こんな話を授業でした

世界史講義録

  第30回 新から後漢 

1新

   武帝の死後、地方での豪族の成長がめだってきます。奴隷や小作農をたくさん使って大農場経営をおこなった。教科書、資料集をみると豪族の館の写真が出ているね。これは、豪族の墓から出土する画像セン(つちへんに専)と呼ばれる瓦の絵です。当時の生活などが描いてある。館の周りは塀をめぐらせてあって、物見やぐらもある。鎌倉時代の武士の館に感じが似ている。実態も案外それに近いんではないかな。
 ただし、漢では郷挙里選という官吏登用制度がおこなわれていましたね。豪族の子弟は、この制度によって官僚として中央政界に進出した。ここが鎌倉武士と違うところ。

 さて、武帝死後の漢の宮廷では権力闘争がさかんにおこる。権力闘争の主役は宦官と外戚です。

  宦官については以前も出てきましたね。男性の性器を切り取られた身分の低い者たちです。奴隷に近い身分なんですが、彼らは皇帝の身近に仕えて身のまわりの世話とかをするので、自然に政治的な機密に触れるようになる。皇帝の立場から考えてみると、彼らは皇帝が幼いときから一緒に遊んでくれたりした近しい存在でしょ。武帝のようなしっかりした皇帝でないと、ついつい彼らに政治的な細々としたことをまかせたりする。宦官は本来政治に関わるべきではないから官僚からすれば腹立たしいですが、皇帝の信頼を得ている宦官に逆らえない、こんな雰囲気になるとまともな政治はおこなわれにくくなります。

 外戚というのは皇帝の母方の親戚のことです。年少の皇帝が即位すると政治的なことは母親やお祖母さんがするんですが、そうなるとその親族が高い位を独占していくのは当然の成り行きですね。この外戚も皇帝の親族という特権をふりかざして政治にかかわってきます。

 別々の背景から権力をもつ宦官と外戚は当然仲が悪い。宮廷で両勢力の権力闘争を繰り返しているあいだに地方では豪族勢力が着々と勢力を蓄えていく。これが前漢後半からの中国史の大きな流れです。

  王莽(おうもう)という人物がいました。この人は前漢第十代皇帝元帝の皇后の甥にあたる。ややこしいね。ようするに外戚です。コネを利用して高い地位に就くわけですが、この人は儒学の学者としておこないが立派だったので評判がよかったのです。そこで王莽はついに自ら帝位についてしまいました。この時王莽は前漢最後の皇帝から位を譲ってもらう形を取ります。この形式を禅譲(ぜんじょう)という。平和的に帝位が移動したわけです。前漢の皇帝家は劉家です。王莽はその親戚だけれど王家出身です。皇帝の家がかわるので国号も変えた。王莽の王朝を新(しん)(8~23)という。

 王莽は学者としては評判がよかったが、皇帝になると政治は一気に混乱しました。王莽は儒学の権化(ごんげ)のような男で儒学の理想を強引に現実社会にあてはめようとしたからです。理念を押しつけるだけの政治で世の中が動くわけがない。
 地方で豪族や農民の反乱がおこります。豪族反乱が緑林の乱、農民反乱は赤眉の乱という。これは反乱農民たちが自分たちの目印として眉毛を赤く染めていたからつけられた名前です。こういう反乱の中で王莽の政府は崩壊しました。

2後漢

  新滅亡後の混乱を収拾して新しい王朝を建てたのが劉秀。皇帝としてのおくりなは光武帝。国号は漢。都は洛陽。一般には後漢という。劉秀は前漢皇帝家である劉氏の血筋を引いているから、漢を復興したということになるわけです。かれ自身当時は地方の豪族で、豪族反乱軍のリーダーから皇帝にまでのぼりつめた。豪族勢力の協力や支持がなければ後漢は生まれなかった。だから、後漢の政府は豪族の連合政権といってもいい。

  後漢の政治は前漢と同じで特にいうべきことはない。ただ、対外政策、西域経営に関しては有名です。
 後漢の初期には班超という人がシルクロード沿いのオアシス諸都市国家を後漢に服属させて西域都護として大活躍しました。

  この班超の部下に甘英(かんえい)という人がいる。甘英は班超の命令で、西の方向に使者として派遣された。行けるところまで行ってこい、というのが班超の命令。で、甘英はどんどん西に向かって旅をつづけ、最後に海につきあたった。これ以上西に進めない、というので引き返してきたんです。
 甘英がどこまで旅をしたのかというのが、興味深いところで、甘英によると海があった国は大秦国(だいしんこく)。これはどの国を指すのか。

