世界史講義録
  


第127回  第二次大戦

1939年、ドイツ軍がポーランドに侵入し第二次大戦が始まりました。ドイツ軍はフランスを破ったのち、東に向かいソ連に侵入、ヨーロッパ戦線最大の激戦、独ソ戦がはじまりました。
日本の真珠湾攻撃により合衆国が参戦し、第二次大戦は世界戦争に発展しました。劣勢だった連合国は1943年以降、各戦線で逆襲に転じ、45年8月日本の降伏で大戦は終結しました。

■ドイツの侵略開始
 1938年3月、ヒトラーはオーストリア政府に圧力をかけ、オーストリア首相の要請に応じるという形式をとって、ドイツ軍をウィーンに進駐させオーストリアを併合しました。
さらに4月には、チェコスロヴァキアに対して、ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方の割譲を要求しました。ドイツとチェコスロヴァキアの緊張が高まり、開戦寸前となった9月、戦争回避を望むイギリスのチェンバレン首相は、フランスのダラディエ首相、イタリアのムッソリーニと共に、ヒトラーとミュンヘン会談をひらき、ドイツのズデーテン地方獲得を認め、チェコスロヴァキアにもこれを受け入れさせました。小国チェコスロヴァキアを犠牲にした宥和政策で、一時の平和は維持されました。
しかし、ヒトラーはさらに領土を求め、39年3月、ドイツはチェコスロヴァキアを解体・併合し、さらにポーランドに対してダンツィヒとポーランド回廊の割譲を要求しました。ここにいたり、イギリスはようやく宥和政策を放棄し、戦争準備を開始しました。

■第二次大戦の始まりと「奇妙な戦争」
 1939年8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれました。この条約によって、ドイツは、将来英仏と開戦した場合に二正面作戦となるのを回避し、ドイツの東方への領土拡大を警戒していたソ連は自国の安全を図ろうとしたのでした。
 9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻を開始すると、英仏はドイツに宣戦し第二次大戦が始まりました。ドイツは約2週間でポーランドを制圧しました。これに乗じて、9月中旬にソ連もポーランドに侵入して、ドイツとその領土を分割し、さらにフィンランドと戦い領土を奪い、バルト三国も支配下に置きました。これらの行為によってソ連は国際連盟を除名されました。
 英仏両国はドイツに宣戦したものの、両国軍はフランスの防衛ラインの内側に引きこもり、ドイツに対して積極的軍事行動を起こしませんでした。また、ドイツもポーランド制圧後、次の作戦準備で侵略行為を止めたため、交戦国が戦わない「奇妙な戦争」となりました。

■フランスの降伏
 1940年4月、ドイツ軍がデンマークとノルウェーに侵入し、戦局はドイツの主導で動き始めました。翌5月、ドイツ軍はベルギーを突破し北フランスに侵入し、英軍はダンケルクからイギリス本土に撤退、ドイツ軍はフランス軍を破って6月14日にはパリを占領しフランスは降伏しました。あまりにあっけないフランスの降伏は、第一次大戦の悲惨な記憶が生々しく戦意に欠けたためだといわれています。フランス北部はドイツが直接占領し、南仏にはペタン将軍による対独協力政府ヴィシー政権が樹立されました。
 ドイツのフランス侵攻の成功を見て、イタリアは6月10日にドイツ側に立ち参戦しました。しかしその軍事力は弱く、大戦の中での役割は大きくありませんでした。

■イギリス空爆から独ソ戦へ
 ヒトラーは、フランスの降伏でイギリスが講和に応じることを期待しましたが、イギリス新首相チャーチルは抗戦意志を明らかにしました。イギリス上陸作戦を企図したヒトラーは、8月からイギリス本土への空爆をおこないましたが、期待した成果があがらず上陸作戦は中止されました。
 対イギリス戦が行き詰まったヒトラーは、40年9月、日独伊三国同盟を結んだうえで、矛先を東方のソ連に転じました。41年6月、ドイツ軍はソ連に進撃し独ソ戦が始まりました。この結果、ソ連は反ドイツ陣営に加わることになり連合国が形成されました。英ソ相互援助条約が結ばれ、合衆国は武器貸与法をソ連に適用しました。
 ドイツ軍は快進撃をつづけ、41年12月6日にはモスクワまで140キロまでの地点まで迫りましたが、ソ連軍の反撃と冬の寒さでモスクワ攻略に失敗し、独ソ戦は長期化しました。42年春になると、ドイツ軍はロシア南部の油田地帯に侵攻し、8月から翌43年2月にかけてスターリングラードでは激しい攻防戦がおこなわれました。

■第二戦線を要求するスターリン
 この間、41年12月に日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争がはじまると、合衆国も連合国として参戦することになりました。しかし、ヨーロッパの戦線においては、連合国の中でソ連だけがドイツ軍と戦っている状態であり、スターリンは英米両国にヨーロッパ西部からドイツを攻撃する第二戦線の形成を求めていました。しかし、独ソ両国が疲弊することをのぞむチャーチルは、その要求の実現を延ばしつづけました。

■市民による反ファシズム抵抗闘争
 1942年の段階で、ドイツ、イタリアの同盟国がソ連とイギリスを除くほぼヨーロッパ全域を支配していました。しかし、ドイツやイタリアに占領された地域では、市民による反ファシズム抵抗運動であるレジスタンスやパルチザン闘争(不正規軍の遊撃戦)がおこなわれました。フランスのド=ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権自由フランス政府を樹立し、ラジオ放送を通じてフランス人に抵抗を呼びかけていました。

