こんな話を授業でした

世界史講義録

  第32回 魏晋南北朝 

1大分裂の時代

   前回三国時代の話をしたんですが、三国時代以後の流れを確認しておいてください。ここはややこしいところなので、プリントの流れ図をしっかり覚えておくこと。
魏晋南北朝の流れ

 後漢が滅んで三国時代。魏、呉、蜀の三国に分裂。
 魏に代わるのが晋。「しん」という音の王朝はこれで三つ目だね。秦、新、がありました。漢字でちゃんと区別しておくように。

 この晋が蜀と呉を滅ぼしていったん中国を統一します(265)。しかし、混乱がおこって短期間で晋は滅びます。
 華北には北方、西方の異民族が侵入してきて、かれらの部族単位の小さな政権がたくさん生まれます。これが五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(316~439)。五つの異民族によって十六の政権ができた時代、という意味です。華北は大混乱の時代です。

 やがてその中のひとつ北魏という国が華北を統一する(439)。
 北魏はやがて東西に分裂(534)して東魏、西魏が成立。
 さらに東魏は北斉(ほくせい)(550~577)、西魏は北周(556~581)に代わります。
 北魏から北斉、北周までの五つの王朝はすべて同じ系統の政権なので、これをひっくるめて北朝と呼ぶ。

 異民族の政権ができたのは華北だけで華南にまでかれらの侵入はありませんでした。崩壊した晋の王族の一人が南に逃げてここに晋を再興します。これを東晋(317~420)という。東晋と区別してその前の晋を西晋と呼ぶこともありますから注意しておいてください。

 東晋を滅ぼしたのが宋、このあと、斉、梁、陳という王朝がつづきます。この宋から陳までの四つの王朝をひっくるめて南朝と呼ぶ。華北の北朝と対峙する恰好になる。

 北周が北斉を滅ぼして華北を統一したあと、581年に北周が隋に代わり、この隋が南朝最期の王朝陳も滅ぼして再び中国全体を統一するのが589年。

 後漢滅亡後、隋の統一までの370年間が大分裂時代、というわけです。

  この時代全体の呼び方ですが、魏晋南北朝時代、というのがいちばん一般的です。また、南方の政権に着目して六朝(りくちょう)時代という言い方もあります。三国の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳、全部で六つの王朝があるでしょ。だから六朝。この六つはすべて都が現在の南京にあったので、ひとつづきのものと考えているのです。
 六という数字を伝統的な読み癖で「りく」と読みますから注意してください。

 受験的にはこの時代の王朝の変遷はしっかり覚えてください。
 しかし、王朝の変遷というのは権力の最高位にある皇帝の家柄が代わっていくのを追っているだけの話で、大きな歴史の流れとしては、権力が不安定で長い分裂がつづいた時代として、ざっくりとらえてもらったらいい。

  では、なぜ皇帝権力が不安定で政権交代を繰り返したかというと、三国時代のところでも話したように豪族の勢力が強かったから、ということになる。豪族層に対抗できるような皇帝権力の基盤を作れなかったのです。

 もうひとつは異民族の流入がある。前漢、後漢の時代に積極的に対外政策をおこなった結果、北方の遊牧民族のあいだに徐々にではありますが、中国文明が浸透していく。匈奴の中にも中国国内に移住して生活するような部族が出てくる。華北の場合はかれらの活動がさらに混乱に輪をかけたということです。

2西晋から東晋へ

  王朝の変遷でポイントになるところだけ細かく見ておきましょう。

 西晋(265~316)。建国者は司馬炎。この人のお祖父さんが「三国志演義」で有名な司馬懿(しばい)です。曹操に信頼されて大将軍をやっていた。

 ちなみに司馬懿は蜀の諸葛亮が魏の国に侵攻してくるのを防衛して名を挙げて、諸葛亮の死後は東方の遼東半島にあった公孫氏の独立政権を滅ぼします。この結果、朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入る。そこにやってくるのが倭の邪馬台国の使者です。有名な「魏志倭人伝」はこの魏の国の歴史書の一部分です。歴史に「もし」は禁物といわれますが、もし、諸葛亮が早死にせず司馬懿が蜀との国境戦線に張り付けになったままだったら、朝鮮半島は魏の勢力範囲には入らず、魏の歴史書に邪馬台国の記録は残されなかったもしれない、というわけ。

 話がそれましたが、司馬懿は魏の国で押しも押されぬ実力者になっていく。かれの子も、孫である司馬炎も魏の大将軍の地位を握りつづけます。魏は曹操、曹丕は力がありましたがそれ以後はだらしのない皇帝がつづき、いつの間にか司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋を建てたというわけです。

