こんな話を授業でした

   第16回  ローマの文化 

ローマ市民の都市生活

  ローマ人がどんな生活をしていたかを見ておきましょう。
彼らの生活はユニーク。
時代はカエサルから五賢帝時代、だいたい紀元前50年くらいから200年くらいまでと考えておいてもらったらいいです。

ローマ市は「パンとサーカスの都」と言われる。
広大な属州から搾り取った富がローマ市にはどんどん流れ込んでくる。その富がローマ市民にばらまかれた。ローマ市民であれば何も財産がなくても食べるに困らず、娯楽も只で提供された。それを言いあらわしたのが「パンとサーカスの都」です。

まず、パン。
穀物の無料配給というのが行われていて、家族が何人もいたら足りないけれど、自分一人なら充分に食べていけるだけの食料が配られました。それ以外にも臨時で皇帝や有力貴族が配るからね。
ネロ帝は暴君として有名だけど、民衆の人気は高かったんだ。彼は裕福な市民を死刑にして財産没収して兵士や民衆にサービスをしまくるんだね。
カリグラ帝は本当に金貨をばらまいたりもした。広い意味で民衆、狭い意味で兵士に支持されることが皇帝権力の源だったことが分かります。

サーカスも分かるでしょう。
剣奴の試合が頻繁に行われていた。あと競馬。戦車競争です。演劇も盛んだったようだ。
こういう娯楽がしょっちゅう行われていて、費用は皇帝や有力者持ち。
皇帝達は人気取りのために国家の祭りや記念日をどんどん増やしていくんです。そういう祝日祭日にはいろいろな催し物を開催する。
要するに市民は只で遊んで暮らせたわけだ。

有名なコロセウムです。5万人収容というからすごい。当時は天幕を張って屋根もついていた。中に水を張って模擬海戦の見せ物もやったんだって。そんなこと思いつくことが驚異。東京ドームに水を入れてボート競技しようなんて思いつきますか。

 市民サービスとして有名なのが公衆浴場です。
カラカラ帝の造ったものが規模の大きさで有名ですが、それ以外にもローマ市内には千軒以上の公衆浴場があった。

これ、浴場と訳しているけれど、日本の銭湯を思い浮かべたらダメですよ。
日本語に翻訳するときにあてはまるものがなかったから公衆浴場なんて訳されて教科書や資料集もそう書いてあるけど、実は違う。
ようやく日本にもこれが普及してきました。フィットネス・クラブとかスポーツ・クラブとか呼ばれている、あれです。うちの近所にエグザスというのがありますが、まさしくあれ。

入場料は非常に安かった。本には10円と書いてあるんですが、只くらい安かったと思っておこう。
で、入場するとまずトレーニング・ルームがある。そこでレスリングしたり、球技したり、円盤投げ、やり投げの練習で一汗流します。
次はマッサージ・ルーム。ここで身体をほぐしてもらって、いよいよ入浴。
これはサウナです。低温サウナで慣らしてから高温サウナ。二つのサウナがあったようです。
身体をきれいにして暖まったところで、最後はプールでひと泳ぎ。

まさしく、フィットネス・クラブでしょ。
さらにここで終わりじゃないんですよ。

このあと遊戯室や談話室に入る。友達とお喋りしたり、将棋なんかのゲームをしたりして遊ぶ。
やがて腹が減りますわな。
そしたら食堂へ行く。
景気の悪いときでも最低6皿の料理がでた。そのうち2皿は肉料理だって。当然ワインもでるでしょうね。これ別料金ではないですよ。はじめの10円の入場料で最後まで遊んで食べられる。

今の日本よりよっぽど満足いくサービスですね。
これがローマの公衆浴場です。

 一般市民でこれだから、裕福な市民や貴族はどうだったか。
この風呂やプールを自宅に持っている人々ですからね。
彼らの贅沢を言い出したらキリがないので、食事風景だけ話しましょう。

