こんな話を授業でした

世界史講義録

   第13 回   ローマの発展 

1ローマの発展

  イタリアの首都、ローマですが、ここはもともとは小さな都市国家でした。ギリシアのポリスと似たような構造でアテネに比べて200年くらい遅れて発展してきました。

アレクサンドロス大王がペルシアを滅ぼしたあとなぜそのままインド方面に向かったのか、西に、つまりイタリア半島の方向へ遠征を考えなかったのはなぜか。つまり現在のイタリア方面には遠征するだけの魅力はなかった。後進地帯だったわけです。

このローマがやがて大発展してアレクサンドロスの後継国家、つまりヘレニズム国家をすべて支配する大帝国になるのです。その経過を見ておきましょう。

ローマは前8世紀頃ラテン人によって建国されました。ラテン人はインド=ヨーロッパ語族です。今でもイタリア人やスペイン人をラテン系民族というのはローマ帝国の支配下に入ってラテン人の血を引き継いでいるという意識から来るようです。

都市国家ローマには最初は王がいましたが、前6世紀には王を追放して共和政が始まりました。王がいる政治制度が王政、王がいないのは共和政です。こういう用語は覚えておこう。アメリカ合衆国は王がいませんから共和政、イギリスは女王がいますね、だから王政。韓国は、共和政。じゃ、日本は?王はいないけど天皇がいる。どっちだといわれれば王政に分類されます。

 ローマでは前6世紀に共和政が始まって以来、元老院と呼ばれる貴族の議会が政治を主導してきました。外国の使節がローマの元老院を見て、王が何百人も集まっているようだと言ったくらいに、彼らは誇り高かった。また共和政という政治制度に自信を持っていたようです。
元老院という訳語は伝統がある古い訳ですがわかりにくい。同じモノが現代政治だと上院とか貴族院と訳されます。

政府の役職で一番トップに立つのがコンスル。執政官と訳されます。これも現代的に訳せば大統領です。任期一年で2名おかれます。2名にしているのは独裁政治にならないように互いに牽制させるためです。ともかく、ローマでは王や王もどきが出現するのを極端に警戒しました。

しかし、執政官二人の意見が異なると国家存亡の非常事態に対応が遅れて困ることになります。この点を解決するためにおかれる臨時職にディクタトールがある。これは独裁官と訳す。半年任期で1名です。決して半年以上は任に着かない。独裁者にならないようにです。

 執政官も独裁官も元老院議員もみんな貴族から選ばれます。
これに対して平民たちが不満を持つようになるのはギリシアと同じです。
ローマでも平民が武器自弁で重装歩兵として戦場にでる。これは貴重な戦力なんですね。ところが、戦場での活躍だけが期待されて政治的権利がない。ということで平民が貴族に対して抗議活動をおこないます。

前494年の聖山事件というのがこれです。平民たちが聖山という山に立て籠もってストライキを起こした事件です。
ローマの貴族たちは護民官設置を認めることで平民に歩み寄りました。
護民官は2名。執政官の政策に対し、それが平民の不利益になると判断すれば拒否権を発動することが出来る。護民官がノーといえば執政官は何もできないというわけだ。
それから、護民官は身体不可侵です。誰も護民官を肉体的に傷つけることは許されない、独特の宗教的ともいえる権威を持つようです。

その後も徐々に平民の権利は拡大します。
前451年、十二表法制定。12枚の銅板に法律を刻んで誰もが見られるようにした。貴族独占だった法律情報の公開ですね。元老院はアテネに使節を派遣してドラコンの法なんかを参考にしたといいます。

前367年、リキニウス=セクスティウス法。執政官のうち一名を平民から選出する法律です。

前287年、ホルテンシウス法。平民の議会である平民会というのがあるんですが、この平民会の決定を国法とする法律です。元老院と対等に立法出来るようになったわけです。

この段階で、ローマにおける身分闘争は終結し、政治は安定し、外に向けて発展していきます。

ここで一つ注意。
執政官も、貴族・平民から一名ずつ選ぶようになり、立法権も平等にあるから、二つの身分は対等のように見えます。でも、違うんです。例えばアテネでは貴族、平民も一緒になった民会が国政の最高機関になりましたが、ローマでは貴族は元老院、平民は平民会と、二つの身分は分離したままです。ここは、注意しておいてください。そして、常に貴族は大金持ちです。財産あります。平民にはありません。財産を築いた平民は貴族の仲間入りを目指します。
ローマで実質的に政治権力を握っているのは元老院を中心とする貴族ですよ。

