こんな話を授業でした

世界史講義録

   第19回 キリスト教の発展、分裂後の東西ローマ帝国 

1キリスト教の発展

   イエスの死後、弟子たちの活動によって徐々にキリスト教の信者はローマ帝国内に広がっていきました。はじめの頃の信者は女性と奴隷が中心だったといわれています。イエスがどんな人々に布教したかを考えれば当然かもしれない。
 奴隷は当然虐げられた人々。女性も社会的には抑圧された生活をしていたと考えられるでしょう。
 キリスト教が広まりはじめた頃は当然新興宗教です。何時の時代でも新興宗教というものは周囲から疑わしい目で見られるものだ。初期のキリスト教もローマでは胡散臭いものとして見られたようです。信者であることを知られると迫害されるので彼らはこっそり集まって信仰を確かめあいました。

  集まったのがカタコンベ。資料集に写真がありますね。このカタコンベは地下墓所と訳しています。ローマ人たちは町の郊外に墓地を作ります。地下にトンネルを掘って、トンネルの壁に棚がたくさん作ってあるでしょ。この棚に死体を置いたんだ。火葬はしません。現在はこんなふうに空っぽの棚が並んでるだけだけど、当時はここにぎっしり死体があった。当然気味が悪いところだから、誰も来ない。
 迫害を恐れて信者たちはここに集まったんです。集まる時間は夜。みんなが寝静まった頃を見計らって奴隷たちや女たちが家屋敷を抜け出してカタコンベにやってきて集会を開きました。こっそり集まってもやがて人々に知れますわな。キリスト教の信者たちは夜な夜な地下墓所に集まって何かよからぬことをやっているんじゃないか、とますます差別が激しくなった。死体を食べてるとか、乱交してるとかね。
 まあ、そんな偏見や皇帝による弾圧があったりしながらも徐々に信者は増えたようです。
復習になりますがディオクレティアヌス帝の迫害は有名でしたね。ところが313年にはコンスタンティヌス帝のキリスト教公認、392年のテオドシウス帝による国教化と4世紀にはキリスト教はローマ帝国を支える精神的な柱にまでなったわけです。


2教義をめぐる対立、教父

  信者が増えるにつれて、各地に大きな教会もできてきます。聖職者も多くなる。やがて教義をめぐる教会内の対立が起きます。どんな宗教でも開祖が死んでから何十年もたてば考え方の違いで対立したり分裂したりするものです。ただ、キリスト教はローマ帝国の公認宗教になりますから帝国政府としては教会内部が対立するのは好ましくない。そこで、ローマ政府は公認後何回か聖職者を集めて宗教会議を開いています。
 これは、教会内の対立を皇帝が調停するということと、もう一つは調停を名目として皇帝が教会内部に干渉して権力内部に取り込んでしまう、という意味もあったんです。

  この宗教会議のことを教科書では公会議と書いています。有名な公会議が3つ。覚えます。
325年、ニケーア公会議
431年、エフェソス公会議
451年、カルケドン公会議
ニケーアとかエフェソスとか会議の開かれた場所です。

 高校でこんなに詳しくキリスト教神学の勉強をする必要はないと個人的には思っているんですが教科書は詳しいね。滅茶苦茶大ざっぱに説明しておきますね。
 キリスト教会の内部で繰り返し議論の対象となった問題があります。この3つの公会議も突き詰めたら一つの問題を繰り返し議論しているのです。それは何かというとイエスの問題なんです。イエスはなんなんだ?初期の聖職者たちも疑問に思ったんだね。彼が救世主であることはいいんです。そう信じる人がキリスト教徒なんだから。問題はその先、救世主イエスは人間か、神か?そこで論争が生まれる。
 人間だったら死刑になったあと生き返るはずはない。人は死んだら普通死んだままですからね。だから、イエスを人間とすると、やがてそれは復活の否定につながります。
 じゃあ、神だったのか。それもおかしいんです。キリスト教も一神教です。神はヤハウェのみ。イエスも神としたら神が二人になってしまいます。だから彼を神とすることもできない。
 この矛盾をどう切り抜けて首尾一貫した理論を作り上げるかで初期の聖職者、神学者たちは論争したんだ。

  325年のニケーア公会議では、アリウス派という考えが異端、つまり間違った理論とされます。アリウス派はイエスを人間だといったんです。正統と認められたのはアタナシウス派という。このアタナシウス派の考えはあとでまとめます。
 431年のエフェソス公会議ではネストリウスという人が異端とされます。彼はマリアを「神の母」と呼ぶのに反対したんで異端になった。実際には政治闘争だったようですがあえていえばネストリウスもイエスの人間性を強調したということでしょう。
 451年カルケドン公会議では単性論派が異端とされます。このグループはイエスを人間ではないとする。単純にいえば神だ、というわけだ。