貴族達はしばしば宴会を開く。
こういうときに主催者は金に糸目を付けず珍味をどこからでも手に入れてきて風変わりな調理を施して、これでもかこれでもか、と食事を出したらしい。

宴会に出る者達は食事服というのを着ます。これは食事の時だけ着る使い捨ての服です。
資料集の食事風景のイラスト見て下さい。
寝そべっているでしょ。これが正式な食事のマナー。
彼らは箸もフォークもスプーンも使いません。食事は手づかみ。
寝そべって手づかみでだらだら食べる。手はすぐにぐちゃぐちゃに汚れるね。その手を食事服で拭うわけです。だから、汚してもよい服が食事服。
なんですが、彼ら金持ちはこの食事服に金をかけて、贅をこらしたりするのですよ。その高価な食事服を惜しげもなく汚して、ポイポイって捨てるの。一回の宴会で何回も着替えたりする者もいる。

彼らを見ていると散財する事に情熱をかけているようです。それがステータス・シンボル(地位の象徴)だったんだろうね。
アピキウスという大金持ちの話があります。この人食道楽でさんざん浪費したあと、あと10億円財産が残っていたのに、貧乏では生きている意味がないと言って自殺した。

で、宴会は続きます。どんどん食事はでます。出席者、満腹でもう食べられません。そうすると侍(はべ)っている奴隷を呼ぶ。宴会場にはたくさんの奴隷がいるんですが、孔雀の羽を持っている奴隷がいる。その奴隷がその貴族に近づく。貴族は上を向いてアーって口を開ける。奴隷がその口の中に羽を突っ込んでグリグリするんです。満腹の喉に異物を突っ込まれますからね、ゲーッて吐くんです。
お腹の中のものをすっかり吐き出して、貴族はまた新たな皿に挑むのです。
吐いた汚物はというと、別の奴隷がきれいに処理してくれる。
彼ら吐くために食っているのです。

これは明らかに異常な光景だよね。
こういう暮らしぶりを退廃と呼ぶのだと思います。

 退廃ということでは性的な面では滅茶苦茶だったようで、貴族の夫婦関係なんていうのは名目だけみたいですね。
浮気みたいな事は当たり前だったんですが、前回も話したように出生率がどんどん低下するんです。元老院の名門貴族の家がどんどん断絶する。イタリア半島以外からも名門の家の者を元老院議員に任命して、欠員を埋めたりしているんですよ。
出生率低下の原因はいろいろな説があってはっきりしませんが、多分子供を産むのが邪魔くさかったんではないか、と思う。貴族は自分で子供を育てるわけではないですがそれでも面倒なもんだ。しかも夫からすれば生まれた子が誰の子か分からないわけで、それに財産を譲るのもあほらしい。そんなことに煩わされるよりも今日の楽しみを思い切り楽しみたい。金持ち達の気持ちはそんなところではないでしょうか。

 それにしても、奴隷がたくさんいる社会自体が退廃といえるかもしれない。
金持ちはたくさん奴隷を使っていた。町に出る時は最低二人はお付きの奴隷を連れていくのが中堅市民の条件。
前70年頃のローマ市人口がだいたい50万。そのうち四分の三が奴隷もしくは解放奴隷だったというから、奴隷はほんとに多い。

大金持ちになるとわけのわからん奴隷をたくさん使っている。
主人の靴を脱がす奴隷とかね。ある金持ちは自分の靴を脱がす奴隷を二人持つ。外から帰ってくるとデンとひっくり返って奴隷に靴を脱がしてもらうんですが、同時に脱がすために右足専門靴脱がせ奴隷と左足専門靴脱がせ奴隷と二人要るんだって。
こういう奴隷はあまり能力いらなくて大した仕事も任されませんが、有能な奴隷は子供の家庭教師にしたり、家計を取り仕切らせたりもしたんです。

奴隷の悲惨な状態についてはスパルタクスのところでも話したね。(第14回)

