第31回 三国時代
後漢末の情勢
後漢は2世紀以後、幼い皇帝がつづきます。大人の場合でも覇気のない皇帝が多い。すると前漢の末期と同じで、外戚や宦官が権力を握るようなった。
とくに後漢の場合は宦官が力をもって宮廷を牛耳った。官僚にとっては面白くない。官僚はみんな儒学を修めていますからね、学問のない宦官が政治に関わることは理念的に許されないのです。宦官におもねって出世しようとする官僚もいましたが、かれらの専権に抵抗して後漢の政治をまっとうな姿にしようとする理想家肌の官僚たちもかなりいました。こういう官僚のことを「清流(せいりゅう)」といいました。清流官僚たちは宦官を批判し、世論もかれらの味方をしてくる。
こうなってくると、宦官としてはすててはおけない。清流官僚に対する大弾圧をおこないました。これを「党錮(とうこ)の禁」という(166~169)。清流官僚たちのグループを政界から永久追放したのです。殺された者もいました。
清流官僚というのは、後漢の国家運営に対して責任感をもったまじめな連中でしょ。かれらを潰すことで後漢の宮廷は官僚たちの支持を集められなくなる。
後漢の政府は豪族の連合政権のようなものだったね。官僚というのは中央政界では官僚だけれど、出身地に帰ればみな豪族なんです。かれらは二つの顔をもっているのです。かれらが儒学を教養として身につけてまじめに皇帝のために働いていれば国家は安泰ですが、党錮の禁でかれらは後漢の政府を見限ってしまう。
官僚としての顔を投げ捨てた豪族たちがどういう態度をとったかというと、豪族としての私利私欲の追求に走るようになります。もしくは、世捨て人みたいになって精神世界の追求に入ってしまう。このタイプの人を「逸民(いつみん)」という。この逸民的な生き方がけっこうブームになったりもするんです。これに関しては、いずれ話をします。
地方で豪族が私利私欲に走るとどうなるか。かれらは、どんどん土地を独占していく。後漢の政府はもう地方の水利工事なんてやらなくなりますから、自作農は経営が不安定になって、ちょっとした天候の不順ですぐに没落する。やがては豪族に土地を奪われて、小作になったり奴隷になる。それでも生きていければまだましで、多くの農民たちが生活の基盤を失って流民となるのです。
こういうぎりぎりの状態で生活している農民たちは頼れるものが欲しかった。かれらが頼ったのが宗教でした。この時代、宗教が大流行する。宗教結社の活動が活発化してくるんです。
宗教結社は二つ。太平道(たいへいどう)、五斗米道(ごとべいどう)です。これらはのちに道家の思想と結びついて道教という宗教の源流になっていきます。
二つとも病気を治すといって民衆の人気を獲得したというんですが、とくに五斗米道の活動は興味深いよ。信者になるには五斗の米を教団に納めます。信者になれば祈祷やお札で病気を治してもらえるだけではない。
この宗教結社は「義舎」という施設をつくっているんです。これは、無料宿泊所です。信者が流民になっていくところがなくなったらここに泊まれて食事もでる。五斗の米を出せないような貧しい民衆でも利用できる。その場合は労働奉仕をすればよいのです。橋をなおしたり、道路の補修をしたり堤防を修築したりする労働です。本来、政府や農村の共同体がするべき仕事だね。だけど、政府は腐敗しているし、共同体は豪族の私利私欲で崩壊している。それを五斗米道の教団組織がになっていたわけだ。
こんな教団が人気がでないはずがない。最終的には現在の陜西省から四川省にかけて独立国のようなものにまで発展していきました。
太平道のほうは五斗米道のような具体的な活動はわかりませんが、多分似たような活動をしていたのでしょう。中国の東部を中心に数十万の信者ができました。政府の無策と豪族の横暴がつづく限り、困窮した農民たちがどんどん信者になっていくわけです。
太平道の指導者は張角といいます。かれは、農民信者の支持で自信をもったんでしょう。後漢を滅ぼして、新しい国を建設しようとしました。信者を軍隊組織にして大農民反乱をおこした。これが黄巾の乱(184)です。
黄巾の乱にとって敵は誰か。それは後漢王朝と農民を苦しめる豪族ですね。後漢政府は頼りにならないから、豪族たちはそれぞれに私兵を組織して黄巾の乱と戦いました。いわゆる群雄割拠の状態になっていくんです。
この時に兵を挙げるのが三国志のお話で有名な曹操や、孫堅、劉備、その他の英雄たちなのね。三国志の物語ではかれらが英雄で黄巾の乱は農民を苦しめる悪い連中ということになっているけれど、農民の視点から見れば曹操たちは農民を苦しめるあこぎな豪族で、やむにやまれず立ち上がった農民反乱をさらにぶっ潰そうというとんでもない奴、ということになります。豪族たちの奮戦で黄巾の乱は鎮圧されますが後漢政府は事実上無力化します。ただ、政府はこのとき活躍した豪族たちに官職をあたえて名目的には生きながらえていきます。
