こんな話を授業でした

   第24回  周 

1周

   殷を滅ぼした王朝が周です。周は現在の西安あたりにあった邑です。もともとは殷に服属していたのでしょう。これがだんだん力をつけてきて周辺の邑を支配下におくようになって殷の統率から離れる。最後は殷を中心にする邑連合と、周を中心とする連合が決戦をして周が勝利した。これが前1027年のことです。この時の周の王様が武王という。殷の王様が酒池肉林の紂王でした。
 周のあった場所は当時の中国文明の辺境です。周を建てた部族は西方の異民族系統だった可能性が強い。そもそも漢民族と呼ばれるようになる中国文明を作った民族というのは、こんなふうにどんどん周辺の民族が中国文明化して形作られた。周をつくった人々は辺境の蛮族に近いから戦争も強かったんでしょう。
 
   周が都をおいたのが鎬京(こうけい)。今の西安あたり。
 周の支配制度が「封建制」です。周王は、有力氏族の首長に邑を与える。まだまだ未開の土地はたくさんありますから新たな邑を建設させてそこの統治をまかせる。こういう新しい邑が周の支配下の土地にたくさん建設されるわけです。従来の邑の中には殷と近い関係にあったものもたくさんあるでしょうから、こんなふうに周王は配下の邑をつくることで全土ににらみを利かすことができたのです。周王から邑の支配をまかされた者を諸侯といいます。諸侯は周王に対しては軍役と貢納の義務を負いますが、それ以外は自分の領地をどう支配してもかまいません。諸侯は自分の邑の周辺に配下の有力者を配置します。かれらも小さな邑を支配する。かれらのことを卿・大夫・士(けい・たいふ・し)という。
 要するにピラミッド型に上から、周王、諸侯、卿・大夫・士とあってみんなそれぞれのランクに合わせて邑を支配している。これが周の封建制です。士以上が貴族身分、支配者階級と考えたらよい。

   この周の封建制は日本や西欧の封建制とは違う、と教科書には書いてあるね。何が違うか、まだ西欧の封建制を勉強していないから教科書の書き方は非常に不親切だけど、簡単にいうとこういうこと。日本の中世でも同じですが、領主は領土を与えてくれた君主に恩義を感じて忠誠を誓う、というのが封建制。
 領地を与えるから私はおまえの主人、逆らったらいかんよ、という契約関係です。領地と忠誠を交換しているわけです。
 周の封建制を支えているのはそういう契約関係ではない。何かというと、血縁関係です。これを宗族という。共通の祖先から枝わかれしたと信じている集団です。同じ宗族なんだから協力しなくてはいけないというルールを作ってそれによってピラミッドの統制を保ちます。

 宗族の規範のことを宗法といいます。
 宗法では、周の王様は御本家なの。諸侯は分家。卿・大夫・士はさらに分家。分家は本家に逆らっていけない。なぜかというと本家だけが、祖先の霊を祭ることができるからです。分家の者が祖先神を祭っても良いけど、本家がお祭りすることで御先祖様は一番喜ぶわけですよ。
 だから、その御本家の周の王様に逆らうわけにはいかないのです。これが宗法。この秩序で周王は諸侯を統率した。だから、まだまだ宗教的ですね。祖先神のたたりは恐ろしいからね。
 周は殷を滅ぼしたときにその王家の者を殺さないんですよ。なぜかというと、殺してしまうと、殷王家の祖先神を祭る者がいなくなるでしょ。そうしたら殷の祖先神が災いをなすかもしれない。それは恐ろしいので王家の者は生かしておく。そういう時代です。

2周の東遷

   周の時代は大きく二つに分かれる。前半を西周(前1027~前771)、後半が東周(前770~前256)です。

 前半の都が鎬京でした。後半の都を洛邑(らくゆう)という。都が東に移ったので東周というわけです。

 都が移ったのに関して面白いエピソードがあるので紹介しておきましょう。幽王と褒ジ(ほうじ)の物語です。
 都が移ったときの王が幽王です。褒ジはその妃なんですが、絶世の美人。幽王はぞっこんなんですが、褒ジ妃には一つだけ変わったところがあったんです。なにかというと、彼女は生まれてから一度も笑ったことがない。いつもすましている。これだけの美人なんだから笑顔はどれだけ素晴らしいだろうと幽王は思った。そこで、道化師をよんだりいろいろなことをするんですが、何をしても褒ジは笑わない。
 こうなってくると、幽王はなにが何でも笑顔が見たい。願望がどんどん煮詰まってくるわけだ。