 ところで奴隷の供給源ですが、戦争捕虜や新しい征服地の住民などが奴隷としてローマに連れてこられていたという話を前にしました。
ところが、前回も話したように五賢帝の二番目、トラヤヌス帝の時がローマ帝国の領土が最大でしたね。ということはそれ以後ローマ帝国は成長期が終わって守りの時期に入るわけ。新しい征服地がなくなる、戦争捕虜も激減するということだ。
では、それ以後は奴隷の数が激減するかというとそんなことはなさそうなんですよ。トラヤヌス帝以後の奴隷はどこからきたのか。

最近こんな説が唱えられています。奴隷=捨て子説。
ローマ人達は子供が産まれると育てるのが嫌だからどんどん捨て子にしていた、というんだ。
いわれてみればそうかもしれない。出生率が低下といいましたが、今みたいに避妊法が発達しているわけではない。男と女がいれば平民だって貴族だって妊娠するはずだ。中絶に失敗すれば出産する。捨てていたから見せかけの出生率が減少したと考えれば納得がいくね。

捨て子の名所があったらしい。「乳の出る円柱」という所。いらない赤ちゃんはみんなここに捨てる。
そして捨て子を集めてまわる業者がいた。嫌な話だけど、この業者が捨て子を奴隷として育てて売るんだ。これが奴隷の供給源として大きなものだったらしいです。
ホラティウスという詩人がこんな事を言っている。「粘土が柔らかければ、お気に入りのどんな形にでも作ることができる。」

だから理論的には、赤ん坊を捨てた貴族が、何年かして自分の実の子だと知らずに奴隷を買って働かせる、ということもあり得るわけです。何とも言えない気分です。

金持ち連中も奴隷を使うことに対して多少は良心がとがめたのかもしれなくて、自分が死ぬときに遺言で、奴隷達を解放してやることが多かったんです。
こういう人を解放奴隷というんですが、彼らは自由ではあるがローマ市民権はありません。ところが、例えば解放奴隷同士が結婚して子供が産まれたら、この子は生まれながらにしてローマ市民なんです。だから、公衆浴場も入れるしパンも配給される。
もし、商売で成功でもしたらお金を積んで騎士身分という貴族になることだってできる。
奴隷を買って働かせることだってできるんです。

身分制の社会でありながら、その身分が絶対的でないところがローマの活力の源でもあるといわれています。
それにしても、この国はやはり変だね。


2ローマ法

 一面では退廃的でやりきれないローマ文化ですが、これが何百年も繁栄し続けたのはやはり統治技術のうまさ、柔軟さが挙げられると思います。
そしてローマ人は公正を求めて常に法を尊重する文化を維持し続けた。ここはローマ人の偉大なところですね

それを象徴するのがローマ法。
ちょっとのちの皇帝ですが6世紀のユスティニアヌス帝は重要。トリボニアヌスに命じて「ローマ法大全」を編纂させた。これはローマの法と法学説を集大成したものです。試験によく出るよ。

3土木・建築

 これもローマ人の得意分野。法律とか建築とか、実用的なものでローマ人は能力を発揮する。
建築ではアーチが特徴。何気なく見ていますが考えはじめるとこれ、不思議でしょ。
なんで一番上の石は落ちてこないんですか。鉄筋が入っているわけではないからね。
これ、石の切り方に微妙に傾斜がつけてある。下に落ちようとする重力を横の石に逃がしているわけです。これで石積みの大きな建物を建設できるようになった。
単独アーチの建造物が凱旋門。
コロセウムもじっくり見てみるとアーチを集めて造られているのが分かるでしょ。

でっかいのが、水道橋。フランスにあるガール橋が有名。高さが50メートルある。
ローマ人は重要な場所にどんどん都市を建設します。そこに水がなくてもお構いなし。なければどこかの遠くの山の上から水を引いてくる。その為に造られたのが水道橋です。