 甘英がたどりついた海は何かということが焦点になる。これには二説あって、一つはカスピ海という説。湖だけれど知らないものがみれば海と思うでしょ。もう一つが地中海という説。シリアの海岸までたどりついて引き返したというわけだ。で、どちらかというと、地中海説が有力のようです。
 だとしたら大秦国というのは何かというと、ローマ帝国ということになる。後漢の軍人がローマ帝国まで旅行したとすれば、スケールの大きな話ではないですか。

  これを補強する記録があって、班超、甘英の時代から少しあとの166年、中国南部の日南郡というところに一隻の船が着いた。この船の乗員は大秦国王安敦(あんとん)の使者と名のっているのです。
 大秦国がローマ帝国とすれば安敦とは誰か。当時のローマ皇帝をさがすとぴったりの人物がいましたね。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝です。五賢帝の最期ね。アントニヌスを音写して安敦にほぼ間違いないでしょう。
 ただ、ローマ側の記録にはマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が中国方面に使者を派遣したという記録はないので、中国にやってきた者たちがいったい何ものだったのか、ローマ皇帝の名をかたった西方の商人ではないかとかいわれていますが、とにかく、この時期に東西の二大帝国がちょっとではありますが接触していたことにはかわりはない。世界史っぽくなってきたですね。

3漢代の文化

  前漢、後漢ひっくるめて文化について触れておきます。

  前漢では司馬遷(しばせん)(前145?~前86?)。必ず覚えなければならない。歴史家です。かれの書いた名著が「史記」です。神話、伝説の時代からかれが生きていた前漢武帝の時代までの歴史が書かれている。この歴史書の書き方も重要。紀伝体(きでんたい)という形式で書いています。というより、司馬遷が紀伝体という書き方を開発して、これが中国では歴史書の書き方の模範になります。大きく分けて本紀(ほんぎ)と列伝(れつでん)という二つの部分からできているので紀伝体という。
 本紀は年表です。何年何月にこんな出来事があった、と宮廷を中心に出来事が羅列してある。極端にいえばみなさんの世界史の教科書みたいなもんです。読んでもあまりおもしろくない。
 列伝はそれぞれの時代に生きた個性的な人物の伝記を集めたものです。歴史の中で翻弄される人間たちの運命を物語的に書いてある。この列伝がおもしろいんです。授業で話したいろいろなエピソードの種本はみんなここです。あんまりおもしろいんでたくさんのバージョンでマンガ化されているね。

  司馬遷は前漢武帝に仕えた人です。史官といって、宮廷の出来事を記録するのがかれの家の仕事でした。司馬遷の親父さんも史官として漢の宮廷に仕えていた。で、親父さんは史官としての仕事以外に自分のプライベートな仕事として、歴史書を書こうとしていたんです。それが「史記」です。ところがこれを完成させる前に親父さんが死んで、息子司馬遷がその仕事も引き継いだ。だから、司馬遷は宮廷勤めのかたわら情熱を傾けて「史記」を書いていました。いわばライフワークです。

  そんなときある事件がおこる。武帝は積極的に西域経営をして匈奴と戦争していたね。李陵(りりょう)という将軍がいた。この将軍も五千の兵を率いて匈奴との戦争に出かけるんですが、敵に包囲されて降伏した。
 このニュースが長安の宮廷に届くと武帝は烈火のごとく怒った。李陵将軍の一族はみんな都に住んでいるんですが、武帝はその家族を皆殺しにしろ、と命じたんです。そのとき史官司馬遷はその場に居合わせた。司馬遷は李陵将軍の人となりを知っていたので、かれを弁護したんです。李陵将軍は立派な人物だから、降伏したのにはよほどのわけがあったに違いありません、事情がはっきりするまでかれの家族を処刑するのはお待ちください、というのだ。
 武帝はこれを聞いてさらに怒ってしまった。「お前は史官の分際で皇帝の判断に口出しするか!司馬遷よ、お前も死刑だー!」
 ということで、司馬遷も死刑になることになった。ところがかれには親父さんから引き継いだ「史記」を書き上げるという重要な仕事があるわけです。死ぬわけにはいかない。当時死刑と同等に重い刑で宮刑(きゅうけい)という刑があった。これは性器を切り取られる刑。宦官にされてしまうわけだ。司馬遷はどちらかを選択することができた。

  死なずにすむのなら宮刑でいいじゃないか、と今の時代なら簡単に思うかもしれないけれど、時代が違うからね。なぜ宮刑が死刑と同じくらい重いかというと、男性性器を切り取られるということは男でも女でもなくなる、ようするに人間ではなくなって人間界からおさらばすることを意味したからです。
 当時の感覚では人間以下のものになってまで生き続けることは、死ぬよりもつらいことだったのですよ。しかし、司馬遷は「史記」を完成させるために宮刑を選びました。