後漢が名実ともに消えるのは220年です。
三国時代
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代に入っていきます。一時的な統一の期間はありますが、だいたい350年ほど分裂がつづきます。
その最初が三国時代です。
魏、呉、蜀、という三つの国に分裂します。話としては面白いところでみんなの中にも好きな人多いでしょ。私も好きでね、「三国志」というシュミレーションゲームをしたいがためにその昔、PC88というコンピュータを買ったり、ファミコンを買ったりしました。「捜索」のコマンドで必死に諸葛亮をさがした。見つかったら「おーっ!」なんて。それはそれとして。
まず魏(220~265)です。都は洛陽。これが後漢に取って代わった国です。中国北部を支配した。三国の中で最大最強です。建国者は曹操、曹丕(そうひ)。事実上は曹操がつくった国ですが、かれは皇帝にならずに死んで、息子の曹丕の代になって後漢最後の皇帝から位を奪って魏の初代皇帝になる。だから、一応形式的には建国者は曹丕。
曹操はもちろん豪族ですね。お爺さんが宦官で財産をきずいた。宦官でも養子をとって家を残すことがあるのです。黄巾の乱の鎮圧で頭角をあらわして、その他大勢の豪族を傘下におさめます。三国志の物語に出てくるかれの部下、武将や参謀、あれはみんな豪族だからね。それぞれ手勢を率いて曹操の配下に加わってくるのです。
曹操が強かった理由はいろいろある。例えば、後漢末の群雄割拠の時代に呂布(りょふ)というスーパーマンみたいに強い豪傑がいるんですが、なぜかれが強いかというと匈奴兵を率いていたんですね。かれ自身も現在の内モンゴル出身で遊牧民族の血を引いていたのかもしれない。遊牧民は騎射に優れて勇猛です。その呂布が死んだあと、その軍隊を曹操はそっくりそのまま自分の軍隊に吸収します。
それから青州兵という黄巾軍の残党まで自軍に編成しています。何でも利用できるものは利用します。
三国時代で曹操は一番魅力的な人物です。かれの魅力の根本は、従来の儒学の道徳から解き放されているところにある。曹操は法家だともいわれます。先ほど、党錮の禁以来「逸民」的な生き方がブームになったといったけれど、逸民というのは世間から逸脱(いつだつ)しているのです。この逸脱、ということの中身には儒学的な道徳からの逸脱ということも含まれている。そういう意味では法家的な曹操も逸民と同じ根っこをもっています。だから、その行動にも大胆不敵で爽快なイメージがつきまといます。 (竹内実・吉田富夫編訳「志のうた」中公新書より)
政治、軍事だけでなく文学の才能にもあふれた人でした。曹操だけでなく息子の曹丕や曹植(そうしょく)も文才があって、「建安の文学」といって中国文学史上、黄金期のひとつにかぞえられる時代です。かれらはみなその「建安の文学」を代表する詩人でもあります。
曹操の詩をひとつ紹介しておこう。
短歌行 曹操
酒に対わば当に歌え
人生幾何やある
譬えば朝露にも如たり
去日苦も多きことよ
慨らば当にもって慷け
憂思忘れ難し
何に以てか憂を解さん
唯杜康有るのみ
……
山 高きを厭わず
海 深きを厭わず
周公哺を吐きたれば
天下心帰せたりとかや
さけにむかわばまさにうたえ
ひとのいくるやいくばくのときやある
たとえばあさつゆにもにたり
すぎにしひびさてもしげきことよ
おもいたぎらばまさにもってなげけ
こもれるおもいわすれがたし
なにによりてかむすぼれるおもいをけさん
ただうまざけあるのみ
……
やま たかきをいとわず
うみ ふかきをいとわず
しゅうこうくちのなかのたべものをはきたれば
あまがしたこころよせたりとかや
魏の制度では屯田制と九品中正法を覚える。屯田制は後漢末の戦乱で混乱した農業生産を回復させるための土地制度です。
九品中正法は漢の郷挙里選にかわる官吏登用制度です。地方に中正官という役人をおいて、これが地方の人物を九等級に分けて中央に推薦する。中央政府はこれにもとづいて役人を採用していきます。
後漢末、中国北部を統一した曹操は南方に攻め込みます。これを迎え撃ったのが孫権、劉備の連合軍。長江中流域で決戦になるのですが水軍になれない曹操軍は大敗する。これが有名な赤壁の戦いです(208)。この敗北で曹操は統一をあきらめ、中国の分裂が決定的になりました。
孫権が長江下流を中心に建国したのが呉(222~280)。首都は建業、現在の南京です。この国も南方土着豪族の勢力を結集してつくられました。
劉備が現在の四川省を中心に建てたのが蜀(221~263)。首都は成都。この人は有名な『三国志演義』という物語の主人公。関羽、張飛などの豪傑を従えて黄巾の乱の鎮圧に活躍して、やがて諸葛亮という軍師を迎えて蜀の君主になる。物語も現実もこういう筋書きは同じです。ですが、かれらの歴史上の実像よりも物語での活躍の方が有名になってしまって虚像が一人歩きしている感じだね。中国でも古くから講談や演劇の題材になり今でもテレビドラマや映画になっている。