その他の建築物としてはアッピア街道という軍用道路が有名。今も一部が残っています。アケメネス朝ペルシアにあった「王の道」のローマ版だ。


4学問・芸術

 ローマの学問芸術はほとんどギリシア、ヘレニズム文化の真似。独創性はないといわれています。

哲学ではストア派が流行った。
セネカが有名。この人はネロ帝の先生で、ネロ少年を補佐していた。
それからマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝。前回も話しました。著書「自省録」。

教科書では出てきませんがエピクテトス、という人も結構有名。
この人は奴隷出身。のちに解放されて有名な哲学者になるのです。
エピクテトスは足が悪く杖なしでは歩けなかった。残された絵を見ても杖を持って描かれています。はっきりとは分からないのですが、奴隷時代に主人に足を折られたらしい。
哲学者になるくらいだから彼は若い頃から高い精神的な世界を持っていたんだろう。態度や目つきが奴隷らしくなかったのかもしれない。

「奴隷なら奴隷らしく卑屈な顔をしないか。」主人はそんなエピクテトスが憎らしくて、彼の足を痛めつけたんだろう。
それに対してエピクテトスは「そんなことをしたら足が折れてしまいますよ。」と涼しく言ったらしい。
主人は更にカッとしてそのまま足を折ってしまった。
そうしたら「ほら、だから言ったじゃないですか」と、主人を諭したというんです。

エピクテトスの詩が伝わっています。

    奴隷エピクテトスとしてわれは生まれ、身は跛、
    貧しさはイロスのごとくなるも、神々の友なりき
          (イロスは「イーリアス」に登場する乞食)

実は私、このエピクテトスが好きでね、プリントにも彼の文を載せました。ちょっと見て下さい。「語録」という作品です。

 「自分のものでない長所は、何も自慢せぬがいい。もし馬が自慢して「私は美しい」といったとするならば、それは我慢できるだろう。だが、きみが自慢して「私は美しい馬を持っている」というならば、きみは馬の優良なことを自慢しているんだと知るがいい。ところで、きみのものはなになのか。心像の使い方だ。したがって、きみの心像の使い方が自然にかなっているとき、その時こそ自慢するがいい。というのは、そのときは、なにかきみの優良なものを自慢しているのだから。」

例えば、貴族がいて、高価な馬を買って自慢しているんだな。
エピクテトスはいう。お前は馬か。馬が自分を自慢するなら分かるが、なぜお前が馬を自慢するのか、と。
分かるよね。MD買ったとか、最新のPHS持っているとか、ブランドのカバン持ってる、とかいって自慢する人いませんか。
あなたの心には自慢するものがないのですか、ということを言っているのがエピクテトス。
「奴隷だったからこういう考えをしたんだ」といってしまえばそれまでですが、われわれの生活態度や精神を振り返らせる力を持った内容だと思うよ。

もう一つ。

 「記憶しておくがいい、きみを侮辱するものは、きみを罵ったり、なぐったりする者ではなく、これらの人から侮辱されていると思うその思惑なのだ。それでだれかがきみを怒らすならば、きみの考えがきみを怒らせたのだと知るがいい。だから第一に、心像に奪い去られぬようにしたまえ。なぜなら、もしきみがひとたび考える時間と猶予とを得るならば、容易にきみ自身に打ち勝つだろうから。」

これも面白い考え方です。
だれかがきみを殴った。あなたは殴った人に対して怒りや憎しみの気持ちを抱くよね。
でもそれは、間違いだと、エピクテトスは言う。
彼はあなたを殴っただけ。怒りや憎しみをあなたの心に植え付けたのは、あなた自身の心だ、怒りは彼の中にあるのではなくて、あなたの中にあるのでしょ。
あなたを怒らせているのはあなた自身の怒りの心。ほらほら、それに振り回されてはいけませんよ。自分の心です、コントロールしなさい。
エピクテトスの言いたいことはこういうことだと思います。