 そんなある時、西方から異民族が鎬京を襲撃に来ました。こういう時は鎬京からのろしをあげて東方の諸邑の諸侯に救援を求めることになっている。幽王はのろしをあげた。それを見た諸侯たちは、一大事と手勢を率いて全土から鎬京の町目指して駆けつけてきます。
 ところが鎬京の城外に集結してみると、異民族の襲撃は誤報だったことが分かる。息せき切って駆けつけてきた諸侯の軍隊は、拍子抜けしてガックリするんです。
 それを城壁の上から褒ジは見ていた。大の男たちがガックリする様子が面白かったんでしょう。ニッと笑ったんだ。それを幽王は横から見た。その笑い顔をみて、ゾクゾクッと興奮してしまった。やっぱり素晴らしく美しかったんですね。もう一度見たい、と幽王は思った。どうすれば彼女が笑うかも分かった。

 非常事態にしかあげるべきでない救援要請ののろしを幽王はあげてしまうんだね。幽王のろしあげる、諸侯駆けつける、敵いない、ガックリ、褒ジ・ニッ、幽王ゾクゾクッ、またのろしあげる、諸侯駆けつける、敵いない、ガックリ、褒ジ・ニッ、幽王ゾクゾクッ。このパターンが何回も続くうちに諸侯も分かってくる。王は妃の笑いを見たいためにわれわれをだしに使っている。もうのろしがあがっても行かないぞ、となる。狼少年の話と同じだ。
 やがて、本当に異民族が鎬京に攻め込んできます。幽王は必死にのろしをあげるけれど諸侯は誰一人として救援に来なかった。そのまま、鎬京は陥落して周は都を東の洛邑に移した、というわけです。

 この話は物語ですが幾分かの真実も含まれているんでしょう。ひとつは、周が西方辺境の異民族統治に失敗して混乱の中で都を放棄せざるを得なかったこと。もうひとつは、宗族として本家である周王を盛りたて助けなければならない諸侯が、それを行わないようになっていた。宗族、宗法の絆がゆるみ始めていること。

 都が移って以後は、東周の王は名目だけの存在となります。諸侯を統制するだけの力も権威も無くなってしまった。諸侯の自立化が始まるのです。

   この東周の時代がさらに前後半に分けられます。前半を春秋時代(前770~前403)、後半を戦国時代(前403~前221)という。
 春秋時代は周王の力が衰えたけれども、諸侯たちの意識として王様を盛りたてなければいけないという意識がまだそれなりにあった時代。宗法が人々の意識をそれなりにしばっていた時代です。
 そういう古い意識をかなぐり捨てたのが戦国時代です。

3春秋時代

   春秋時代のキーワードが「尊王攘夷(そんのうじょうい)」です。尊王は王様を尊ぼうということですね。攘夷の攘は「うちはらう・おいはらう」という意味。夷は異民族のことで、尊王攘夷というのは、「頼りない王様だけど、王なんだから尊重しましょう、王様に力がないから王の代わりにわれわれ諸侯が異民族を打ち破って中華文明を守りましょ。」ということです。この言葉は幕末の日本でも使われるから知っていますね。もとはこの春秋時代の言葉です。

 王に代わって天下に号令をするような有力な諸侯が春秋時代を通じて何人か現れるんですが、そういう有力諸侯を「覇者(はしゃ)」という。「春秋の五覇」というのがあって特に有名な覇者五人をこう呼ぶ。どの諸侯を五覇に挙げるかは人によって違いがあります。資料集にあるのは「斉の桓公、晋の文公、越の句践(こうせん)、呉の夫差(ふさ)、楚の荘王」ですね。斉とか晋とかいうのは諸侯の国の名前です。もともとは大きな邑ですがこの時代にはもう国といった規模になっているわけ。桓公とかは諸侯の名前です。

 覇者というのはどういう言葉かというと、王者よりワンランク下の称号です。この時代の諸侯は、いくら周王より力があっても周王に遠慮して王者とはいわない。だからワンランク下の覇者といいます。まだ、宗法がそれなりに生きている。だから桓公とか文公とか覇者の呼び方は「公」。桓王、文王とは言わないのです。楚の荘王だけが王といっているでしょ。これは楚は南方の国で中国の文明地帯から見れば彼らはまだまだ野蛮人です。この国の人々はまだあまり中国文明化していない。だから、宗法とか周王を尊ぶとか、そういう文化があまり理解できていない、というか影響されない。だから、文明国なら遠慮して王とは言わないのに、全然遠慮しないで王と名乗っているのです。やがて、先進地域の国々でも、これに影響されて王と称するようになってきますが。