とくに劉備の武将関羽は人気があって、神様としてまつられています。関帝廟というのがそれで、蓄財の神様になっている。横浜の中華街にもあります。
軍師の諸葛亮は物語の中では、ものすごい知謀の持ち主でかれのたてた作戦や政策はピタリと的をついて劉備を一国の君主に押し上げていくわけですが、劉備が諸葛亮を自分の家臣にするのにこんなエピソードがある。
「三顧(さんこ)の礼」というのです。
劉備は早くから関羽、張飛などと一旗揚げて活躍し、有名になっていくのですが、なかなか曹操や孫権のように一国一城の主として自分の地盤をつくれない。あちこちの地方の太守の居候(いそうろう)、客将ぐらしをしているのです。そんなとき、諸葛亮という知謀の士がいると聞く。かれを部下にできれば大きく発展することができるだろうというんだね。諸葛亮は田舎にこもって誰にも仕えていない。
そこで劉備は諸葛亮の隠遁場所に訪ねていく。ところが、諸葛亮は留守。劉備はあきらめきれないので、もう一度自ら出向いていくんですが、またもや留守。普通ならこれであきらめるのですが、どうしても自分の参謀に迎えたいのでもう一回訪ねていきます。これが三回目。そうしたら、今度はいた。ところが、諸葛亮はお昼寝の最中だった。劉備は昼寝の邪魔をしては諸葛亮先生に申し訳ないといって、かれが目覚めるまでじっと待っているの。
やがて、諸葛亮目が覚める。三度も自ら訪ねてきてくれてしかも自分が寝ているのを起こそうともせずに待っていてくれたというので、すっかり感激して劉備に仕えることになった。
これが三顧の礼。三回訪ねて隠遁している先生を引っぱり出してきたというのだ。
これは物語の山場のひとつなのですが、実際にもあった話らしい。
しかし、考えてみると変な話で、劉備は一度も会ったこともない諸葛亮をどうしてそんなに家来にしたかったのか。まだまだ、勢力は小さいとはいえ、劉備はすでに有名人で将来は大きな野望をもっているわけでしょ。軽々しく自分から無位無冠の、しかも年下の人間を腰を低くして迎えるというのは、自分の値打ちを下げるような行為なのです。とくにメンツを重んじる中国的な発想ではね。
この三顧の礼の背景にはこんな事情があったんです。
劉備とは一体何者か。かれは漢の皇帝家の血筋を引いているといっていますが、こんなのはだいたいはったりで、なんの身分もない庶民出身です。田舎では筵(むしろ)売りをやっていたという。黄巾の乱でチャンスをモノにして成り上がっていくのですが、所詮身分が低い。
後漢が崩壊していく過程で地方権力を打ち立てていくのはみな豪族だったでしょ。曹操も豪族。孫権も豪族。でも劉備はそうじゃない。だから、どうしてもかれらの仲間入りができないのです。
諸葛亮は一体何者だったのか。かれは大豪族の一員なんですよ。諸葛家というのは中国全土に知られた大豪族だった。諸葛亮にはお兄さんがいるんですが、兄さんは呉の孫権に仕えているのです。大臣にまでなっている。又従兄弟(またいとこ)がいて、こっちは曹操に仕えている。つまり、魏や呉にとっても諸葛一族は自分の味方にしておきたいような大豪族。諸葛亮はそういう豪族の一員なんです。
つまり、劉備が諸葛亮を家臣にできれば、「ああ、あの諸葛一族の諸葛亮が劉備に仕えたのか。ならば、劉備も豪族仲間の味方と考えてやろう」と全国の豪族たちが思ってくれる。豪族勢力に認知される、ということになるのです。例えていえば、私が銀行にいって一億円貸してくれといっても絶対ダメだけれど、ソニーかトヨタの社長さんが保証人になってくれればすぐに借りられるようなモノです。
実際、諸葛亮を迎えてからの劉備はトントン拍子で蜀の国を建てます。蜀の地方の豪族たちが、かれを君主として仰ぐことに賛同した背景には諸葛亮の存在は大きかったと思います。
これほどに、豪族の力を無視しては何もできなかった時代だったのです。逆にいえば、誰も全国の豪族勢力をひとつにまとめられなかったから中国が分裂したのでした。
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志のうた―中華愛誦詩選 伯夷・叔斉から毛沢東まで (中公新書) | 竹内 実, 吉田 富夫 著。 本文中に「志のうた」という本から曹操の詩を引用していますが、この詩集 は中国の詩を時代を超えて集めたものです。大胆な読み下し文で一読して意味 が取れるように工夫されています。日本人は漢字をみて何となく意味がわかる ので、「志のうた」では翻訳の醍醐味を味わうこともできます。お薦めの本で す(入手しにくいですが)。 曹操は「歩出夏門行」という詩も載っていて、私はこちらの方が好きなんで すが、本文では、長さの関係で授業では「短歌行」を紹介しました。 |
第31回 三国時代 おわり