こんな話を授業でした

世界史講義録

   第29回  前漢 

1漢初の政治

   秦にかわって劉邦が建てた王朝が漢です。都は長安。漢は前後半に分かれるので普通は前漢(前202~後8)と呼びます。

   漢初の政治方針について。

 1,まず、秦の過酷な支配をゆるめる。

 2,次に統治形態として郡県制をやめました。かわりに採用したのが郡国制です。これは郡県制と封建制を併用した形です。
 劉邦はたくさんの人材を得て統一ができたわけだけれど、単純に劉邦が「いい人」だったから多くの武将が集まったわけではない。この大将ならたっぷり恩賞をはずんでくれると思っているから協力したわけです。突き詰めれば、みんな王様になりたいわけ。劉邦はそういう連中を満足させてやらなければならなかった。また、秦は郡県制による急激な中央集権化で反発を招いた、ということもある。
 そこで、建国の功臣たちや一族のものを諸侯として地方に封じました。漢帝国のなかにたくさんの王国ができるわけです。王になった者たちは自分の王国内で大臣を任命したりして好きに支配していいんですよ。
 そして、王国がつくられなかった地域には郡県制をしいて皇帝の直轄地とした。皇帝直轄地はどれくらいかというと全国の三分の一だった。

 皇帝である劉邦としてはこうするより仕方なかったことなんですが、各地の王が反乱したら漢帝国は危ないですね。郡国制は中央集権化に逆行しています。だから、劉邦はのちにいろいろな理由をつけて有力な国を取りつぶして直轄地に編入しています。

 3,対外政策です。はじめ劉邦は北の脅威、匈奴に対して遠征をしました。しかし、逆に包囲されて命からがら逃げ帰ったことがあった。それからは対匈奴和親策をとります。一族の娘を匈奴の王に送ったりして平和をたもとうとしました。

 4,当初の漢の宮廷では道家が流行します。儒家は礼儀作法にうるさくて堅苦しいですから劉邦たちにはあまり人気がなかった。
 劉邦は、もともと田舎のまちの親分ですから教養なんてまるでない。本当の庶民なのです。
 たとえば、かれの両親の名前。母親は劉媼(りゅうおう)と記録されている。「媼」というのは、おばあさんという意味なんです。だから劉媼とは「劉の婆さん」と里のみんなから呼ばれていた、そのままの呼び名で記録されているということです。親父さんも劉太公と書いてあって、これも「劉じいさん」という意味です。これはどういうことかというと、ハッキリいって、名前がないんだね。まあ、当時の社会では珍しいことではないかもしれないが、劉邦の生育環境を考えると面白いです。
 劉邦自身も「邦」というのは、当時は「兄貴」「にいちゃん」という意味だったという説もあって、「劉のあんちゃん」と呼ばれていたのがそのまま名前になったのかも知れない。

 劉邦が旗揚げしたときからつきしたがっていた部下たちにしても、犬の屠殺人や葬式のラッパふきなど当時の社会で低い地位の人たちが多い。よくて地方役所の書記官レベルです。
 こういう教養、学問に欠ける人たちが一躍大帝国の皇帝や重臣になってしまった。だから宮廷といっても、われわれが想像するようなきらびやかで立派なものではなくて、礼儀も何もない滅茶苦茶状態だった。かれらは宮廷で酒を飲んでは乱暴狼藉、暴言、喧嘩ばかりしていたようです。
 「無為自然」の道家はそんな人たちにもウケがよかったんだね。

 ただ、国家を運営していくにはそれなりの秩序を維持していかなければならないので徐々に儒家の説く礼を儀式に取り入れたりしていきます。しかし、儒学が漢政府に本格的に取り入れられていくのはまだあとのことです。