 春秋時代は諸侯同士で戦争もたくさんあります。はじめの頃は戦争で敵国を破っても相手の国を滅ぼすことはあまりなかった。これは、滅ぼしてしまってその国の祖先神を祭る者がいなくなることを恐れたためです。この理屈はさっき話したね。
 ところが春秋時代もすすんでくるとたたりを恐れる意識も薄れてくるんでしょう。小さな国は滅ぼされるようになってきます。春秋時代のはじめには200ほどあった国が終わり頃には20ほどに減ったようです。

4戦国時代

   これが戦国時代になってくると、宗法の統制は完全に有名無実になる。人々は合理的な発想をするようになるんだ。「祖先神?、関係あるかい!」ということです。
 孔子という思想家がいます。中国史上最大の思想家、春秋時代の人ですが、この人は「怪力乱心を語らず」。怪奇現象や神秘的なことは口にしなかったというわけ。こういう風潮が広まってくるんですね。

 家臣が主君を倒す、分家が本家を乗っ取る、こういうことが頻繁に起きてくる。いわゆる「下剋上」の時代です。この下剋上という言葉も日本の戦国時代で使われるけれど元祖は中国の戦国時代の言葉です。
 春秋時代の大国晋が分家に乗っ取られて三分裂した以後を戦国時代といいます。

   戦国時代に強国が七つに絞られてきます。これを「戦国の七雄」と呼ぶ。燕、斉、韓、魏、趙、秦、楚、の七国です。


 戦争の主力も歩兵中心になってきます。それまでは戦車に乗った貴族が軍の中心だったのですが、勝つためには兵力が多い方がいいでしょ、農民を歩兵として動員して戦争が大規模になる。やがて、この中の秦が中国を統一することになります。

   春秋・戦国時代に中国社会は政治的に大きく変化していくのですが、社会の仕組み全体が大きく変動していった時代でもあります。まずは鉄製農具の登場と、牛耕の普及がある。
 大地を耕すスキ・クワはそれまで木製だった。これが鉄製に変わるということがどれだけすごいか想像つきますか。サクサクいくだろうね。おまけに牛の鼻にワッカを通して紐をつけて引き回す事ができるようになります。この牛にくびきをつけて鉄製のスキを牽かせるわけだ。飛躍的に耕地が増えるのですよ。

 それまではそれほど多くの土地を耕せませんでした。邑があるでしょ。農民もみんな邑に住んでいるの。朝になれば農具を持って邑から畑に行って、夕方には邑に帰ってくる。ところが鉄製農具と牛耕で、それまで耕せなかった遠くの土地を開拓できるようになる。遠くに農地ができると一日のうちに邑から出て帰ってこられなくなります。そこで新しい邑を建設してそこに農民は移住していきます。こんなふうにしてどんどん新たな邑が作られ耕地が増え人口も増えていく。領土内の邑を点として支配するそれまでの国家の在り方を「邑制国家」といいましたが、これが面として領土を支配する「領域国家」に変化してくるのです。

 この結果どうなるか。それまでいろいろな国があってもその国境線は問題になりませんでした。開発できない荒野が邑と邑、国と国の間に広がっていたんですから。ところが未開地の開拓がすすんで領域国家となると国境線が問題になってくる。未開の土地をどの国が支配下に置くのか。農地が広がればそれだけ国力も充実するわけですから、どの国も必死になります。これが戦国時代になる大きな背景です。

   農業の発展にともなって商工業も発展した。強国の都には人口数十万規模の大都市も出現する。ということは人間も移動するようになるんです。生まれた邑の中で一生過ごすんではなくて諸国を遍歴して商売したり、仕事を探して大都市に出てくる、そういう人間も多く現れてきました。春秋時代の末期から戦国時代は中国史上まれにみる躍動的な時代になりました。

 商業の発展に関して、青銅鋳貨が各国で発行されています。北方の斉、燕では刀銭(とうせん)、中央部の韓、魏、趙では布銭(ふせん)、西の秦では環銭(かんせん)、南の楚では蟻鼻銭(ぎびせん)というものが作られた。形がユニークですね。教科書の写真で確認してください。刀銭は刀の形、布銭は農具の形です。スキ・クワの先っぽの部分です。蟻鼻銭は子安貝という貝殻の形をモデルにしている。ニューギニアの高地人など太平洋の島々では子安貝をお金として使う例がたくさんあるんです。だから、楚の国が南方系の文化を受け継いでいることがわかるね。

 こういう特殊な形をした貨幣がなぜ作られたのか。単に物を売ったり買ったりするためだったら、刀銭や布銭なんて不便な形でしょ。お金に商取引のためだけでなく呪術的、お守りのような役割があったんでしょうね。