■日本の仏領インドシナ進駐と日米関係の悪化
 ノモンハン事件でソ連に敗れた日本は南進論をとることになりました。1940年6月、フランスがドイツに降伏すると、9月、日本軍はフランス領インドシナ北部に進駐しました。これは、合衆国、イギリス、オランダを刺激し、特に合衆国は鉄鋼の原料である屑鉄の日本への輸出を禁止しました。また同月に締結された日独伊三国同盟は、合衆国を仮想敵としており、日米関係は急速に悪化しました。
さらなる南進をはかる日本は、1941年4月、日ソ中立条約を結んで北方の安全確保したうえで、7月に仏領インドシナ南部に進駐しました。これに対して、合衆国は日本の在米資産を凍結し、対日石油輸出を禁止し、重慶国民政府への援助を強化したため、日本では対米強硬論が勢いを増しました。

■ゆきづまる対米交渉
対立の一方で、日本は1941年4月から関係改善のための日米交渉をおこなっていました。しかし、合衆国は日本軍の中国からの撤退を要求したため交渉は難航し、日本では陸軍を中心に対米開戦論が強まってきました。41年10月に成立した主戦論の東条内閣は、独ソ戦でドイツが快進撃をつづけていたことにも刺激され、対米開戦を決定しました。
12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、米英に宣戦、太平洋戦争がはじまりました。ドイツ、イタリアも合衆国に宣戦し、第二次大戦は世界的規模に拡大しました。

■太平洋の戦い
日本はヨーロッパの支配からアジアを解放し「大東亜共栄圏」を建設するとして、42年前半までに、マレー半島からインドネシア、フィリピンまでの東南アジア全域を占領し、南太平洋ではギルバート諸島、ソロモン諸島まで進出しました。
緒戦で勝利をおさめた日本ですが、1942年6月、ミッドウェー海戦で米海軍機動部隊に敗れて空母4隻を失ってからは形勢が逆転し、制海権・制空権を握った米軍の本格的反攻がはじまりました。米軍はガダルカナル島など日本が守備隊を置く島々を攻略しながら前進をつづけ、降伏を恥とする日本の守備隊は、満足な補給がないなかで玉砕という名の全滅を繰り返しました。44年7月にサイパン島を米軍が占領して以降、日本本土への空襲が本格化しました。サイパン-東京間を米軍の長距離爆撃機が往復できたためです。

■連合国のシチリア島上陸とイタリアの降伏
42年11月、米英連合軍は北アフリカのモロッコ・アルジェリアに上陸し、独伊軍を破り43年5月には北アフリカを制圧、7月にシチリア島に上陸しました。ムッソリーニはファシスト大評議会で不信任され失脚し、かわって首相に任命されたバドリオ元帥は、9月連合国に降伏しました。しかし、ドイツ軍がイタリア南部で抵抗を続けたため、連合国がローマを解放したのは44年6月でした。ムッソリーニはドイツ軍の手引きで逃亡をはかりましたが、45年4月、コモ湖畔でパルチザンに発見され銃殺されました。

■ソ連の反攻と第二戦線形成によるドイツの降伏
半年に及んだスターリングランドの攻防戦は43年2月にソ連軍の勝利で終わり、ドイツ軍兵士9万人が捕虜となりました。これ以後、ソ連軍は攻勢に転じ、年末までにドイツ軍に占領されていた領土の三分の二を奪還しました。
11月にはローズヴェルト、チャーチル、スターリンの米英ソ首脳によるテヘラン会談が開かれ、翌年の第二戦線形成が確認されました。翌44年6月、米英両軍は北フランスのノルマンディーに上陸して第二戦線を形成、ドイツ軍と戦いながら西進し、8月にはパリを解放、45年3月にはライン川を越えてドイツに侵入しました。
ソ連軍は44年には東欧に進撃し、秋には枢軸陣営のルーマニア、ブルガリアを降伏させ、45年1月には東プロイセン・ワルシャワ・ブタペストの線を突破して、4月中旬にはベルリン攻略を開始しました。4月30日、ヒトラーは自殺しドイツは降伏しました。

■原爆投下とソ連参戦による日本の降伏
 1942年2月、米英ソはヤルタ会談をひらき、対独処理方針を話し合うとともに、合衆国の強い要請でドイツ降伏後のソ連の対日参戦が確認されました。日本軍の捨て身の抵抗を前にして、米軍は自軍の損害を最小限に抑えるためソ連の参戦を望んだのでした。
45年4月、米軍は沖縄に上陸しました。多くの県民や学校生徒の犠牲者を出して、6月に沖縄守備軍は全滅しました。
7月、トルーマン(ローズヴェルトの死去により副大統領より昇格)、チャーチル(途中でアトリーと交代)、スターリンによりヨーロッパの戦後処理が話し合われ、同時に中国の蒋介石の同意を得て、米英中三国により対日降伏勧告であるポツダム宣言が発表されました。日本政府がこれを黙殺すると、米軍は8月に開発したばかりの原子爆弾を広島と長崎に投下、さらにソ連軍が満州国境、樺太、千島から侵入を開始しました。8月15日、日本はようやくポツダム宣言を受諾して降伏、第二次大戦は終わりました。
 

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第127回 第二次大戦  おわり

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