターリンは民主的憲法と自画自賛しましたが、憲法上保障された民族の平等も信仰の自由も空文であり、18歳以上の男女による直接選挙も、共産党に推薦された者しか立候補者できず、国民に選択の自由はありませんでした。
 しかし、国際社会にもたらされるソ連の情報は極端に少なく、五カ年計画の成果だけが宣伝されました。労働者・農民の国家を標榜するソ連は、依然として世界の労働運動や民族運動にとってユートピア的存在であり大きな影響力を持っていました。逆に、帝国主義諸国政府と独占資本にとってソ連は潜在的敵対勢力であり、イギリスは、ソ連を警戒するが故にドイツに対して宥和的態度をとったのでした。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第124回 ヴェルサイユ体制の崩壊  おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第123回 ドイツに誕生したナチス政権

次のページへ
第125回 満州事変と中国国民政府