こんな話を授業でした

世界史講義録

  第17回  ローマ帝国の変質  

ディオクレティアヌス帝

  パックス=ロマーナ(ローマの平和)以降をざっと見ておきます。

235年~284年、この時代を軍人皇帝時代といいます。

軍人皇帝時代は、兵士が自分たちに都合のよい将軍を皇帝にしてしまう。そんな時代。
ローマ帝国は国境地帯に20ほどの軍団を配置しているのですが、各軍団の兵たちが自分たちの司令官を皇帝に押し立てる。都合が悪くなったら帝位から引きずり降ろす。
アウグストゥス(オクタヴィアヌス)の時代から皇帝は兵士、つまり市民の支持がなければその地位は安定しませんでした。だから、皇帝たちは常に兵士にサービスをしまくりました。
皇帝たちがご機嫌をとりすぎて、兵士が主人みたいになったのが軍人皇帝時代。
行き着くところまで行き着いた感じです。

50年間に即位した皇帝は26人だからね、平均在位年数は2年。
このうち天寿を全うしたのは二名です。他の皇帝たちは兵士に廃位されたり、対立皇帝に殺されている。

 この軍人皇帝時代を終わらせたのがディオクレティアヌス帝(位284~305)です。
軍人皇帝時代になさけなくなってしまった皇帝の権威と権力を強化しようとした。
その為にかれは、ローマ帝国の政治の仕方を大きく変えた。
かれがはじめた統治の仕方を専制君主制=ドミナートゥスという。

どんなのかというとペルシア風の皇帝をめざしたと考えればいいです。
元老院を尊重するのをやめて、共和政的な形を捨て去った。
自分のことを「主にして神」と呼ばせたり、会議の時には顧問官たちを立たせたままで座るのを許さなかった。

 「帝国四分割統治」というのもはじめます。ローマ帝国を東西に分けてそれぞれに正帝副帝を置いて、自分は東の正帝になります。広大な領土を一人で支配するには限界が来はじめていたのでしょう。
皇帝が四人いるというのもなかなかわれわれの常識ではなじめないね。どうもこの皇帝という訳語の感覚とローマ皇帝の実態とは少しズレがあるようです。

 このディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を迫害したことでも有名です。
かれは「主にして神」だからね、国民に自分に対する礼拝を強制するんだけれども、キリスト教徒はしないわけですよ、ディオクレティアヌスは彼らにとっては神ではないから。
皇帝としては、これは許されない。だから、弾圧しました。

コンスタンティヌス帝

 ディオクレティアヌス帝が死んだあと、正帝副帝複数の皇帝がいるわけでちょっと混乱があります。勝ち残ったのがコンスタンティヌス帝(位306~337)。
コンスタンティヌスで覚えておかなければならないことは3つです。

 1,都をビザンティウムに遷して、ここをコンスタンティノープルと名付けた。
ビザンティウムは今のイスタンブールです。もともとはギリシア人が造った古い町です。東西の中継貿易の重要な町でした。
なぜ、都を遷したか。ローマ市を中心とする帝国の西部よりも、ギリシア、シリアを中心とする東部の方が文化的にも経済的にも重要になってきたんでしょう。
もう、ローマ市が都ではないのにローマ帝国というのも変ですが、これ以後もローマ帝国といっています。

 2,313年に、「ミラノ勅令」を出して、キリスト教を公認した。勅令というのは皇帝の命令のこと。ミラノで出した命令なので、ミラノ勅令。
ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害命令からわずか10年しか経っていないのですが、まったく異なった命令がでたわけです。
なぜ、180度政策が変更になったか。まず、弾圧によって全然キリスト教徒は減らなかった。逆に、爆発的に信者が増えたんではないか。信者数は分かりませんけどね、そう考えた方が理解しやすい。
コンスタンティヌス帝は弾圧するよりも、公認してキリスト教徒を自分の味方に取り込んだ方が支配に有利だと考えたんでしょう。
かれはこんなことをのちに言っている。皇帝になるときにライバルと決戦があったんですが、その前夜に夢を見たという。夢の中で光り輝く十字架があらわれた。そこで、コンスタンティヌスは十字をかたどった軍旗を作り、ライバルとの決戦に勝った、というんです。
皇帝になったあとにコンスタンティヌスがした話です。もちろん作り話だろうね。しかし、こんな作り話をしてでも、キリスト教徒を自分の支持者に加えたかったんでしょう。

 3,コンスタンティヌス帝の時にコロナトゥス制が確立します。
コロナトゥス制というのは小作人を使った農場経営のことです。小作人のことをコロヌスといったので、コロナトゥス制。
3世紀以降奴隷が減少します。つまり、大土地所有者である貴族から見れば労働力不足です。労働力不足を補うには、奴隷を結婚させて子供を作らせればいいんですが、奴隷身分のままで、お前とお前、子供を作れ、といったって奴隷だって人間ですからね、家畜の種付けではない。それは無理なわけ。
奴隷にも家や財産を持つことを認めてはじめて、かれらだって自分の生活設計ができるようになり子供も作る気になります。そこで、農業経営者たちは奴隷の身分を格上げして、家庭を持たせて子供を作らせて労働力を確保しようとしました。これがコロヌスと呼ばれる小作人です。
ただ、奴隷ではないからといって勝手に別の農場に移られてしまっては労働力確保にはなりませんから、コロヌスの移動を禁止する必要があります。
で、コンスタンティヌス帝はコロヌスの移動禁止令をだし、身分を固定化した。
これを、コロナトゥス制の確立といっています。
奴隷から身分上昇しただけでなく、逆に一般農民からコロヌスに転落したものもいたようです。

テオドシウス帝

 そのあとの重要な皇帝はテオドシウス帝(位379~395)。
ここで、ローマ帝国は一応の区切りがつきます。

この皇帝は380年にキリスト教を国教化します。国教化というのは国の宗教にしたということですよ。みんなキリスト教を信じなければいけない。ミラノ勅令は公認です。公認とは信じてもよいということですから。全然、意味は違うからよく注意して下さい。
国教化したということは、キリスト教を国家支配の柱にしようということですね。

さらに、392年にはキリスト教以外の宗教の信仰を禁止します。キリスト教国教化というときに参考書では普通こちらの392年で出てきます。

ちなみに、ギリシアの古代オリンピックはこの時までおこなわれていました。でもこれ、ギリシアの神々に捧げるお祭りだからキリスト教国教化以後開かれなくなりました。

 テオドシウス帝は死ぬときに二人の息子に帝国を分割して相続させました。
兄が継いだのが東半分、これが東ローマ帝国(首都コンスタンティノープル)。
弟が継いだのが西半分、西ローマ帝国(首都ローマ)です。
地中海全体をぐるりと取り囲んだ大ローマ帝国はここまででおしまい。

あとは東西それぞれのローマ帝国の話がありますが、それはまたあとでしましょう。

第17回 ローマ帝国の変質 おわり


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