2地中海世界の統一

 ローマは周辺の都市国家や部族を征服し前272年にはイタリア半島を統一しました。
ローマの他国支配の仕方は少しわれわれの常識とは違うので説明しておきます。

例えばローマがある都市、仮にA市としますが、A市を降伏させると条約を結びローマの同盟国とします。A市は自治を認められ、ローマに対して納税の義務はない。ただし、ローマがどこかと戦争をするときは兵隊を出す義務があります。それだけです。今のアメリカとどこかの国みたいな関係です。
こんなふうに色々な国を支配すると、同じように条約を結び同盟国を増やすという形で、領土が増えていくのです。領土というより、緩やかな連合体という感じです。

ローマがその服属諸都市と結んだ条約の中身ですが、都市毎に待遇が違うのが大きな特徴です。差別待遇をするので服属諸都市間の利害が一致しにくい。団結してローマに抵抗するということが起きにくい。
これを、分割統治という。

さらにローマは服属都市の支配層である貴族たちにローマ市民権を与えるんです。
つまりA市の支配者は同時にローマ市民になる。支配者であるローマ人と同等になってしまうのね。これではローマに逆らう理由はないです。

こういう支配の仕方がローマ人は実に上手い。

あくまでもこのような支配の仕方はイタリア半島の支配地域だけです。
やがて、ローマは海外に進出します。

 イタリア半島のつま先が蹴っ飛ばしている石、これがシチリア島です。ローマはここに勢力を伸ばします。
ここはギリシア系の都市が多いのですが、カルタゴの勢力圏でした。
ローマが最初にぶつかった強敵がこのカルタゴです。

ハンニバルの進路
青色はハンニバルの進路

カルタゴはフェニキア人が建設した植民都市でしたが当時は西地中海貿易を支配する大国になっていました。カルタゴ人をローマ人はポエニ人と言ったので、このローマ・カルタゴの戦争をポエニ戦争といいます。

ポエニ戦争は前264年~前146年になっていますが、前後三回大きな戦闘があって、中間期は中休みです。

第一回戦(前264年~前241年)。シチリア島の争奪戦。海戦に慣れないローマがはじめは苦戦しますが、最終的に勝ってシチリア島からカルタゴ勢力を追います。

 第二回戦(前218年~前201年)。

これはハンニバルという名将が登場するので有名です。別名ハンニバル戦争。
ハンニバルはカルタゴの将軍家に生まれます。父親が第一回戦でシチリアをローマに奪われたあと、現在のスペインの開発をする。当時スペイン内陸部はまだ未開で、色々な部族集団もいた。ハンニバルは父親とともにスペインの諸部族を味方に付けながら開発をおこない、軍隊の養成もしていた。

やがて、父親が死んで跡を継ぐんですが、シチリアを奪ったローマにどうにか一泡吹かせて逆襲したいというのが、ハンニバルの宿願です。軍隊を率いて海路ローマを攻めればいいんですが、すっかり制海権はローマに握られていた。
海上からローマを攻撃するのは不可能だった。

ハンニバル
ハンニバル

そこでハンニバルが考え出したのが、アルプス越えという奇策です。
陸路アルプスを越えてイタリア半島に侵入しようという。
登山道も何もない時代です。これも不可能に近い。誰もがそう思っていたからローマもアルプス方面に軍事的な防衛をしていない。だから、逆にもしアルプス越えに成功すれば一気に勝利を勝ち取るチャンスも大きい。

前218年、春、ハンニバルは約5万の兵を率いて、スペインを出発しました。象軍というのもあって、37頭の象を連れていた。そのほか騎兵隊もあるから当然馬もいる。これらを引き連れてアルプスを越えたのが10月。途中の山道は雪に埋まり、谷間に落ちたり、山岳民の襲撃を受けたりして、イタリア北部にたどり着いた時は兵力は半分の2万5千でした。
ところがこの2万5千の兵力でハンニバルはまる16年間イタリア半島で闘い続けるのです。

前216年、カンネーの戦いでは5万を超えるローマ軍を殲滅しました。これは戦史に残る殲滅戦だそうです。その後もハンニバルはローマ軍を破り続けました。とにかくハンニバルは用兵の天才。繰り出す軍団が次々に負けるのでローマは決戦を避けて持久戦にはいります。ハンニバルはある程度の都市を攻略するのですが、10年かかっても決定的な勝利は得られなかった。

原因の一つはハンニバルはローマの同盟市が離反して自分を支援することを期待していたのですが、分割統治がうまくいっていたんですね、離反がなかった。
もう一つはハンニバルの戦略です。彼は「戦争に勝利することを知っているが、勝利を利用することを知らない。」と評された。カンネーの戦いで大勝利したあとでなぜローマ市を直接攻撃しなかったのか、今でも彼の戦略のなさが指摘されているところです。

