こんな話を授業でした

 第28回  楚漢の興亡   

1陳勝・呉広の乱

   秦が滅亡するきっかけとなった反乱が陳勝・呉公の乱です。

 陳勝は楚の地方の農民だった。農民といっても雇農。自分の土地を持たずにその日その日の雇われ仕事でなんとか生活していた農民です。その陳勝の住んでいる里に秦の政府から徴発が来た。始皇帝の死んだ翌年前209年のことです。
 万里の長城に近い漁陽という北のまちに警備の兵士として駆り出されたのです。900人の農民たちが秦の役人に引率されて旅にでた。陳勝たちのまちから漁陽まではざっと1000キロはある。

 ところが途中で大雨が降って川が氾濫して先に進めなくなった。秦の命令は期限が切ってあって決められた日までに漁陽のまちにつかなければ処刑されることになっている。だから、いそいで現地までいかなくてはならない。

 ところが何日待っても水は引かない。待っているうちに日数は経って漁陽にいく期限が近づいてくるわけです。洪水が引いて出発してもとうてい期限に間に合わなくなる。かといって故郷に帰っても秦の役人にとがめられて処刑される。逃亡しても、のたれ死にするのがおちです。
 だから、徴発された農民たちはただただ、洪水の引くのを待っているしかないわけだ。

   陳勝はどうせ期限に遅れて処刑されるくらいなら、いっそ秦の政府に反乱してやろうと考えたんだね。同じく徴発されてきていた呉広も陳勝に賛成した。
 しかし、ほかの農民たちは秦にたてつくなんていうことは思いもよらない。始皇帝は死んだとはいえ、秦は恐ろしいのです。

 そこで、呉広はいろいろ細工をして農民の気分を反乱にもっていくんです。大きな魚をつかまえて、その腹の中に布きれを突っ込んでおく。布には「陳勝が王になる」と書いておくのです。そして、炊事当番のものにその魚を渡す。炊事当番が魚をさばけば「陳勝が王になる」という布がでてくる仕掛け。
 それから呉広は毎晩キャンプ地の裏山に登る。山には狐か何かを祀るほこらがあった。そのほこらの裏から狐の声を真似て「大楚興、陳勝王」と叫ぶんです。「秦に滅ぼされた楚が復興し、陳勝が王になる」という意味です。
 夜な夜な変な鳴き声がするなと、農民たちが耳を澄まして聞いていると、狐の声が神のお告げに聞こえてくるという寸法です。

 子供だましみたいなものですが、純朴な農民たちには効果があった。こんなことがつづいて陳勝に対してみんなが不思議な気持ちをいだきはじめたところで、かれは農民たちに対して反乱を呼びかけるんです。
 洪水が引いてこのまま進んでも死、帰っても死。どうせ死ぬなら一旗揚げてやろう!臆病な農民たちを立ち上がらせるために、自分たちを引率している秦の役人を殺して、さらにいった言葉が有名。

 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」

 「王、貴族、将軍、大臣であろうとわれわれ農民とどこに違いがあるっていうんだ。」という意味です。強烈な平等感というか、反骨精神ですね。こんな言葉が2000年以上前にいわれている。中国というのはすごいところだと思いますよ。身分も何もない貧しい農民が歴史の舞台に躍り出てくる。日本なら、豊臣秀吉くらいのものかな。陳勝の1700年もあとの話だ。

   陳勝・呉広は、各地に檄文を飛ばす。旧六国の有力者に反乱を呼びかける文書を送ったんです。これに応えて各地でさまざまなグループが反乱に立ち上がりました。秦を恐れてそれまでは誰も反乱をしなかったけれど、誰かがはじめてしまえばもう怖くないからね。そういう意味では最初に反乱を起こした陳勝たちは勇気があったと思う。

 陳勝・呉広の反乱軍は秦の地方駐屯軍を打ち破って、瞬く間に数万の軍勢にふくれあがります。しかし、しょせんは農民中心の烏合の衆です。戦争のプロではない。やがて、咸陽から秦の精鋭部隊がやってくると簡単に鎮圧されてしまった。陳勝も呉広も死んでしまいました。かれらが反乱軍を率いて頑張ったのは半年間だけでした。
 しかし、かれらは中国最初の農民反乱の指導者として歴史に名前を刻みました。