 だから、司馬炎はお祖父さんの遺産で皇帝になったようなもので、人物としては大したことはない。即位するとすぐに贅沢三昧にふけってしまう。それでも280年には呉を滅ぼしなんとか天下が統一されたのですが、かれが死ぬと帝位をめぐって王族どうしの内紛が起きる。八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱をはじまてしまったのです。これを八王の乱(291~306)といいます。

 この王たち、ライバルを倒すためには自分の軍事力を強化すればよいわけです。で、そのための手段として周辺の異民族の力を導入したんですね。遊牧系の民族は中国兵よりも強い。各部族の酋長たちと話をつけて呼び寄せ、配下として戦わせた。遊牧部族の者たちは、はじめは晋の王族のもとで戦うのですが、中国人は弱い。なにもかれらの命令を聞いていなくても、自分たちの部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てることができる、と考えはじめても当然だね。やがては、晋の王族に呼ばれていない部族までどんどん移住してきて、晋国内は大混乱におちいります。結局晋は滅んでしまった。

  この時に中国内に入ってきた異民族が五胡と呼ばれるのです。匈奴、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、テイ、羌(きょう)です。テイ、と羌はチベット系の民族。鮮卑はモンゴル系。匈奴は不明ですね、羯は匈奴の別種といわれています。 

 遊牧系民族が国を建てるので当然ながら華北では農村荒廃がすすみます。五胡どうしの戦争もつづきますしね。華北の豪族たちは配下の農民たちを引き連れてどんどん南に逃れました。

  華南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)という人が逃れて東晋を建てます。都は建康。華南にはまだ開発されていない土地が結構あった。東晋政府はそういう土地を逃れてきた豪族たちに割り当てていきます。そして、かれらはアッという間にそこに地盤をきずいていくのです。華南には華南土着の豪族もいます。かつては呉政権を支えた人びとです。土着豪族と新来の豪族はあまり仲が良くない。東晋の皇帝はこういう豪族たちの微妙なバランスの上に立って政権を維持していったのです。しかも、北には五胡の圧迫があるしね。大変だったね。

 また、五胡の政権はしばしば南方に侵略してきます。一方東晋政権はこれを防がなければならないし、チャンスがあれば華北を奪還したい。だから、どうしても軍事力を強化しなければならない。この軍人たちが政治的な発言権を持つようになるからさらに権力は不安定になる。
 東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を奪って建国したものです。

3北魏

  華北で五胡の短命地方政権が興亡を繰り返しているなかにで徐々に力をつけてきたのが北魏という国です。鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が建国者。拓跋氏という部族のリーダーです。

 この北魏が五胡十六国の分裂状態を終わらせて華北を統一したのが439年。太武帝(たいぶてい)という皇帝のときです。この間に北魏は華北経営の基礎を固めていくわけです。当然漢人の豪族の協力も得ていく。鮮卑人の数はしれていますから、漢民族の豪族の協力がなければ中国の支配はできないのです。華南に逃げずに北部にとどまっていた豪族勢力も当然いたのです。北魏の皇帝家も漢人との結びつきを強めるために漢人豪族と婚姻関係を結んでいきます。

  そういう中で登場するのが北魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(位471~499)です。孝文帝は当然鮮卑族なんですが、かれの母親は漢民族。かれのお祖母さんも漢民族。だから、人種的に何民族かということは実質的にはあまり意味がなくなってくるね。
 北魏の国家を鮮卑族の国家から民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することなどできないのです。そこで、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました。
 具体的には首都を平城(へいじょう)(山西省大同)という辺境から、洛陽に移します。それから、宮廷で鮮卑語を禁じます。鮮卑族の軍人や役人はすべて中国語を話さなければならない。名前も中国風に改名させます。皇帝自身も拓跋という姓を元という一字姓に変更しています。鮮卑族有力者たちの反対もあったのですが、孝文帝はこれをやりきりました。

 これは直接関係あるかどうかわかりませんが、こんな話がある。鮮卑族の拓跋氏にはちょっと変わった風習がありました。皇帝の生母を殺すという風習です。これは外戚が権力を持つのを避けるためにずっと前からおこなわれていたらしい。孝文帝は幼いときに即位するのですが、その結果かれのお母さんは殺されているわけです。
 中国の儒学の発想からすると考えられない野蛮な行為なのはわかりますね。親には「孝」というのが中国的な道徳です。孝文帝は血統からいうと鮮卑族の血よりも漢族の血の方が濃い。鮮卑族の風習と同じように中国の儒学的な発想も身につけていたに違いないのですよ。価値観のバイリンガルですね。ごくごく常識的に考えて自分の母親が殺されて悲しくないわけがない。孝文帝の場合は母の死は自分の即位が原因なわけで、かれは鮮卑族の風習を忌み嫌ったに違いないと私は想像します。そういうことを考えるとかれの漢化政策はよくわかります。