 ハンニバルはローマを降伏させることが出来ないけれど、ローマもハンニバルに勝てない。
ハンニバルはイタリア半島に留まり続けているわけですから、ローマも困った。
そこに登場するのがローマの将軍スキピオです。
スキピオは元老院の反対を押し切って、直接カルタゴを攻撃したんです。カルタゴの指導者たちは弱腰だから直接攻略されたらあわててハンニバルを呼び戻すだろうという考え。これは一種の博打です。スキピオの出陣によってローマの守備はガラ空きですから、もし、ハンニバルが戻らずにローマを攻撃したら大変なわけです。

でも実際にはカルタゴ本国の指導者たちは、スキピオ率いるローマ軍が迫ったのを見てハンニバルに召還命令を出します。カルタゴ南方のザマでハンニバルとスキピオの決戦が行われ、不敗のハンニバルはついに敗れカルタゴは降伏しました(ザマの戦い、前202年)。カルタゴは本国以外の領土をすべてローマに奪われますが、国の存続は認められました。
これがポエニ戦争第二回戦です。
大スキピオ
大スキピオ

ハンニバルはその後カルタゴの指導者の一人となりますが、失脚しシリア方面に亡命しました。
一方のスキピオも大スキピオとよばれローマの大物政治家となるのですがこれも晩年に失脚しています。
ホントかどうか分かりませんが、のちに二人がロードス島で再会したという。
ハンニバルはすでにアレクサンドロス大王と並び称される名将で、スキピオはその彼を破っている。それが自慢のスキピオがハンニバルに問う。
「古今東西で最高の名将は誰か?」
ハンニバルは答える。「それはアレクサンドロス大王である。」
スキピオ「では二番目は?」
ハンニバル「エピルス王ピュロスである。」(授業には出てこなかったけどそういう人がいたのです。)
スキピオは自分の名前が出てこないのでいらいらしてくるのね。さらに問います。
「では、三番目は誰か?」
ハンニバル「それは、私ハンニバルである。」
スキピオ「あなたはザマで私に敗れたではないか。」
ハンニバルも負けず嫌い。「そう、もし勝っていれば私はアレクサンドロスを飛び越して一番だ。」
だってさ。

 第三回戦(前149年~前146年)。
第二回戦で負けて領土を奪われたあとも、カルタゴは海上貿易ですぐに復興して繁栄を取り戻すのです。ローマの発展にとってはカルタゴを滅亡させる必要があった。
第三回戦は圧倒的な軍事力を持つローマ軍に包囲されたカルタゴの籠城戦です。ローマ軍の指揮官が小スキピオ。大スキピオの長男の養子です。
籠城戦ですから、ローマ軍は食糧が無くなって降伏するのをひたすら待っているのです。で、カルタゴ市の城壁の上を巡回警備しているカルタゴ兵の様子をずっと観察している。食糧が尽きてきたら痩せてくるでしょ。ところが包囲戦が4年目に入っても、兵士はまるまる太っているのです。

ローマ軍がおかしいなあ、と思っていたある日カルタゴから逃れてきた市民を捕まえて城内の様子を尋ねると、女子供が自分の命を絶ってその肉を警備兵に食べさせているというんだ。ローマ軍を欺くためにね。

そうだったのか、というわけでローマ軍は総攻撃をかけた。
もうカルタゴはまともに戦える状態ではなかった。ローマの圧勝でした。
残った住民は全部奴隷に売り払い、土地には海水をまいて二度と人が住めないように徹底的に破壊しました。

カルタゴ滅亡と同年、前146年には東方のマケドニア、ギリシアもローマによって征服されました。

このように新しく領土に加えられたイタリア半島以外の土地をローマは「属州」とした。
属州にはローマから有力貴族が総督として送り込まれて、税金をがんがん搾り取りました。
その富がローマ市に流れ込んでくる。
繰り返しますが、税金を払わなくてよいイタリア半島の服属都市とは全然待遇が違いますからね。

また、戦争捕虜が奴隷としてどんどんローマ市に送り込まれました。

世界帝国としてのローマ誕生です。

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世界の歴史〈5〉ローマ帝国とキリスト教 (河出文庫) 基本的な概説書。題名ほどキリスト教にスペースを割いているわけではない。
ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上) (新潮文庫)
ローマ人の物語 (4) ― ハンニバル戦記(中) (新潮文庫)
ローマ人の物語 (5) ― ハンニバル戦記(下) (新潮文庫)
塩野七生著。ローマ人の物語は、どの巻も面白いが、「ハンニバル戦記」は特にお気に入り。ミーハー気分でハンニバルを応援してしまうのである。

第13回 ローマの発展 おわり

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