最終的にはこういう発想で心の平安をたもとうというんです。ストア派ですからね。
自分の足を折られても平然としていたエピクテトスらしいです。
でも、奴隷だから、と片づけてしまうと間違えると思う。

 マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝、ローマ帝国のトップのこの人が奴隷のエピクテトスと同じストア派だということをどう考えたらいいんでしょうか。
私の持っているこの本、中央公論社の「世界の名著13」なんですが、エピクテトスとマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が一緒に収められているんだよ。象徴的でしょ。
「自省録」を読むとアウレリウス帝もやはり、精神の平安を一所懸命求めているんですよ。

ローマの貴族達は贅沢三昧で吐いては食べ、産んでは捨て、と滅茶苦茶ですが、そんな生活をしながらも心の奥底ではヒュ~っとすきま風が吹いていたんではないか。贅沢で精神の平安は得られない。皇帝がストア派哲学者であるということは、まさしく彼らの心を象徴している気がしてなりません。

 奴隷も皇帝も心が求めているところは案外近いところにある。
単純に「心の平安」といっておきましょう。
ちょっと先走りしていうと、これを哲学ではなく宗教という形でローマ人に与えたのがキリスト教だったのではないか。だから、あっという間にキリスト教がローマ帝国に広まったと私は考えています。

哲学の最後にセネカについて一言だけ。
セネカは剣奴の競技に反対してました。人道的な立場ではなくて、競技を観戦することが心の平安を乱すからという理由なんですがね。
ベスビオ火山の噴火で埋まったポンペイという町があります。当時の人々の生活をまるまる残したまま発掘されて、面白い遺跡です。そのポンペイの剣奴の宿舎の壁に落書きが発見された。そこには「ルキウス・アンナエウス・セネカ」。セネカのフルネームが書かれていた。

 歴史・文学については名前と作品列挙。とにかく覚えるだけ。

あのカエサルがガリア遠征を記録した「ガリア戦記」。ラテン語の名文らしい。

ポリュビオス(前2世紀)の「歴史」。この人はギリシア人だけど人質としてローマに連れてこられてカルタゴ陥落の現場に居合わせた。政体循環論という歴史理論を唱えた。

リヴィウス(後1世紀)「ローマ建国記」。

タキトゥス(2世紀)「ゲルマニア」「年代記」。前者はローマ人から見たらまだまだ未開人だったゲルマン人の貴重な記録。ゲルマン人は今のイギリス人やドイツ人、フランス人の直接の祖先。タキトゥスは堕落したローマ人と比較して質実なゲルマン人を持ち上げています。

文学。
ヴェルギリス(前1世紀)のローマ建国叙事詩「アエネイス」。
ホラティウス、オヴィディウス、はともに前1世紀の詩人です。

その他。
ストラボン(1世紀)「地理誌」
プトレマイオス(2世紀)「天文学大全」。これは、天動説を唱えて有名。これ以来コペルニクスという天文学者が出てくるまで1300年間ヨーロッパの人は地球は動かないと信じた。


参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたいときは

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世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス) キケロ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスの3人の作品がまとめて載っている。
エピクテトスとマルクス・アウレリウスは、深く静かな湖のようだ。心がざわつく夜に、つい開いてしまう本である。彼らの思想が、わたしの心に訴える力を持つということは、古代ローマ文明が、現代日本の文明と非常に近いからではないかと思ったりもする。
ポンペイ・グラフィティ―落書きに刻むローマ人の素顔 (中公新書) 本村凌二著。火山に埋もれた古代イタリアの都市ポンペイ。発掘された街の落書きから、古代ローマ人の生活を読み解く。英雄でも何でもない庶民の暮らしが垣間見えて、興味深い。
薄闇のローマ世界―嬰児遺棄と奴隷制 本村凌二著。ローマ帝国が領土拡大をしなくなったあとも、多くの奴隷が存在した。奴隷の供給源は対外戦争の捕虜ではなかったのか?歴史学のおもしろさが満喫できる話題作です。


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