   劉邦の奥さんもすさまじい。有名な話があるので紹介しておきましょう。劉邦が若い頃、田舎でぶらぶらしているときに、妻にした女性がそのまま皇后になりました。呂后(りょごう)といいます。糟糠の妻、というやつだね。
 皇帝なった劉邦、若い女をどんどん後宮に入れる。呂后は悔しいけれど、一夫多妻が常識だから我慢してます。晩年の劉邦が特に可愛がったのが戚夫人。
 やがて、劉邦は死んで、呂后の生んだ恵帝が二代目の皇帝になりました。呂后はそれまで押さえ込んでいた恨みをここで爆発させるの。戚夫人を連れてきて彼女に復讐する。ちょっと気持ち悪いかも知れないから、覚悟してね。
 まず、戚夫人の両手足を切断する。それから、舌を抜いてしゃべれなくして、目玉も二つともえぐり出します。耳には溶かした銅を流し込んでしまう。
 次にその戚夫人を豚小屋に放り込んだ。

 豚小屋というのは何か。当時中国のトイレは二階建てになっていました。用を足すときには上にのぼってする。放出したものは一階に落ちる仕組みになっていて、そこでは豚を飼っていました。要するに豚の餌が人間の糞尿なのです。
 豚小屋に放り込むということは、そういうことです。

 呂后、それでもまだ気持ちがおさまらない。即位したての息子恵帝に「あなたにお見せしたいものがあります。」といって、手を引いて豚小屋の前まで連れてくる。「ほら、ご覧なさい。」
 恵帝、なんだろうと、暗闇でゴソゴソうごめく暗い影を目を凝らしてみていると、あの美しかった戚夫人が変わり果てた姿でころがっている。
 「ギャッ!」恵帝は気の優しい貴公子だから、ものすごいショックを受ける。呂后は平然として「これが、ヒトブタです。」と解説したらしい。

 「母上、ひどい!」といったかどうかは知らないけれど、恵帝はそれ以後自分の部屋に閉じこもって酒浸りになり死んでしまった。

 呂后は相当な性格ですが、こういう女性を妻にしている劉邦、かれも現実に身近にいたら関わりたくないような恐ろしい奴だったような気がします。本に出てくると、さらっと読んでしまうけれど、命を懸けて天下をとろうなんて考えること自体、常人を超えているよね。

 劉邦の死後は、呂后が政府の実権を握る時期があるんですが、彼女の死後はまた、劉邦の子孫たちが皇帝として政権を担当していきました。

   六代目景帝のときに呉楚七国の乱(前141)がおきます。
 漢政府の中央集権化政策に国を没収されるんではないかとおそれた呉、楚などの七つの国がおこした反乱です。数ヶ月でこの反乱は鎮圧されて、この結果、大きな国はなくなって漢は実質上、郡県制になりました。

2武帝の時代

   第七代目が武帝(前141~前87)です。16歳で即位して50年以上在位しました。中国史上の名君のひとりです。

 建国後約60年、大きな戦争もなく国庫は豊かになっているし、中央集権化も完成している。かれの時代が前漢の最盛期になりました。

   漢は劉邦以来、匈奴に対して和親策をとっているのですが、匈奴はしばしば長城を越えて中国内地に侵入して、略奪を働いている。そこで、武帝は対匈奴戦争を積極的におこないました。ところが、匈奴は遊牧民族ですから、漢の軍隊がかれらの勢力範囲に出撃してもなかなか捕まらない。また、決定的な打撃を与えることができないのです。漢軍は基本的に歩兵ですからね、機動力ではかなわない。

 何かいい手はないかと思案していると匈奴の捕虜から大月氏の情報がはいった。
 中国の王朝の領域よりも西の地方を漠然と「西域」というんですが、そこに月氏という国があった。ところがこの国が匈奴に攻撃されてさらに西の方面に移動したという。移動後を大月氏国というんですが、この国は匈奴に対して恨みをもっているという。

 そこで、武帝は大月氏国と同盟を結んで東西から匈奴を挟み撃ちで攻めようと考えた。スケールの大きな作戦ですね。ただ、同盟を結ぶためには使者を派遣しなければならない。
 ところが、宮廷の誰も使者になりたがらないんです。『西遊記』知ってるでしょ。孫悟空が活躍して妖怪をやっつける話。妖怪たちが三蔵法師を食べようと次々におそってくる。唐の時代の玄奘というお坊さんのインド旅行をもとにした話ですが、妖怪たちが登場する舞台が西域です。中国人にとっては西域はそういう魑魅魍魎の跋扈する恐ろしい世界だったんです。そんなところへいって生きて帰れるとは誰も思っていない。

