世界史講義録
  


第132回  ヴェトナム戦争と合衆国の相対的地位低下

南ヴェトナムで、解放戦線と政府軍の戦闘が始まると、合衆国は大規模な軍事介入をおこないました。最終的にヴェトナムで敗れた合衆国は、経済外交政策の転換を迫られました。

■民衆の支持なき南ヴェトナム政府
 分断されたヴェトナム南部には、1955年、ゴ=ディン=ジェム(1901~63)を大統領とするヴェトナム共和国が成立しました。合衆国は、南ヴェトナムが共産化すれば他のアジア諸国にも共産主義が波及すると考え、反共政策をおこなうジェム政権を支援しました。


しかし、カトリックのジェム大統領は当初から国民に人気がなく、大統領一族の金権腐敗体質、南北統一選挙のボイコットによる分断固定化、さらに強権的にすすめられた反共政策は、民衆の反米・反政府感情を刺激しました。とくに南北分断前の土地改革の成果を否定し、農民から土地を奪ったことは、大きな反発を生みました。

■南ヴェトナム解放民族戦線の結成
 1960年、ジェム政権打倒をめざす南ヴェトナム解放民族戦線が北ヴェトナムの支援を受けて結成され、反政府ゲリラ活動を開始しました。61年、合衆国は南ヴェトナム政府軍のゲリラ掃討作戦を支援するため大規模な軍事顧問団を送りましたが、民衆に支持された解放戦線は着実に解放区を広げていきました。64年3月には、農村の40%が解放戦線の支配下に入っていました。
 63年、ジェム政権の独裁と仏教弾圧に反対して、都市でも反政府運動が広がると、軍部によるクーデタが起こり、合衆国に見限られたゴ=ディン=ジェムは暗殺されました。その後の南ヴェトナム政府は安定せず、65年6月までに14回のクーデタが発生しました。

■米軍の直接介入のはじまり
 1965年、合衆国は南ヴェトナム政府軍の崩壊をくい止めるため、18万の兵力を直接投入しました。ここから合衆国の戦争としてのヴェトナム戦争が本格化します。
 米軍は解放戦線の遊撃戦に苦しみました。農村地帯では、一般農民と解放戦線のゲリラとの区別がつかず、解放区の農村をまるごと破壊し、米軍将校が「この町を救うためにそれを破壊している」と述べたような、無意味な戦いにはまりこんでいきました。山岳地帯やジャングルに誘い込まれて苦戦をすると、枯葉剤を散布してジャングルを破壊しました。
 米軍は、解放戦線を支援する北ヴェトナムに対して、徹底的な空爆(北爆)を加えましたが、地上軍の投入は最後までおこないませんでした。北ヴェトナムに援助を与えていた中国とソ連が軍事介入することを恐れたためです。また、北ヴェトナムも米軍地上部隊に侵攻の口実をあたえないため、解放戦線に対する支援はラオス・カンボジアを経由するホーチミン=ルートを通じておこない、17度線の国境を直接越えませんでした。

■ヴェトナム反戦運動の広がり
 米軍の兵力は派兵がはじまった65年から増え続け、68年には53万を超えるまでになりましたが、終結の見通しは立たず、膨大な兵力と軍事費を投入しながらも泥沼に陥ったヴェトナム戦争に対して米国内では批判が高まりました。
 また、米軍の戦闘で逃げまどうヴェトナム農民の姿や、南ヴェトナム政府の腐敗ぶりは映像を通じて世界に伝えられ、世界各地に反米・反戦運動がひろがりました。

■米軍の撤退とヴェトナム統一
69年に合衆国大統領となったニクソン(任1969~74)は、介入縮小の方針を打ち出しました。ニクソンは、南ヴェトナム政府軍の増強をおこない、ホーチミン=ルートを封鎖するため戦線拡大をしてカンボジアに親米政権を樹立したのち、1973年1月、ようやく北ヴェトナム政府、南ヴェトナム解放民族戦線、南ヴェトナム政府とパリ和平協定を締結し、4月に米軍の撤退が完了しました。
 合衆国は撤兵後も南ヴェトナム政府への援助をつづけましたが、75年、解放戦線と北ヴェトナム人民軍の攻撃により南ヴェトナム政府軍は崩壊、首都サイゴンが陥落しヴェトナム戦争は終結しました。1978年、南北は統一され、ヴェトナム社会主義共和国となりました。
アメリカは、ヴェトナム民衆の民族独立の願いを理解できず、共産化の防止という一方的な正義を押しつけたため、圧倒的に優れた装備を持ちながら敗れたのです。

■ドル危機と石油ショック
 ヴェトナム戦争は、合衆国の威信を低下させただけでなく、長年にわたる膨大な軍事支出は財政を圧迫し、ドル危機と呼ばれる国際通貨ドルの信用不安をもたらしました。
ニクソン大統領は1971年、ドルと金の兌換停止とドル切り下げを宣言し、ドルの価値は急落(ドル=ショック)、73年までには主要国は固定相場制から変動相場制に移行しました。
 また、73年の第一次オイルショックは、各国の経済に動揺をもたらしたため、先進資本主義国は、政治経済政策を討議するために75年以降毎年、先進国首脳会議(サミット)を開催するようになり、合衆国の経済的地位が相対的に低下していきました。

■合衆国の中華人民共和国承認
 ヴェトナムでの敗北が明白になった72年、ニクソン大統領はそれまで敵視していた中国を訪れ、共同声明で両国の和解を発表しました。中ソ対立で孤立していた中国を取り込むことで、ソ連を牽制し、東アジアで影響力を保持しようとしたのです。



「よくわかる高校世界史の基本と流れ」(秀和システム)より

第132回 ヴェトナム戦争と合衆国の相対的地位低下 おわり

こんな話を授業でした

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