世界史講義録
  


第125回  満州事変と中国国民政府

日本が満州事変で中国侵略を本格化した後も、中国国民政府は中国共産党討伐を優先し抗日戦を回避していました。1936年の西安事件を経て、蒋介石はようやく抗日を決意しました。

■世界恐慌と日本の軍国主義化
 日本では、1923年の関東大震災による震災恐慌、27年の金融恐慌と経済危機がつづき、さらに訪れた世界恐慌は1930年の金輸出解禁による不況と重なり昭和恐慌と呼ばれる深刻な事態となりました。財閥は恐慌を利用して多くの産業分野で支配権を強め、政党はこれらの財閥と結びつき国民の信頼を失っていきました。一方で、中国侵略によって現状打破をめざす軍部が台頭し、1932年の五・一五事件、36年の二・二六事件など右翼や軍人によるテロやクーデタがつづくなかで、政党内閣は崩壊し、軍国主義化が加速していきました。



■軍部の独走から生まれた傀儡国家満州国
 1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍の犯行として、中国東北地方で中国軍と戦闘に入りました(満州事変)。関東軍の一部軍人による独断で始められた戦争で、立憲民政党若槻内閣は不拡大方針を表明しましたが、関東軍はこれを無視して軍事行動を続けたため内閣は総辞職し、代わった立憲政友会犬養内閣は、関東軍が東北地方を占領してしまった事実を追認するしかありませんでした。
 32年3月、日本は侵略行為を糊塗するため、東北地方を日本の領土とはせず、清朝最後の皇帝溥儀を執政(34年には皇帝)として満州国を建国しましたが、日本の傀儡国家であることは明白でした。
 この前の1月には、中国東北地方から世界の目をそらすため、排日運動が盛り上がった上海に日本軍が上陸し中国軍と交戦する上海事変が起きています(3月に停戦)。
 中国の要請によって、国際連盟から現地に派遣されたリットン調査団は、満州事変を日本の自衛行動とは認めず、また満州国が日本の傀儡国家であるとしたため、33年、日本はこれに抗議して国際連盟を脱退しました。

■国内の「敵」と戦う中国国民政府
 蒋介石率いる国民政府は日本の侵略に対して国際連盟をつうじた抗議は行ったものの、基本的には無抵抗政策をとりました。このため、柳条湖事件勃発時、北京に滞在していた東北軍司令官の張学良は、東北軍11万を錦州に集結しましたが、日本軍が迫ると抗戦することなく錦州を退き、その後も反撃することはありませんでした。
 蒋介石は、国内を安定させてから外敵を退ける「安内攘外」策をとり、東北地方は切り捨てたのでした。蒋介石が総力を挙げて戦っていたのは中国共産党でした。中国共産党は、国共分裂で国民政府を追われて以降、農村で農地解放を進めながら根拠地建設を行い、1930年には15の根拠地と紅軍(中国共産党の革命軍)兵力6万を擁し、三百余県を支配するまでになっていました。31年11月には毛沢東を主席として、江西省南部の瑞金を首都に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立しました。
満州事変前後の時期に、国民政府は40万を越える戦力を投入して共産党根拠地を攻撃しており、蒋介石は「われわれの敵は倭寇(日本)ではなく、匪賊(共産党)である」と公言していました。

■中国共産党紅軍の長征
 数次にわたる国民政府軍の攻撃を撃退した紅軍ですが、1933年、蒋介石が自ら指揮して100万の兵力と飛行機200機を投入し、経済封鎖も交えた包囲戦をはじめると、根拠地を維持できず、34年、10万の紅軍は瑞金を脱出しました。以後、国民政府軍の攻撃を逃れながら1万2500キロの道のりを踏破し3万の兵力に減少しながらも、36年に陜西省延安に到着して、ここに新たな根拠地建設を開始しました。これを長征といいます。

■民族統一戦線を呼びかけた八・一宣言と抗日意識の高まり
 長征途上の35年8月1日、中国共産党は八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成による救国抗日を訴えました。コミンテルンの呼びかけた反ファシズム統一戦線にそったものです。
 満州国建国後も日本による侵略はつづき、1935年には河北省東部に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府が成立しました。この「自治政府」は、沿岸でおこなわれていた日本の密貿易を低関税で公認し、またその支配地域を通過して満州国で生産されたアヘンが中国各地に流れたため、北京の学生は反日デモをおこない、救国抗日感情が高まっていきました。

■蒋介石に抗日を決意させた西安事件
 蒋介石は抗日戦を求める中国国民の期待に応えることなく、36年、張学良を中共討伐戦司令に任命し延安の共産党討伐を命じました。しかし故郷を日本軍に奪われた張学良とその指揮下の東北軍は共産党の抗日救国の訴えに動かされ、対共産党戦に消極的でした。
36年12月、蒋介石が督戦のため張学良の司令部のあった西安におもむくと、張学良は蒋介石を監禁し抗日戦を迫りました(西安事件)。中国共産党の周恩来も延安から西安に入り蒋介石の説得をおこない(二人は黄埔軍官学校の同僚でした)、抗日戦に同意した蒋介石は、監禁を解かれ南京に戻りました。この後、中国共産党に対する攻撃は中止され、翌37年、日本の中国侵略が本格化すると、ついに第二次国共合作が成立し国民政府=中国国民党と中国共産党はともに日本と戦うことになりました。

*****コラム:その後の張学良*****
西安事件後、蒋介石に従って南京に戻った張学良は罪に問われ軟禁されました。1949年に国民政府が台湾に移ったのちも、台湾で軟禁はつづき、解放されたのは1991年でした。2001年ハワイで101歳の大往生を遂げました。晩年の張学良は、関係者がすべて死去していたにもかかわらず、西安事件で周恩来が蒋介石を説得した具体的な内容については、決して話そうとしませんでした。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第125回 満州事変と中国国民政府  おわり

こんな話を授業でした

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