 そして、陳勝・呉広の反乱は鎮圧されましたが、かれらの呼びかけに応えた反乱軍が全国に広がっていたんです。

2楚漢の興亡

   全国に広がった反乱軍のリーダーになったのが項羽(前232~202)です。

 項羽は戦国楚国の名門将軍家の出身です。血筋がいいの。幼いときに父親が死んでおじさんに育てられるのですが、このおじさんも相当の軍略家です。幼い項羽に英才教育をする。はじめは項羽に剣術を教えるのですが、項羽はすぐに飽きてしまって熱心に剣を習おうとしない。おじさんがとがめると、項羽は「剣の練習をしても、倒せる相手はしょせんひとりだけだ。そんなつまらないものやる気がしない。」といった。そこで、おじさん今度は兵法を習わせたんですが、今度は面白がって熱心に学んだという。
 要するに戦争エリートだ。この辺が陳勝とは違うところです。

 そして項羽は大男だった。身長は2メートル近くあった。これは、武人としては最高ですね。当時の戦争がどんなものだったか想像してみてください。今のように、鉄砲や大砲やミサイルやそんなものはない。刀を持った生身の肉体がぶつかり合うんです。でかい奴は絶対強い。私とプロレスラーが喧嘩するようなものです。
 前田日明(知ってる?)みたいな大男が1メートルもあるような剣をブーンと振り回して襲ってきたら逃げるしかないね。項羽が馬にまたがって敵にむかっていったら、それだけで敵兵は腰が引けるでしょう。そういう強い大将のあとにくっついていけば、まず負けることはないわけで、こういう大将としての条件をすべてかね備えている項羽が反乱軍のリーダーになっていったのも納得できるわけです。

   反乱集団のリーダーとしてもうひとり有名なのが劉邦(?~前195)です。この人も楚の地方の出身。農家に生まれるんですが、まじめに働くことができない人だったんだ。面倒見はいいから元気のいい若い衆には人気はあるけれど、怒らせたらちょっと怖い村の顔役みたいな感じかな。悪くいえばチンピラ、ゴロツキです。
 当時は、劉邦みたいに共同体の秩序からはみだしてエネルギーを持て余していた人のことを「侠(きょう)」といった。始皇帝を暗殺しようとした荊軻も「侠」です。陳勝も「侠」といえるかも知れない。
 戦国時代は終わって、まだ10年そこそこでしょ。「侠」の感覚を持った連中は国中にいた。家柄とか血筋ではなく自分の能力、才覚で一旗揚げてやろうという人々です。戦国時代の遺風といってもいいかも知れない。劉邦はそういう人々を自分の周りに集めてやがて大きな勢力をつくっていきます。エリートの項羽とはこのあたりが違うところです。

 劉邦は中年になって地元で秦の下っ端役人の仕事に就いた。亭長といって交番の駐在さんのようなものだったらしいんですが、一応秦の役人ですから、その劉邦のところに政府から命令が来たんだ。これが、里の若者を阿房宮の工事のために都まで引率してこい、というものだった。
 というわけで、劉邦は若者たち何百人かを徴発して都にむかって旅にでる。ところが、宮殿の工事といっても大変厳しい作業だということはみんな知っているわけ。奴隷のようにこき使われて、ばたばた倒れて死ぬものも多い。だから、旅の途中で若者たちはどんどん脱走してしまう。夜が明けるたびに人が減るわけだ。とうとう都につかないうちに半分になってしまった。
 半分しか人夫を連れていけなければ引率者である劉邦の責任になるわけですね。若者たちは宮殿工事で死ぬかも知れないし、自分も脱走の責任を問われて処刑されるかも知れない。せっぱつまった劉邦は開き直った。ここまでついてきた者たちに逃げろという。もうやめじゃ!俺は秦の役人をここで辞める!俺も逃げるからおまえらもみんなどこかへ逃げろ!
 みんなを逃がして、劉邦も逃亡しました。もとの里に帰ったら、秦の役人に捕まるので、里のそばの沼沢地帯で逃亡生活をつづけていたんです。

 陳勝・呉広の乱が秦政府の無理な徴発が原因で起きたでしょ。劉邦も同じような経験をしているんですね。ここから考えると、秦の過酷な使役に耐えかねて逃亡生活を送ったり爆発寸前まで追いつめられていた民衆がたくさんいたに違いありません。
 陳勝・呉広が火をつけたらアッという間に燃え広がったわけです。

