こうしてはじまった日中戦争ですが、当時の日本では「支那事変」と呼び、戦争という言葉を使わず、中国に対して宣戦布告を行いませんでした。中国を対等の交戦国と考えず見下していたのと、戦争と認めることで、交戦国への輸出制限を定めていた合衆国から戦略物資の輸入が途絶えるのを恐れたためです。
■第二次国共合作の成立
それまで日本の侵略に対して妥協的態度をとっていた蒋介石ですが、日本軍の総攻撃がはじまった37年7月に徹底抗戦を表明し、9月にはついに第二次国共合作が成立しました。中国共産党の紅軍は国民政府の第八路軍と新編四軍として編成され、国民政府軍として日本軍と戦うことになりました。
■南京占領と日中戦争の泥沼化
日本軍は11月に上海を占領し、ついで国民政府の首都南京に進撃しました。12月中旬に南京を占領しましたが、その際に、捕虜、投降兵、一般市民を虐殺し国際的非難を浴びました(南京大虐殺)。犠牲者の数は4万人から30万人まで諸説ありますが、日本軍が国際法を無視して非戦闘員を大量虐殺した事実は否定できません。
近衛内閣は、南京の占領で国民政府を屈服させられると考えていましたが、国民政府が首都を四川省の重慶に移し抗日戦を継続したため、戦争終結への方向性を見失い、38年1月に「国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を発表し、講和への道を自ら断ってしまいました。
日本軍はその後華北と華南の占領地をつなぎ、また重慶への補給路を断つために38年10月に広州や武漢を占領しましたが、重慶の国民政府は中央アジアやビルマ経由で米・英・ソ連の物資援助を受け、抗日戦の指導をつづけました。
華北を中心に広大な地域を占領した日本軍ですが、確実に確保していたのは主要都市と鉄道だけで、農村地域では中国共産党の抗日根拠地が建設されて、八路軍の遊撃戦に日本軍は悩まされました。戦争は泥沼化しました。
■中国国民の支持なき汪兆銘の南京政府
蒋介石と並ぶ国民党の指導者汪兆銘(おうちょうめい)が、1938年12月、日本の呼びかけに答えて重慶を脱出しました。汪は、一時は孫文の後継者と目された政治家で、軍隊を掌握した蒋介石に国民党の主導権を奪われましたが、国民には大きな影響力を持っていました。日本は汪兆銘に親日的な国民政府を組織させて、その政府と和平交渉を行おうとしたのです。
しかし、重慶を出た汪兆銘は国民から見放され、40年、汪を主席として南京国民政府が樹立されましたが、国民に対する影響力はなく、日本の目論見は失敗しました。
■大敗北を喫したノモンハン事件
日中戦争の行き詰まりを、さらなる戦線拡大によって打開しようとする軍部内部には、ソ連との戦いを主張する北進論と、インドシナ方面への進出を主張する南進論がありました。
1938年7月、朝鮮・満州・ソ連の国境で起きた張鼓峰事件と1939年5月、モンゴル・満州国境で起きたノモンハン事件は、北進論の立場から行われたソ連軍との軍事衝突です。
ともに日本軍が敗北しましたが、特に、ノモンハン事件では戦車と航空機によるソ連の機械化部隊に日本軍は死者1万人を超す壊滅的打撃を受けました。また、ノモンハンで戦闘がつづくさなかの39年8月に、独ソ不可侵条約が締結されたことは日本に大きな衝撃を与えました。日本の対ソ軍事行動は、日独伊防共協定を結んでいるドイツがヨーロッパ方面でソ連を牽制することを前提にしていたからです。9月にドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦がはじまった後、ようやく日ソ間でノモンハン事件の休戦協定が結ばれました。
この後、第二次大戦のヨーロッパ戦線の推移と連動して、日本は南進策をとるようになります。
「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より
第126回 日中戦争
おわり