 秦の環銭はおなじみの形です。円くて穴があいている。やがて秦が戦国時代を終わらせて中国統一をします。で、この形のお金が中国のスタンダードになる。これが日本列島にも入ってきて銅銭には穴をあけるようになる。日本史に出てくる和同開珎や、この前発見された富本銭もそうでしょ。これは、今の五円、五十円にまで受け継がれる伝統だ。なぜ、五円玉に穴があいているのか、さかのぼれば秦の環銭にまで行き着くというわけです。私が小さかった頃に、穴のあいていない五円玉や五十円玉がありましたよ。でも、いつの間にか消えてまた穴あきに戻ったね。穴がないとなんか寂しいんですね、大蔵省も。じゃあ、なぜ十円や百円には穴がないのか。これは私の想像ですけれど、明治維新で西欧化を目指すでしょ。十円、百円の系列のお金は多分ヨーロッパのコインをモデルにしたモダンな形、一方、五円、五十円の系列は伝統にのっとったのではないかな。あくまで想像ですけど。

   ところで、刀や農具など大事な物がお守り的な役目を持つのはわかりやすいんですが、秦の環銭にはどんな意味があるのか。やはり、穴に意味があるのではないかと思う。この穴に何か神様が宿るんじゃないか。コックリさん、知ってるでしょ。小学校時代に流行した。すぐ禁止されてしまったけれどね。あれをするときに使うのが必ず五円玉でした。十円ではだめなの。コックリさんがやって来て穴の中に入るんだとわれわれは信じていましたけど、違います?
 それから、新年早々のスーパーで買い物をすると、お年玉といってポチ袋に入った五円玉をもらった経験はありませんか。五円玉の穴に紅白の紐が通してあって、これを財布に入れておくとお金が貯まるというやつ。あれも、十円や百円では雰囲気でないのね。
 現代に生きているわれわれの中にも、お金の穴に関してぼんやりだけど特別な力の存在、呪術的な何かを感じる感性が受け継がれています。戦国時代にはもっと強い神秘的な力を人々は感じていたんだと思う。お金は単に流通・交換のための道具ではなかったということです。

 話がだいぶそれてしまいました。

   商業の発展に関して、もう一つ「矛盾」の話をしておきましょう。
 矛盾という言葉は知っているよね。この言葉のルーツがこの時代です。ある都市の市場、盛り場で口上を唱えながら武器を売っていた商人がいた。矛(ほこ)を売るときはどんな盾でも貫くと言い、盾を売るときにはどんな矛でもはねかえす、と言いながら売っている。それをみていた冷やかしの男が「おまえの矛でその盾を突いたらどうなるんじゃ!」と突っ込みを入れたんですな。これが矛盾という言葉のもとです。

 この話をよく考えてみると、みごとに戦国時代の状況が浮かび上がってくる。商人が売っていた「どんな盾でも貫く矛」はいったい何でできていたのか。鉄製としか考えられない。盾も鉄張りだったんでしょう。ようやく鉄製の武器が出回り始めている状況、そのなかで商人は「最新式の武器だ!」と言って売っているわけです。

 さらに、市場で売っているという事も重要ですね。市場で売られているということは、注文を受けてから鍛冶屋さんが作るんではなくて、流通を前提にして大量生産されているということですよ。源平合戦の頃の平氏や源氏の侍たちが京都や鎌倉の市場で武具を買っていたのかどうかを考えてみれば、当時の中国の社会がどれだけ商工業が発展しているのか実感できるでしょ。
 そして、当然のことではありますが売られているのが武器だということ、戦争が日常的におこなわれ、武器を手に入れて一旗揚げようかという浪人がゴロゴロいた。古くからの農業共同体を出て諸国を遍歴している人々がたくさんいたことを思わせますね。
 社会全体が大きな変動期をむかえていたこという事が「矛盾」から分かるのです。

 農業、商業、流通の発展と社会の活性化、流動化の中で戦国の諸国は生き残りを賭けて、富国強兵策をおこないました。それは、また次回。

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宮崎市定著。私の中国史観に大影響を与えた人です。中国古代の邑を都市国家と見なすことができるか論じた論考や、史記についての論考など、短い論文をまとめたものです。 どの論文も、学術論文ですが、中国史専門でなくても充分理解できると思います。というか、エンターテイメントの域まで突き抜けています。特に、「身振りと文学」は圧巻。没後、宮崎氏の著作が多く文庫化されていますが、すぐに品切れ、絶版になりそうなので、手に入れるなら今のうち。
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