世界史講義録
  


第130回  イスラエルの建国とパレスティナ問題

ユダヤ人国家イスラエルの建国は、パレスティナ人難民を生み、アラブ諸国と4度にわたる戦争を生じました。現在に至るまで、パレスティナ問題は解決していません。

■アラブ諸国連盟と大戦後のパレスティナ
 中東のアラブ諸国は大戦前から大戦中にかけて英仏から独立を遂げ、1945年3月、アラブ諸国連盟を結成しました。当初の加盟国は、エジプト、シリア、イラク、レバノン、トランスヨルダン、イエメン、サウジアラビアの七カ国で、アラブ諸国の連帯強化と反英運動を目的としました。対イギリスで問題となっていたのがパレスティナでした。

第一次大戦後にイギリスの委任統治領となっていたパレスティナ地方には、バルフォア宣言にもとづいて、ユダヤ人国家の建設をめざすユダヤ人の入植がつづき、土地を奪われるアラブ人(パレスティナ人)との紛争がつづいていました。

■イスラエルの建国と第一次中東戦争
1947年、国連はパレスティナ地方をユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する「パレスティナ分割決議」を可決しました。ユダヤ人に圧倒的に有利な地割りに、アラブ人は決議案を拒否しましたが、48年ユダヤ人が一方的にイスラエル建国を宣言し、これに反対するアラブ諸国連盟との戦争が勃発しました(パレスティナ戦争、または第一次中東戦争)。翌年、イスラエル軍優勢のうちに国連の調停で停戦が成立し、イスラエルはパレスティナ地方の80%を支配して独立を達成し、約100万のパレスティナ人が土地を追われ難民となりました。

■ナセルのスエズ運河国有化からはじまった第二次中東戦争
 1952年、エジプトで自由将校団による革命が起こり、国王が追放され共和政が成立しました。自由将校団はナセルなどを指導者とする民族主義軍人グループで、パレスティナ戦争の敗北をきっかけに国政変革をめざしたのです。1922年に独立していたエジプトですが、イギリスはエジプト王室(ムハマンド・アリー朝)と結びついて利権を維持していましたから、この革命が実質的なエジプトの独立といえます。
 エジプトの実権を握ったナセルが、世界の注目を集めたのが、56年のスエズ運河国有化宣言です。発端は、反共軍事同盟であるバグダード条約機構に反対したナセルに対して、合衆国がアスワン=ハイダムの建設資金援助を撤回したことでした。ナセルは資金確保のためスエズ運河の国有化にふみきったのです。
これに対して、イギリスはフランス、イスラエルを誘ってエジプトを攻撃、スエズ戦争(第二次中東戦争)が起きました。しかし、国際社会の激しい非難をうけて三国がエジプトから撤退したため、アラブ民族主義は高揚しナセルはその指導的位置を占めました。

■負けないイスラエル~第三次、第四次中東戦争
 スエズ戦争では70万のパレスティナ難民が生まれ、パレスティナ人を支援するアラブ諸国とイスラエルの敵対関係はつづきました。
 1967年、パレスティナゲリラを支援するシリアとの対立をきっかけに、イスラエルはエジプト、シリア、ヨルダンに先制攻撃を加え、エジプトのシナイ半島、シリアのゴラン高原、ヨルダンのヨルダン川西岸地区を占領しました(第三次中東戦争)。
領土回復をめざすエジプトとシリアは、1973年、イスラエルに先制攻撃を加え第四次中東戦争が起きました。戦争は勝敗なく約一月で停戦しましたが、このときにアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、親イスラエル国への石油輸出を制限し石油価格を引き上げるという石油戦略をとり、世界経済に大きな混乱をあたえました(第一次オイルショック)。
 
■方針転換をはかりイスラエルとの共存をめざすエジプト
 第四次中東戦争で勝利できなかったエジプトは、イスラエルの存在を認めて共存する方針に転換しました。1970年のナセル死後、エジプト大統領となったサダト(任1970~81)は、中東和平に乗り出していた合衆国の仲介で、1979年、エジプト=イスラエル平和条約を結び、その結果、シナイ半島はエジプトに返還されました。エジプトはアラブ諸国から激しい反発をうけ、サダト大統領は81年に暗殺されましたが、エジプトの外交方針は変わりませんでした。

■武装闘争から共存へ向かうPLO
 パレスティナ人は、1964年、自らの政治組織パレスティナ解放機構(PLO)を結成し、70年代以降、アラファト議長(任1969~2004)の指導のもと武装闘争を展開しました。祖国を求めるパレスティナ人の戦いも、イスラエルにとってはテロであり、両者は互いの存在を認めず、報復の連鎖は途絶えず流血事件は日常化していきました。
 しかし、80年代後半には、エジプトの方針転換をうけて、PLOもイスラエルとの現実的な関係を模索しはじめ、88年、アラファトはイスラエルとの共存を認めました。93年には、PLOとイスラエルは相互承認し、イスラエル占領地域でのパレスティナ人の自治を認めるパレスティナ暫定自治協定が結ばれました。

■パレスティナ問題の鍵を握る合衆国
 しかし、PLOとの和平を推進したイスラエルのラビン首相(任1992~95)は95年に極右ユダヤ人青年に暗殺され、その後成立した右派のシャロン政権は協定違反をつづけています。一方のパレスティナ人にも、PLOの方針に反対する武装勢力があり、また2004年に長年にわたってパレスティナ人の諸勢力をまとめてきたアラファトが死去し、新指導部の動向も不透明です。
 戦争のなかで生まれ、周辺諸国の敵意に囲まれたイスラエルは、過剰なまでに攻撃的になることで国家建設をしてきました。核兵器も保持しているといわれます。このイスラエルが後ろ盾としている合衆国の姿勢が、パレスティナ問題解決の鍵となっています。

「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第130回 イスラエルの建国とパレスティナ問題 おわり

こんな話を授業でした

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