4魏晋南北朝時代の政治

  魏晋南北朝時代を通じていろいろな事件があるのですが、みんなカット。何がこの時代の政治のテーマになっていたのかだけを見ておきましょう。

 どの王朝にしろどんな経緯で皇帝になったにしろ、皇帝は国家権力を強化したいと考えます。そのための邪魔者は豪族勢力です。豪族の勢力を押さえて、皇帝権力を強化するにはどうすればよいか。

  ひとつは土地です。豪族よりも広い農地を直接皇帝の支配下におくこと。そうすれば、単純に豪族よりも強くなれる。
 なぜならば、そこで自作農民を育成して租税を徴収する。さらに自作農民を徴発して兵士にする。そういうことが皇帝にとって可能になるからです。そうすれば豪族に頼らない軍事力と経済基盤を持つことができる。

 そのための政策が、三国の魏の屯田制、西晋の占田・課田法。占田・課田法は豪族の土地所有を制限して自作農を作り出すための政策といわれていますが、くわしいことはわかりません。
 さらにこの政策の決定版が北魏の均田制です。孝文帝の時代にはじまりました。これも自作農民を育成する仕組みだ。これは国家が人民に土地を支給するのです。人民は土地を支給されて自作農になることができる。そのかわり、かれらは国家に対して租庸調(そようちょう)という租税を納め、兵役の義務も果たすことになります。
 これによって北魏は強力になったともいえます。この均田制は北魏につづく王朝にも引き継がれました。北周を継いで中国を再統一した隋、隋に代わった唐でも均田制はおこなわれました。

 唐の時代に日本から遣唐使がいく。遣唐使がこの均田制を日本に伝えました。これが班田収授法という名前で日本でも実施されたわけです。

  皇帝権力強化のもうひとつの課題が官僚の登用です。
 皇帝の手足となって働く官僚は中央集権を目指す王朝にとっては絶対必要なのですが、これをどうやって採用するのか。豪族として私利私欲を追求するのではなくて、王朝に忠誠を尽くす人物を採用したい。
 魏がおこなった九品中正法がそのための方法です。しかしこの方法によっても採用されたのは豪族の子弟でした。しかも、九品中正法は豪族の家柄をランク付けしましたから、有力な豪族は代々高級官僚を出すようになりました。このような豪族は事実上貴族といってよいものになっていきます。西晋の時代にはそういう貴族の家柄がだいたい決まってきたようです。これでは、皇帝に忠実な官僚の採用にはほど遠いような感じですね。

 ただし、豪族=貴族たちが九品官人法によって国家の序列の中に位置づけられたという意味はあったのです。国家の存在と無関係に貴族が存在できたのではなく、国家や皇帝権力によって高い家格にランクされることをかれらは望みました。そういう点では九品中正法は豪族を国家権力に取り込んだといえるでしょう。

 九品中正法は魏晋南北朝時代の各王朝で採用されました。どの王朝もなんとか豪族=貴族勢力を国家権力に取り込もうとしたのです。

 国家権力が豪族とは無縁の官僚を登用できるようになるのはさらにあとの隋、唐の時代になってからです。

5魏晋南北朝時代の文化

  この時代の文化の担い手は貴族です。代々つづく豪族を貴族といってよい。とくに華北の戦乱を逃れて南方に逃れてきた貴族たちによって成熟した貴族文化が発達します。中国南部の王朝で発展したので六朝(りくちょう)文化と呼ばれることが多い。この表現は覚えておくこと。

 後漢の末から豪族=貴族たちのあいだで逸民的な雰囲気がはやったといいました。どろどろした政治の世界から身をひいて、儒学的な道徳にとらわれず精神的な自由を守ろうという風潮です。例の諸葛亮も劉備に引っぱり出されるまでは田舎にこもっていたわけで、かれも逸民的な生き方をしていたんでしょう。

 儒学のかわりに人気が出てきたのが老荘思想、道家の系統の思想です。西晋の頃から貴族たちのあいだで老荘思想にもとずく弁論合戦がはやります。貴族のサロンで奇をてらった面白い議論を展開できれば人物の評判が高まりました。こういう議論を「清談」といいます。今のみんなが暇があったらカラオケにいくように、かれらは暇があったら「清談しようぜ」となる。