 さて、劉邦が逃亡生活をしているうちにやがて陳勝・呉広の反乱が起こった。全国が騒然としてくる。そこで、劉邦も自分の里に帰って「侠」の連中を集めて一旗揚げました。地方役人も大混乱の中で自分たちを守るために劉邦をバックアップしました。
 劉邦の反乱グループは、陳勝・呉広の無きあと各地の反乱集団を束ねはじめた項羽の傘下にはいることにしました。こんなふうに項羽集団は各地の反乱集団が結集してどんどん大きくなっていったんです。

   このあと項羽と劉邦はライバルとなって秦滅亡後の指導権を争うんですが、このふたりは実に対称的。
 項羽は名門貴族のエリート武人。劉邦は田舎の農民出身。
 項羽は二十歳そこそこ。劉邦は40くらいです。当時の感覚では相当の年齢といっていい。
 項羽は自分の才能に自信がありすぎて他人を軽んじるところがありますが、劉邦は自分の配下のものには面倒見がいい。「侠」の感覚でしょうか。親分的なんですね。
 始皇帝が全国を巡幸したときに、項羽も劉邦もその行列と始皇帝を見た。その時の項羽のセリフ。「いつか取って代わってやる。」取って代わるという表現は項羽がはじめて使ったんですよ。
 劉邦のセリフ。「男と生まれたからには、あんなふうになってみたいもんだぁ。」

   さて、反乱軍は秦の都、咸陽にむかうことになった。主力軍は項羽が率いてまっすぐ西にむかった。別働隊を劉邦が率いてこれは南回りで咸陽に進撃します。先に咸陽を占領したものがその地域の王になるという約束があったので、競争ですね。
 軍隊としては項羽軍が強いのですが、秦の精鋭部隊がぶつかってくるので前進に手間取ってしまった。その間に劉邦軍はたいした抵抗もうけずに咸陽の都に突入し占領に成功してしまった。

 秦では二世皇帝が趙高に殺され、その趙高もまた殺されて、三世皇帝が即位して一月ばかり経ったところです。秦の政府は混乱していてもうどうしようもない。三世皇帝は自分の首に縄を掛けて劉邦のもとに出向いてきました。これは、全面降伏の意味です。こうして、秦は滅亡しました。

 劉邦は占領した咸陽で何をしたか。
 劉邦は咸陽で秦の宮殿に封印して宝物を略奪させなかった。
 三世皇帝など秦の皇帝一族を殺さずに保護した。
 「法三章」を発布した。殺すな、傷つけるな、盗むな、という非常に単純な法律です。劉邦は秦のややこしい法律を全部なくしてこの三条だけにしたのです。法家思想による厳しい支配で苦しんでいた人々は大喜びです。

 こういうことを立て続けにやった劉邦の人気はぐんぐん鰻登り。
 やがて、遅れて項羽の本隊が咸陽にやってきました。総大将項羽は咸陽に入ると三世皇帝など秦の皇族を殺して、阿房宮を略奪したあと火を放った。劉邦の処置をひっくり返したといっていい。劉邦の評判がよかっただけに項羽は人気がなくなっていきます。

   秦滅亡後の国家構想です。項羽には咸陽で皇帝に即位して秦のあとを継ぐように進言した者がいました。しかし、項羽はこれを断る。「故郷に錦を飾りたい」というんだ。これだけの財宝を手に入れた、田舎に帰って地元のみんなに自慢したい、ということです。
 項羽は楚の国に帰って西楚の覇王と称しました。さらに秦を倒すのに功績のあった反乱集団のリーダーたちを王として各地に封じたんです。ようするに、項羽は戦国時代のような体制への復帰を目指したといえるでしょう。始皇帝が作り上げた中央集権的なあり方と春秋戦国的な分権的なあり方があって、項羽は後者を代表していた。保守的です。

 劉邦ですが項羽によって王にされました。漢王といいます。咸陽の土地ではなく四川省の山奥に引っ込んだ場所の王とされた。項羽に警戒されたからですが、劉邦は不満でしょうがない。やがて、項羽の決めた国割りを無視して実力で領土拡大をはじめます。全国制覇を目指すわけ。だから、劉邦が始皇帝の構想を受け継ぐものだったといえる。