  つまりイエスを神とか人間とか、どちらかに言いきる主張は異端とされていったんです。これらの論争を通じて勝ち残って正統とされたのはアタナシウス派です。この派の理論は「三位一体(さんみいったい)説」という。神とイエスと聖霊の三つは「同質」である、という理論です。注意しなければいけないのは「同質」という言い方。「同じ」とは違うからね。ややこしいね。「同質」というのは「質が同じ」なので「同じ」ではない。
 もともと「生き返った人間」イエスを人間でも神でもないものに、別の言い方をすれば、人間でもあり神でもあるものにしようというんだから、分かりやすく理論を作るのは無理だね。そこをなんとかくぐり抜けて完成された理論が「同質」の「三位一体説」です。だから私実はよく分かっていません。このいきなり登場した「聖霊」はいったいなんだろうね。辞典を読んでも分かりません。知っている人はこっそり教えてください。
 現在キリスト教は世界中に広がっていますがカトリックもプロテスタントも伝統的な教会は三位一体説にたっています。みんなそうだから現在ではあらためてアタナシウス派なんて言わないくらいに一般的です。教会の説教で「父と子と聖霊の御名において~~」というのを聞いたことありませんか。あれが三位一体ですね。アメリカ合衆国生まれの新しい宗派では三位一体説にたっていないものがあるかも知れませんがね。

  異端とされた宗派のその後ですが、ローマ帝国内では布教ができません。アリウス派は北方のゲルマン人に布教活動をします。ネストリウス派はイランから中央アジアにかけて広がっていきました。単性論派はエジプトやエチオピアに残ります。

  初期教会の指導者で教義を整備した人たちのことを教父といいます。二人覚えて下さい。エウセビオス(260~339)は「教会史」を著して有名。アウグスティヌス(354~430)は「告白」「神の国」の著者。アウグスティヌスはもとマニ教というのを信じているんですがキリスト教に改宗する。そんな半生を書いたのが「告白」です。この人は今でもキリスト教徒の人たちにはファンが多いみたいです。

3西ローマ帝国の滅亡

  さて、ここでパパッと西ローマ帝国を滅ぼしましょ。
 フン族という遊牧民族がありました。これが東方から黒海北岸あたりに移動してきました。4世紀中頃のことです。
 時代はさかのぼりますが前2世紀中頃、ローマでグラックス兄弟が改革を試みていた頃ユーラシア大陸の東端、中国では漢帝国が栄えていました。武帝という皇帝の時代です。この以前から中国北方の草原地帯では匈奴という遊牧国家があって中国を圧迫していたんですが、武帝の時代になってはじめて北方遠征で匈奴に勝ちます。
 負けた匈奴は漢に追われる形で西に移動を開始しました。400年かけてゆっくりゆっくり移動した。途中に出会った他の遊牧グループと合体したり吸収したりしながら移動したんだと思います。これがフンという名でローマの歴史に登場するのです。匈奴は「きょうど」と読んでいますが「フンヌ」とも読めるんですね。匈奴とフン族は同じモノだろうといわれています。

  ローマ帝国の北方から黒海北岸にはゲルマン人が住んでいました。彼らは部族単位で農耕牧畜なんかをして生活していたんですが、そこに東方からフン族が移動してきた。玉突き状態になって、ゲルマン人は部族単位で次々に西へ移動を開始しました。これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」です。
 フン族に追われて移動するゲルマン人は現代風に言ったら難民ですね。これが安住の地を求めてローマ帝国内に入ってこようとしました。
 以前からゲルマン人のなかにはローマ帝国内に移住して生活するグループや、ローマ軍の傭兵となるものなども結構いました。強引にローマ帝国内に集団移住しようとするグループもあってローマ皇帝はしょっちゅう辺境で戦っています。しかし、今度は規模が違う。大量のゲルマン難民がどっと流れ込んできたら、ローマ社会は大混乱になることは目に見えています。東ローマ帝国はなんとか国境防衛に成功しゲルマン人が侵入するのをくい止めることができましたが、西ローマはこれに失敗した。
 次々になだれ込んでくるゲルマン人で西ローマ帝国は大混乱。最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケルに廃位されて滅亡しました(476年)。オドアケルはゲルマン人出身の男です。
 ゲルマン人は部族単位で西ローマ帝国のあちこちに勝手に建国し、さらにお互いに戦いあいます。たとえばガリア地方北部に侵入したフランク族はフランク王国を作る。これが現在のフランスのもとです。ローマ人たちはこの新しい野蛮な支配者となんとか折り合いをつけて生活するしかなかったんでしょうね。長引く混乱のなかでローマ時代の高い文明は崩壊し経済も停滞し、やがてローマ人はゲルマン人と混血していきます。これが現在のイタリア、フランス、スペインあたりの状態でした。

  生き延びた東ローマはユスティニアヌス帝(位527~565)の時代に一時期勢力を盛り返します。ユスティニアヌスはイタリア半島やアフリカ北岸に建国したゲルマン人国家から領土を奪い返しています。東西分裂以前に近い領土を支配しました。
 それからユスティニアヌスはローマ法大全を編纂させていることでも有名でしたね。彼の時代は古きローマ帝国の最後の輝きといえるでしょう。
 これ以後東ローマ帝国の領土はどんどん縮小していきます。呼びかたも首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムからとったビザンツ帝国と言うのが一般的。この後もローマ帝国の理念はビザンツ帝国で生き続けますが、実質的な中身は違うものに変化していると考えた方がいいです。平安時代と鎌倉時代では同じ日本でも政治の仕組みがまるで違うようにね。

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第19回 キリスト教の発展、分裂後の東西ローマ帝国 おわり

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