 宮刑を選んでも実は生きていられるとは限りません。当時は医学も進歩していないしね。スポンと性器を切り取るでしょ。そのあとばい菌が入って死ぬかもしれないし、出血多量で死ぬかもしれない。手術後の生存率はかなり低かったようです。手術後は室温を高くしたサウナ室のような部屋に一週間閉じこめられる。一週間後生きながらえてこの部屋から出てきたら助かったということになる。中には傷が治る過程で尿道がふさがってしまっておしっこが出なくなって死ぬこともあったらしい。

  司馬遷は死なずにすみました。しかし、みじめな身体で生き続ける屈辱に耐えなければならなかった。すべては「史記」を完成させるためでした。
 自分がこんな目にあったことを考えると、司馬遷は人間の生き方というものを考えざるを得ないんです。李陵将軍を弁護したことは正しかったと司馬遷は考えた。しかし、武帝から屈辱的な刑を受けた。運命とはいったいなんだろうか、というわけです。
 そういうことを考えながらかれは歴史上の人物について伝記を書いた。自分の主義に忠実だったためにのたれ死にしたものや、さんざん人殺しをしながら天寿を全うした大泥棒が列伝には出てきます。武帝に刑を受けながらもその臣下として生きている自分。その自分が書く漢の歴史、武帝の時代。いろいろな想いがぎゅっと凝縮されて「史記」の行間にほとばしっている。というわけで名著なのです。
 また、司馬遷は「史記」を書くにあたって宮廷の記録を利用するだけでなく各地を旅行して取材しているようです。単なる書斎の人ではないのです。

 余談になりますが、先年亡くなった歴史作家の司馬遼太郎さん、かれの名前は司馬遷に遼(はるか)に及ばない、という意味でつけたそうですよ。

  後漢の時代には班固が「漢書」を書いています。形式は紀伝体で司馬遷の方法を踏襲しています。「史記」が前漢の武帝の時代で終わっているので、班固は前漢の時代をその滅亡まで書きました。これ以後、あとの王朝がその前の王朝の歴史を書くことが一般的になっていきます。班固は西域都護だった班超のお兄さんです。

  漢のはじめ頃には人気のなかった儒学ですが、やがて経典が整備されます。『詩経』(しきょう)『書経』(しょきょう)『易経』(えききょう)『春秋』(しゅんじゅう)『礼記』(らいき)の五つです。全部まとめて五経(ごきょう)という。
 これらは、春秋時代から戦国時代にできた書物ですから、漢の時代の人びとにも意味がわかりづらかった。そこで、これらの経典の解釈学が発達しました。これを訓詁学(くんこがく)という。その代表的な学者が後漢の鄭玄(じょうげん)(127~200)です。儒学をそれなりにマスターしていることが名士としての条件になってきますから、豪族の子弟たちも、これで一所懸命勉強したわけだ。

  文化で忘れてはいけないのは紙の発明です。後漢の蔡倫(さいりん)という宦官が発明したといわれています。実際は蔡倫以前にも紙はあったようで、蔡倫はこれを実用的に改良した人。

 紙の発明が、文化の発展普及にどれだけ役に立ったか想像できますか。
 中国で紙が発明される前は、竹や木を細長く短冊状に削ったものに字を書いていました。これを竹簡(ちくかん)、木簡(もっかん)といいます。けっこう長くて一本50センチくらいです。これ一本には長い文章を書けないので、何本かの短冊(たんざく)を「すのこ」のように糸でつづって、これに文を書く。「冊」という字はこの形はここからきている。しまうときにはぐるぐる巻いておくのです。これを「巻」という。いまでも何冊かつづきの本を一巻、二巻、というでしょ。ここからきているわけ。
 こんなんだから、ちょっとした本でもすごく大きく重たく場所をとる。豪族や官僚でなければなかなか個人で書物を持つことは難しい。
 勉強したい人は読みたい書物をもっている人のところに重たい木簡抱えていって、座敷にダーッと広げて写すわけです。コピーなんてないしね。筆記用具は墨と筆でしょ。書き間違えたら短刀で木簡を削って書き直す。
 これが軽くて薄い紙に替わって書物を読んだり所有することがずいぶん手軽になったのです。
 蔡倫さんに感謝。

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古代中国の刑罰―髑髏が語るもの.中公新書 (1252) 富谷 至 著。今回の話で司馬遷の宮刑が出てきます。宮刑の意味については、この本にもとづいています。刑罰のあり方から古代中国 人の発想に迫る面白い内容です。例えば「女性に宮刑はあったか?」皆さんは どう思われますか。古来から諸説紛々の問題ですが冨谷さんはこの本の中で説 得力に富んだ解答を展開しています。  こんな中国古代史にたいするユニークなアプローチを、新書本で専門外の者にもわかりやすく読めるのはありがたいかぎり。さすが中公新書!

第30回 新から後漢 おわり

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