 とくに清談で有名になった貴族が七人いて、かれらのことを「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」といいます。竹林が茂る別荘に集まって清談して遊んだんだ。阮籍(げんせき)なんていう人がとくに有名だけど、かれらの名前を覚える必要はありません。
 竹林の七賢はみんな政府の高官でもありました。だからかれらは現代風にいえば国家の発展や人民の生活の安定のために一所懸命働かなければならない立場だよね。でも、浮き世離れした清談にうつつを抜かしている。悪い言い方をすれば「清談」は貴族たちの現実逃避の手段のひとつであったかもしれません。
 そういう意味で、「清談」には国家から半分そっぽを向いている当時の貴族=豪族の生き方がよく出ていると思う。

 貴族階級には麻薬もはやったのですよ。五石散(ごせきさん)という麻薬を利用している記事が多くあります。やりすぎて死んでしまった人もかなりいたみたい。貴族のサロンは麻薬で陶酔しながら、浮き世離れした哲学論を戦わせる場であったのです。

  代表的な文化人と作品を見ていきます。

 陶潜(とうせん)。詩人です。陶淵明(とうえんめい)ともいう。東晋の人。
 「帰去来辞(ききょらいのじ)」という詩が有名。これは「帰りなん、いざ」という一文からはじまる詩で、役人を辞めて田舎に帰るときに作ったという。この詩の一節に「五斗米のために腰を折らず」という言葉がある。五斗米とは役人として陶潜がもらう給料をさしています。腰を折るというのは、ようするにお辞儀をすること。つまり、わずかばかりの給料をもらうために上司にペコペコお辞儀してへつらうような役人仕事はもうごめんだぜ、俺は仕事を辞めて田舎へ帰って、のんびり好きなように暮らすぜ、という詩なのです。
 陶潜も当時の貴族の逸民的な雰囲気の中にいるのです。

 謝霊運(しゃれいうん)。南朝宋の人。詩人です。超一流の名門貴族でもありました。
 官僚をやっているんだけれど、傲慢な性格だったので左遷されて田舎に飛ばされた。そこで美しい自然に心を癒されて、山水詩を書きました。
 自然の風景の中に自分の精神をとけ込ませて安らぎを得る、という感覚。わかるでしょ。
 仙人みたいになりたいわけです。

 昭明太子。南朝梁の王子。即位せずに死んでしまいますが。この人が編集した本が「文選(もんぜん)」。
 古今の名文を集めたもので、貴族たちが文章を書くときに参考にしたものです。日本にも輸入されて奈良・平安の貴族たちが漢文を書くときの手本にしたので日本でも有名です。

 王羲之(おうぎし)。東晋の人。この人も名門貴族。名前の「羲」という字は注意してください。義務の義とは違う字ですよ。書聖と呼ばれる書道の名人です。というよりも、筆と墨を使って書くという行為を芸術にした人といった方がいいですね。
 代表作が「蘭亭序(らんていじょ)」。名門貴族たち40数人が蘭亭という風光明媚な場所に集まって宴会をした。いかにも「清談」的な雰囲気の集まりです。みんなで作った詩を集めたものに王羲之が序文を書いた。これが「蘭亭序」。傑作だったらしいんですが、のちの時代、唐の太宗という皇帝が自分の墓に一緒に埋めてしまった。だから実物はありません。
 その他の作品も、王羲之本人が書いた真筆は伝わっていません。現在、わたしたちが見ているのは臨書(りんしょ)といって、のちの時代の名人が書き写したものです。
 私、高校時代芸術選択は書道でした。美術を選択したんですが、どういうわけか書道にされてしまった。書道の教科書には王羲之の臨書があってこれを書きまくっていました。1600年後の高校生にも影響を与えている人ですな。

 顧愷之(こがいし)。この人も貴族ですが謝霊運や王羲之ほど一流ではありません。役人としてもぱっとしませんが、画家として有名だ。肖像画が得意でした。代表作「女史箴図(じょししんず)」。資料集にありますね。貴族女性の日常生活を描いています。

 わたしが見ても、この絵の芸術的価値はよくわかりません。
 ただ、当時の貴族たちの暮らしがわかって面白い。たとえば、これは貴族の婦人が召使いに髪をとかせているのですが、彼女の前に円盤が掛けてある。これ、なんだかわかりますか。
 銅鏡です。
 日本列島では古墳からじゃかじゃか出土します。宗教的な呪力を持つものとして埋めてしまうのですが、これが本来の使い方。中国では鏡としてちゃんと使っている。

