世界史講義録
  


第128回  戦後世界の出発

第二次大戦後、国際連合は米英仏ソ中の五大国を中心に国際秩序の形成をめざしました。一方で、勢力拡大をはかるソ連と、それを封じ込めようとする合衆国の対立が深まりました。

■連合国によるドイツと日本の処理
 降伏したドイツは、米英仏ソの四国により分割占領され、首都ベルリンも四国により分割管理されることになりました。また、ニュルンベルク国際軍事裁判(1945.11~46.10)が開かれ、ナチス=ドイツの主要な指導者が戦争犯罪者として裁かれ12名が処刑されました。

 日本も連合国の占領下におかれましたが、実質はアメリカ軍の単独占領であり、連合国軍総司令部(G.H.Q.)の間接統治のもとで財閥解体、農地改革などの民主的改革がおこなわれました。46年には主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を柱とする日本国憲法が制定されました。ドイツと同様に日本の戦争指導者は極東国際軍事裁判(東京裁判、1946.5~48.11)で裁かれ、7名が処刑されました。
 満州国と台湾は中国に復帰しましたが、朝鮮は北緯38度線で分けられ北がソ連、南がアメリカによる分割管理となりました。

■国際連合の発足と五大国
 1945年4月に、連合国50カ国によりサンフランシスコ会議が開かれ、国際連合憲章が採択され、10月にはニューヨークを本部に国際連合が発足しました。
国際連合は、国際紛争を阻止するために軍事的制裁の権限を持つ安全保障理事会を設置しました。その常任理事国であり拒否権をもつ、合衆国、ソ連、イギリス、フランス、中国が五大国として戦後世界の秩序に責任を負うことになりました。
国際経済体制は、1945年12月に国連の専門機関として国際通貨基金(IMF)が発足し、アメリカのドルを基軸通貨として各国の為替相場が固定されました。

■二大陣営の対立
 ソ連は大戦末期にドイツから解放した東欧諸国を自国の勢力下に置き、親ソ的な共産党政権を樹立させていきました。イギリスのチャーチルは1946年3月に「ヨーロッパを横切って鉄のカーテンが下ろされた」と演説をおこない、ソ連に対する警戒感をあらわにしました。
 1947年3月、合衆国のトルーマン大統領(任1945~53)は、「トルーマン=ドクトリン」を発表し、ギリシアとトルコに経済援助をおこない、ソ連の影響による共産主義化を阻止する決意を示しました。これ以後、合衆国は軍事同盟や経済援助によってソ連圏(共産圏)の拡大を防止する「封じ込め」政策を展開しました。
47年6月、合衆国は、ヨーロッパ諸国が経済困難から社会主義化するのを防ぐため、経済援助計画「マーシャル=プラン」を発表しました。1948年2月、チェコスロヴァキアで、マーシャル=プランの受け入れをめぐる対立から、クーデタが起き共産党政権が成立すると、英仏とベネルクス三国は、共産勢力を警戒して西ヨーロッパ連合条約を結びました。これが発展して、1949年、合衆国を中心に英、仏、伊など12カ国が反ソ軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)を結成し、ソ連を包囲する形で米軍が西ヨーロッパ各地に配備されました。

■ソ連の対抗措置
 ソ連は「封じ込め」に対抗して、東欧各国の共産党にフランス共産党、イタリア共産党を加えて1947年コミンフォルム(共産党情報局)を組織しました。マーシャル=プランには49年のコメコン(東欧経済相互援助会議)を組織して対抗し、55年には東欧諸国の軍事同盟、ワルシャワ条約機構を結成しました。
また、ソ連は49年に原爆実験に成功し、合衆国につづく核保有国となりました。合衆国が52年に水素爆弾を保有すると、翌年にはソ連も水爆実験に成功し核開発競争がおこなわれました。しかし核兵器保有国が戦火を交えればその被害ははかりしれず、両国の激しい対立は、戦争をともなわず「冷戦」と呼ばれました。

■分断国家の誕生
 四カ国によって分割占領されていたドイツでは、1949年、米英仏占領地にドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し分断国家となりました。首都ベルリンも東西に分断されたため、西ベルリンは東ドイツ領内に浮かぶ西ドイツの飛び地となりました。東ドイツから西ベルリン経由で亡命する者が急増した1961年、東ドイツ政府は通行遮断のため西ベルリンの周囲に壁を築き、東西冷戦の象徴となりました。
 朝鮮半島では1848年、南部にアメリカの支援を受けた李承晩大統領(任1948~60)の大韓民国、北部にはソ連が支援する金日成主席(1912~94)の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しました。

■朝鮮戦争と合衆国の対日政策の転換
 1950年、朝鮮統一をめざす北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南進し、朝鮮戦争が始まりました。国連安保理事会が北朝鮮の侵略と認定(ソ連は欠席)し、アメリカ軍を主力とする国連軍が韓国軍を支援すると、中国義勇軍が北朝鮮側に立ち参戦し、51年には戦線は38度線付近で膠着し、53年、休戦協定が成立し両国の分断が固定化しました。
 朝鮮戦争勃発後の1951年、日本はサンフランシスコ平和条約で西側陣営諸国と講和を結んで独立を回復し、同時に結んだ日米安全保障条約で、日本国内の米軍基地建設を認めました。また、憲法が戦力保持を禁じているにもかかわらず、多くの国民の疑念を押しきり自衛隊を発足させました。これらは、日本を反共の防波堤にしようとする米軍の意図に沿ったものでした。


「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第128回 戦後世界の出発  おわり

こんな話を授業でした

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