 その、誰もいきたがらない西域への旅に志願した男がいた。それが張騫(ちょうけん)です。武帝、張騫がなかなかの人物と見込んでかれに百人以上の部下をつけて送り出しました。これが前139年のことです。

   張騫は漢の領土から西域地方に踏み込んだとたんに匈奴のパトロール隊に見つかってしまった。殺されることはなかったんですが、そのまま捕虜になって匈奴人とともに生活することになった。匈奴人の奥さんまでもらって子供もできた。匈奴からしたら漢の情報源として貴重だったのかもしれません。脱走しないように監視もきびしかったらしい。10年間匈奴で暮らしたんだからすっかり匈奴人だね。そのまま10年あまり経ったとき、隙を見て妻子と従者を連れて脱走した。すごいのが漢に帰らないで大月氏国へいったところで、あくまでも武帝の使命を果たそうとしたのです。

 大月氏へ到達した張騫は漢との同盟を申し入れますが、大月氏の王様からすれば、張騫の申し出は危険だね。なにしろ、張騫が漢の武帝から送り出されてから10年以上経っている。武帝という皇帝が現時点で生きているかどうかもわからない、生きていても今も匈奴討伐を考えているかどうか、なんの確証もないわけでしょ。使者ひとりが漢から大月氏に来るまでに10年かかっているわけで、常識的に考えて同盟を結んでも共同作戦がくめるはずがない。
 そして、なによりもこの時の大月氏国は豊かな土地に住みついていて、今さら匈奴に復讐してもとの領土を取り戻す気持ちなんて、さらさらありませんでした。

 張騫は大月氏国に一年ほど留まるのですが、結局同盟はあきらめて帰国の旅に出ます。この帰り道でまた、匈奴の部隊に捕まって捕虜になってしまうんです。そして、この時は匈奴内部の混乱があって、その隙をついてまた脱走します。

   前126年、出発から13年後、張騫はようやく長安に帰り着いた。百人以上いた従者は一人になっていました。それと匈奴人の妻子を連れていた。
 とっくに死んだと思っていた張騫が帰ってきたのですから、武帝は大喜びだ。張騫はすっかり英雄扱いです。大月氏との同盟はできませんでしたが、張騫は10年以上も西域生活をしているでしょ。匈奴や西域諸国の情報通なわけ。武帝はその情報をもとに匈奴に対して攻撃をかけました。

   対匈奴作戦で大活躍した将軍が二名。衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)です。叔父さんと甥の関係です。衛青は姉さんが武帝に愛されてその関連で出世のきっかけをつかんだんですが、将軍としての才能があったんだね。若いときから大活躍してどんどん出世していった。

 かれらの活躍で匈奴は勢力が衰えていきました。地図を見ると匈奴は非常に広い地域を勢力下においていますが、その支配下にはいろいろな遊牧部族やオアシスの都市国家がはいっています。領土に住んでいるのがすべて匈奴人というわけではない。地図は匈奴の勢力範囲を描いてあるだけです。
 だから、漢の積極的な軍事行動で、匈奴から漢にのりかえる部族や都市もだんだん増えてきたし、やがては匈奴の内部でも内輪もめがおきて、漢に服属するグループも生まれてきました。
 張騫も再び西域にいって、東西交易路上のオアシス諸都市を漢の支配下に置いた。だから武帝の時代に漢の領域は西にぐっと張り出すようになっているね。西域方面に敦煌(とんこう)郡など四郡を新たにおいています。

   武帝の軍事行動でもうひとつ有名なのが汗血馬です。張騫の情報に中央アジアの大宛(だいえん)という国の話があって、この国は汗血馬という名馬の産地だというんだ。遊牧民の匈奴と戦うにしてもぜひ名馬は欲しい。外交交渉で汗血馬を手に入れようとしたんですが、大宛に断られてしまったので力ずくで奪いにかかった。
 李広利という将軍が大宛遠征に派遣されました。6万の軍を率いて出陣するんですが苦戦して数年かかって帰ってきた。兵士はわずか1万に減っていたというから、どれだけきびしい戦いだったか想像できるね。ただ、かれらは3000頭の汗血馬を連れてきたんだ。
 これを増やして匈奴との戦争に利用したんでしょう。

