こんな話を授業でした

   第25回  富国強兵  

1諸国の富国強兵

  春秋時代の末期から戦国時代になると、各国間の戦いも日常的になってきますから、うかうかしていると他国に併合され国が滅びます。そこで、懸命に富国強兵策をおこなう。

  どの国も富国強兵で必死。いろいろな話が伝えられています。たとえば、趙の武霊王。この人は軍隊を強くするために騎馬遊牧民族の戦法を導入したんです(前309)。
 それが、なんだ!なんて思わないでね。これは大変なことだったんですよ。
 基本的に中国の戦法は歩兵か戦車を使う。馬にまたがることは無い。そもそも、中国人の服はゆったりしている。袖は袂が広くて、裾は足を大きく広げることができません。乗馬に適していないのです。
 だけれども、遊牧民の騎馬戦術は、機動力があって強いから武霊王はこれを導入しようとした。そのためには、まず、服装の改革をしなければならなかった。貴族たちに遊牧民の服装をさせようとしたわけだ。
 ところが、これが貴族たちの猛反対にあった。理由はというと、遊牧民のような野蛮人の服は着たくないということです。文明人は誇り高いからね。

 遊牧民はどんな服を着ているかというと、基本的に今の君たちの服と同じです。馬にまたがるように足をガバッと広げられるズボン。弓を引きやすいように袖も真っ直ぐな筒袖。われわれが今着ている服はヨーロッパから来たのですが遊牧文化起源のものです。で、これは野蛮人の服なのです。当時の中国人にとってはね。

 結局、武霊王は貴族たちの反対を押し切って改革をしました。騎射胡服の採用といいます。誇り高い中国文明の人が遊牧民のまねをするというのはすごいことなんですよ。それだけは理解しておいてください。戦国の厳しさが反映していると思います。

  国を強くするためには武霊王のように改革をどんどんおこなわなければならないね。しかし、従来の支配者階級、卿・大夫・士などの貴族たちは何もしなくても名門ですから積極的に改革に取り組もうとしないし、取り組むだけの才覚のある人材も少ない。庶民出身でも優秀な人材はいるわけで、こういう者たちを使わない手はない。出身・身分にとらわれない能力主義の人材登用がおこなわれるようになります。

 当時の諸国の諸侯たちが人材登用に熱心だったことを表す話はたくさんあります。
 有名なのが「まず隗(かい)より始めよ」。私の高校時代にこの話、漢文の教科書に載っていましたね。燕の昭王(前3世紀初)の時です。昭王は何とか優秀な人材を集めて国を発展させたいと思った。ところが燕の国は現在の北京のあたりにあるのですが、当時は北の辺境、田舎の国です。こんな辺境の寒い国にどうやったら有能な人材が来てくれるだろうかと悩んだ。そこで、大臣の郭隗というものに相談するんです。すると郭隗が言ったセリフが「まず隗より始めよ」。何を言っているかというと、私にたくさんの褒美を与えなさい、ということです。私のために宮殿を造ってくれ、それからいっぱい褒美として財宝をくれ、そして、私を先生として敬いなさいという。昭王がそれはどういうことか聞くと、郭隗はこういう。私は大した人物ではないし、才能もあまりない。しかし、この凡人の郭隗にすら昭王が莫大な褒美を与えて、先生として敬っているという噂はすぐに全土に広まるでしょう。そうすれば、私よりも才能のある人々がもっと良い待遇を与えられるに違いないとたくさん燕の国に訪れるに違いない、とね。
 昭王はなるほど、と思う。郭隗のいうとおりにしてみたら、中国全土から優秀な人材がたくさん集まってきたそうです。
 こんな具合に諸侯たちは人材獲得に情熱を注いだわけだ。

  斉の宣王(前4世紀末)はやはり人材を集めまくります。学者であればどんどん召し抱えて都・臨シ(リンシ)には学者街ができた。臨シには稷門(しょくもん)という城門があってその近くに学者たちが集まって住んだので「稷下の学」と呼ばれた。学者たちは特に仕事があるわけではなくて、一日中ワイワイガヤガヤとフリーディスカッションをするんです。その中から良いアイデアがあれば斉の国政に反映されるということだったらしい。