 このあと5年間にわたって項羽と劉邦の戦いが起こります。楚漢の興亡と呼ぶ。項羽の国が楚、劉邦の国が漢だからね。

 どちらの軍勢が強いかというと、圧倒的に項羽が強い。劉邦軍は負けてばかりです。ただ面白いことに負ければ負けるほど劉邦の勢力は強大になり、勝てば勝つほど項羽軍は弱体化していくのです。

 項羽という人は自分の功績を誇りすぎ。部下の将軍たちにとっては仕えにくいところがあった。たとえば項羽は合戦に勝利しても自分が強いからと、考えるから、部下への恩賞が少ない。
 そこへいくと劉邦は部下を大事にするという評判があるんだね。劉邦という人は何ができるという人ではない。特技はないし、歳もとっているし、戦争もからきし弱い。ただ、人を使うのがうまかった。それぞれに活躍の場を与えてやり恩賞もはずむ。咸陽を占領したときの態度でその寛容さは証明済みでしょ。
 だからやがて項羽の武将たちがどんどん手勢を率いて劉邦軍に寝返っていくんです。

   劉邦と項羽の最後の決戦が垓下(がいか)の戦い(前202)です。
 垓下の城に追いつめられた項羽の軍勢は10万。取り囲む劉邦の軍隊は30万。夜になると包囲軍の兵士がうたう歌が項羽の陣地に聞こえてきた。これが楚の歌なのです。楚は項羽の出身地でしょ。楚の歌をうたうのは楚の兵士なんですよ。つまり項羽の兵士たちが今はみんな劉邦軍にいってしまったということだ。「四面楚歌」ですね。
 項羽はついに観念した。もう勝利の見込みはない。最後まで付き従っていた武将たちと別れの宴をひらく。その時に項羽がうたった詩が伝えられています。これだ。

 「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、
  時に利あらず、騅(すい)逝(ゆ)かず、
  騅の逝かざるは、奈何(いかん)かすべき、
  虞や、虞や、なんじを奈何せん。」

自分の力は山を大地から引き抜き、気概は世を覆うほどなのに
時が味方をしてくれず、もはや愛馬の騅も走ろうとしない
騅が走ってくれないのは、どうすればよいのか
虞や、虞や、おまえをどうしてくれよう

 みんな死を覚悟して涙、涙の宴会になってしまった。虞というのは項羽の愛人、虞美人のことです。ずっと項羽に付き従ってきたのですが、かれの歌を聞いて自分が足手まといであるとしって、自ら命を絶ったという。彼女の血を吸った地面からはえた花が虞美人草だということです。

 このあと項羽たちは劉邦軍の囲みを破って、南方、楚の国に向けて脱出します。なんとか劉邦軍の追撃を振り切って烏江(うこう)というところまで逃げます。この時はわずか数騎に減っています。長江を渡らなければいけないので船頭を捜した。そうしたら、見つけてきた船頭さんが項羽を見ていうんだ。
「大王よ、楚の国は広いし人口も多い。今は負けてもまた再び王となってください。」
落ち目の自分に優しい言葉をかけられてはじめて項羽は自分のやってきたことを反省する。何千人という楚の若者を兵士として引きつれて戦ってきたけれど、みんな死んでしまった。なぜ自分だけおめおめと帰ってかれらの父兄に会えるだろうか、とね。

 項羽は死に場所を求めて引き返した。追ってきた劉邦軍と最後の戦いです。乱戦の中で項羽は敵兵にかつての自分の部下を見つけるんだ。
 「おまえは、昔なじみじゃないか。俺の首をやろう。大名くらいにはなれるだろう。」そういって、自分で首をはねたそうです。

 こうして、一代の英雄項羽は死にました。ライバルを倒して劉邦が天下を統一します。これが漢帝国。劉邦はのちに漢の高祖と呼ばれることになります。


3秦の滅亡理由

   最後に秦が短期間で滅亡した理由を整理しておきましょう。

 1,大規模な外征や土木工事。これが民衆に対する過度の負担をあたえた。陳勝や劉邦も労役への徴発が反乱の原因になっていましたね。

 2,急激な中央集権化。とくに郡県制。各地の伝統や実状を無視した画一的な支配に対する旧六国支配者層の反発は強かった。項羽はこれだね。項羽とともに反乱に加わった人々には旧六国の支配者層は多かったんです。

 3,厳しい法律、刑罰に対する民衆の反感、恐怖。始皇帝が死んで押さえられていた不満が一気に爆発した。法家思想の効果と限界とでもいうところでしょうか。

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第28回 楚漢の興亡 おわり

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