 汗血馬というのはどんな馬だったのか。資料集には写真があるね。彫刻だけど。足としっぽを振り上げていかにも速そう。この汗血馬がのちに西アジアに伝わってアラブ馬になった。さらにこのアラブ馬が、ヨーロッパに運ばれてイギリスで在来種とかけあわされてサラブレッドが誕生した。というわけで、やっぱり速かったわけだ。

   東方にも進出している。朝鮮半島方面には衛氏朝鮮という国があった。これは、漢民族が建てた国だったようですが、これを滅ぼして、楽浪郡など四郡をおきます。

 南方でも南海郡など九郡を設置しました。

   武帝はこのように東西南北で軍事行動を積極的におこなって領土を拡大した。なによりも劉邦以来の発展によって蓄えられた国庫がかれの政策を支えた。しかし、あまりにも積極的に戦争をしたので、財政難になってしまった。
 そこで、内政面でいろいろな財政政策をおこないました。これは受験的には重要。

   均輸法、平準法。物価調整をかねた政府の増収策と説明されます。
 中国は広いのでA地方では豊作で穀物価格が安い、B地方は凶作で穀物価格が高騰している、ということがある。こういうときに政府がA地方で安く穀物を買い付けて、B地方で時価よりは安い価格で販売する。これが均輸法の理屈です。
 平準法は同じことを時間軸でおこなう。穀物の安いときに政府が買い付けておいて、高いときに販売する、というわけです。
 理屈は簡単だけれど、実施するのは簡単ではない。情報収集とか、穀物の管理輸送とか中央集権的に官僚制度がゆきとどいていないとできるものではない。
 武帝の時代は庶民出身のものでも大臣にのぼりつめたりしています。武帝の政策と無関係ではないと思う。能力を重視したんだろうね。

 塩、鉄、酒の専売制。
 専売制というのは政府が製造、販売を独占して、民間業者に販売させないことです。塩は必需品ですから、政府から買うしかない。政府もうかる、という理屈。
これらの政策は、前漢以後も多くの王朝によって試みられる財政政策のさきがけとなった。そういう意味でも武帝の時代は重要です。
 その他、増税や、貨幣改鋳もおこないました。

   内政としては、これ以外に儒学の官学化が重要。董仲舒(とうちゅうじょ)という学者の献策をうけて、太学という官立学校をつくり五経博士という先生に儒学を教えさせた。優秀な学生を官僚としました。
 武帝の時代になると、宮廷には儒家に対するアレルギーはないからね。武帝は幼いときから儒家が好きです。

 官吏登用制度としては郷挙里選という制度もおこなわれました。郷挙里選という言葉は「郷里」と「挙選」という言葉を組み合わせたもの。「挙選」は「選挙」と同じです。地方の役人が地元の有力者の推薦をうけて儒学の素養があり地元の評判のいい者を中央に推薦する。中央政府はその者を官僚に採用する。そういう制度です。地方の「郷里」で「選」んで中央に「挙(あ)」げる。だから、郷挙里選という。
 この制度で中央に推薦される者は、結果として地方の有力者、豪族の師弟であることが多かった。この点は覚えておいてください。

   きらびやかな武帝の時代でしたが、その晩年は後継者で悩んだ。後継者争いで皇太子が無実の罪で殺されたりする。死刑にしたのは武帝なんですが、あとで無実を知るんだね。
 最後は失意の中で武帝は死んだかもしれない。武帝の死とともに前漢の最盛期は終わります。

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漢帝国と辺境社会―長城の風景中公新書 (1473)
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籾山 明著。漢の西方辺境での防衛体制が、 具体的に紹介されています。匈奴対策で漢が費やした努力と人民の労力がしみ じみわかります。

第29回 前漢 おわり

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