 こういう状況は庶民の側からすると才能さえあれば自分を売り込むチャンスですね。生まれは関係ない、身分も関係ない、有能な人材だと認められればどこかの国で高い地位について財産を蓄えることもできるわけです。だからいろんな学問を身につけ、特技を持ち、諸国を遍歴して就職活動する政治家志望の連中がたくさん現れる。


2商鞅の変法

  能力主義的な人材登用で大成功したのが秦です。秦の孝公(前361~前338)の時に「商鞅の変法」がおこなわれました。
 商鞅(しょうおう)というのは人名です。衛の国の出身です。政治家志望なんですがなかなか自分の才能を認めてもらえない。ある時秦の国で人材を求めていると聞き出かけていきます。ふらっと出かけていっても外国出身なので秦の有力者に簡単に会えるわけではないと思います。商鞅はいろいろなつてを頼って孝公に面会することができました。孝公は商鞅を非常に気に入った。今でいえば総理大臣にいきなり抜擢して政治を全面的に任せることにしたんです。
 これには秦の貴族たちは驚いた。よそ者がいきなり王の信頼を得て国政を任されるわけだから、代々秦に仕えてきた貴族たちは面白くないわな。自分たちが無能と思われているのと同じだからね。しかし、王様に逆らうわけにもいかないのでひとまずは商鞅のお手並み拝見、です。
 自分の周りが好意的ではないことは商鞅も充分わかっている。貴族たちは反感を持っているし、そうではない一般民衆にしても商鞅なんていう男を知らないわけで、商鞅がいろいろな改革をおこなおうとしても素直に命令に従うかどうか分かったものではない。
 だから商鞅はまず自分を売り込みます。

  秦の都には市場がある。当時市場は塀で囲われていて門がいくつかついているんです。市場は民衆が集まるところだから政府の命令など国民への「お触れ」はこの市場の門の前に掲げられたらしい。
 商鞅はこの市場の南門に材木を一本立てた。そして「この材木を市場の北門に移した者に金十斤与える。大臣商鞅」と触書を出した。みんなこの御触書を読んでワイワイ噂をするんですが、なんだか怪しい触書でしょ、商鞅という男もどんな大臣だかわからない。へたなことをして罰せられてはかなわないので誰も材木を移しません。何日か経っても誰も動かさないので、商鞅は賞金を5倍の五十斤にしました。金17キロくらい。
 そうしたら、ようやく一人の男が材木を北門に移したんだ。勇気があるのか軽率なのか、みんな注目している中でやったんでしょう。早速彼は商鞅に呼ばれて、約束どおり金五十斤を賞金としてもらったんだね。あっという間に商鞅の評判は広まった。新しく来た大臣の商鞅は言ったことはやるぜ、という感じでしょう。
 貴族たちもひとまずは彼にやらせるしかないと思ったろうね。

  商鞅の政治改革は「変法」と呼ばれます。どんな改革をやったか。
 まず「什伍(じゅうご)の制」。国民を五軒、十軒毎に隣組を作らせる。隣組というのは解るかな。納税や防犯の連帯責任をとらせるために組を作らせるんです。例えばその中のどこかの家が犯罪者をかくまったりしたら隣組全体が罰せられる。税金を納めたり、兵士や人夫を出したり、とにかく政府との関係で連帯責任を持たされる。

 さらに農家の分家を強制的にやらせます。当時秦の国では大家族制度だった。一つの家の中に結婚して子供もいる兄弟たちが同居しているのです。これでは生産力の無駄なので、次男坊以下は強制的に分家させて未開の土地に入植させた。これによって耕地が拡大して、戸数も増えるし、国家収入も増えた。

  商鞅の変法は伝統的な農民の生き方を無理矢理変えるものだから、ずいぶん抵抗もあったようです。ある時田舎の長老たちが商鞅のところに面会に来た。商鞅に対して、政治が厳しすぎる、もっと優しくしてくれ、と訴えたんです。商鞅はどうしたかというと、一般民衆の分際で支配者に文句を言うとはけしからん、と言ってみんな処刑してしまった。
 かれのやり方は厳しいのです。
 ところが商鞅の政治が軌道に乗ってくると治安も安定して、盗賊はいなくなる、道に財布が落ちていても恐れて誰も拾わないくらいになる。そうしたら、別の田舎の長老たちが商鞅に面会に来た。今度はなにかというと、「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになった、有り難や。」と商鞅を誉め称えに来たんです。そうしたら、商鞅、どうしたと思いますか。今度も処刑してしまったの。庶民の分際で、御政道を誉めるとは身の程を知らぬ、畏れ多いおこないだ、というのが理由です。要するに商鞅は国民が政府を批評すること自体を許さなかったんです。黙って支配されておるべし、というわけだ。厳しいでしょ。

  軍功による爵位制というのもやります。戦争の時に活躍した分だけ身分を上げる。爵位をくれてやる。活躍というのは敵の首をいくつ取ってきたかということです。たくさん殺したら身分があがる。逆に先祖代々の貴族でも敵の首を取ってこなければ爵位は与えられない。貴族には評判悪いですが。

 これらの改革によって西方辺境の三流国だった秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長することができたんですね。

  ところで、この商鞅ですが、ますます孝公に信頼されてる。位は最高、15の邑を授かり、財産は王と並ぶほど、という絶好調が続くんです。やがて、頼りにしていた孝公が死にます。所詮商鞅はよそ者で孝公の絶大な信頼があったから権力を握っていられたんですが、貴族たちに敵は多い。孝公が死ぬと、恨みを持つ貴族たちが商鞅にでっちあげの謀反の罪を着せた。新しい秦王はそれを信じるんです。
 こうなるとさしもの商鞅もどうしようもない。追っ手から逃れて国外逃亡をはかります。国境近くまで逃げると夜になった。近くの町の旅籠に泊まろうとした。ドンドン、と旅籠の扉をたたくと、爺さんが出てきた。
「おい、止めてくれ。」と商鞅が言うと、爺さん「通行手形を持っておいでか?」ときく。商鞅は追ってから逃れてきているんで通行手形なんか持っているわけありませんからね。「持ってない。」そしたら爺さんこう言った。
「商鞅様の命令で通行手形を持っていない方はお泊めできません。」
「おやじ、そこをなんとか、頼む。」と言うんですが、
「商鞅様の法は厳しいですから、泊めた私が後で首をはねられますんで、、、。」というわけで結局商鞅は宿屋に泊めてもらえなかった。自分の法律が行き届いているのは嬉しいけれど、それで自分が困るとはね。喜んでいいやら、悲しんでいいやら。

 商鞅の外国逃亡は失敗して、最終的には反対派の貴族たちに捕らえられて車裂(くるまざき)の刑で殺された。両手両足を別々の馬車に結わえられて身体が引きちぎられる残酷な処刑です。

  戦国時代の能力主義的な人材登用がなければ商鞅は決して活躍の場を与えられることはなかったでしょう。そういう意味で、いかにも時代の人です。

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墨攻 (新潮文庫) 酒見賢一著。これは、小説ですが漫画で読んだ人も多いかもしれない。墨家の活躍や戦国時代のイメージが小説家の筆によって生き生きと描き出されます。小説から歴史に近づくというのも、魅力的なアプローチ。春秋戦国時代を舞台に宮城谷昌光氏も、たくさんの小説を書いていますが、現在私の一のおすすめは、酒見氏の「墨攻」で決まり!
酒見賢一には「 ピュタゴラスの旅 (集英社文庫) 」 という本もあって、これは、古代ギリシアの哲学者達を主人公にしている。これは、泣ける。私の大好きなエピクテトスの話もあるのだ。

第25回 商鞅の変法 おわり

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