 それから、彼女が座っているのはなんですか。これ、畳ですね。部屋の全面に畳を敷き詰めるのではなくて、自分が座るところにだけポンと畳を置いている。
 これがそのまま日本に伝わる。百人一首の絵。あの天皇や貴族の座り方とまったく同じなんですよ。
 日本では畳はどんどん普及して、部屋全体に敷くようになって現在に至る。一方、本家の中国では唐の時代くらいから、椅子とテーブルの暮らしが一般的になってきて、現在では畳は使っていません。
 「古い時代の文化は、辺境地域に残る」という文化伝達の原則があるんですが、その実例だね。この場合、辺境とは日本のことね。

 絵画資料として顧愷之の絵は面白いです。

 以上が華南の貴族文化、六朝文化の代表者たちです。

  華北では、五胡系統の王朝がつづくので、華やかな貴族文化は生まれませんが、実用的な書物が書かれました。

 「斉民要術(せいみんようじゅつ)」は農業技術書。
 「水経注(すいけいちゅう)」は地理書ということで教科書にはでています。中国国内に流れる河川沿いの風俗、歴史などを書いたもので、妖怪や怪物も実在のモノとしてでてくるのです。実用的な書物とは少し違う感じ。

  五胡十六国の支配者である北方、西方の民族は仏教を保護します。招かれて西域から仏僧が渡来します。

 仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ)(?~348)、鳩摩羅什(くまらじゅ、クマーラジーヴァ)(344~413)が有名。

 仏図澄は、中央アジアの亀慈(クチャ)という都市国家出身です。精力的に中国で仏教を布教しました。
 鳩摩羅什は、父親がインド人、母親が亀慈の王女という人。インド留学もした一流の仏教僧でした。五胡十六国時代に中国に渡り活躍するのですが、この人は仏典の翻訳で有名です。
 お経はインドのサンスクリット語で書かれている。これでは中国人にはわかりませんから中国語に翻訳しなければならない。鳩摩羅什はそれをした。大変だったと思うよ。
 日本が仏教を輸入したときに、日本語訳をしていない。現在でも葬式や法事でお坊さんが読むお経は漢訳仏典です。つまり、日本には鳩摩羅什はあらわれなかったのですね。中国が仏教を受け入れるときのような努力を日本はしていなかったということかもしれません。

  仏教遺跡は北魏時代の石窟寺院を覚える。雲崗(うんこう)、竜門(りゅうもん)の二個所です。
 雲崗は初期の都平城近郊、竜門は後期の都洛陽の近郊に造られた寺院ですが、ともに岸壁に造られた巨大石仏で有名です。竜門は洛陽に近いので観光コースでもあります。私もいきました。ここには北魏時代から20世紀までずっと石仏が掘られつづけていて、掘られた年代を見ていくだけでも面白い。

 唐の時代、日本から遣唐使がいくでしょ。仏教を学ぶための学生も多かった。で、日本から来た学生たちは多分この竜門の大仏を見たと思うんです。洛陽のすぐ近くですからね。かれらはそのスケールの大きさに度肝を抜かれたに違いない。そして「いつか日本でもこんな大仏を造ろう」と思った。そして、できたのが聖武天皇のときの奈良の大仏だ、と私は想像するのです。
 竜門の大仏と奈良の大仏、どことなく体型、衣装の雰囲気が似ているでしょ。同じルシャナ仏でもある。
 インドで生まれた仏教がガンダーラでギリシア文明と融合して仏像を生み、中国に伝わり北魏で造られた大仏が唐の時代に日本に影響を与え奈良の大仏になった。そういう意味で、まさしく日本は文化伝搬の終着駅なのです。

 今年(1999年)正倉院展にいって来ました。緑色の太くて長い縄が展示されていました。
 752年に大仏の開眼供養会がおこなわれるのですが、インド人の僧菩提卵那(ぼだいせんな)という人が大仏の目に墨を入れます。インドの坊さんをよんでいるんですよ。菩提卵那は人間の腕ぐらいのでっかい筆を使って目を入れるのですが、この筆に縄がつけられているのです。縄はどんどん枝分かれしていて、下の方から開眼式を見ている多くの貴族たちがその紐の端を握っていたそうです。功徳が伝わるようにね。
 展示されていたのはその一番太い縄。当時の人の願いが伝わってくるようなこういう小物に結構感動しました。

 宗教では道教が確立、発展したのも北魏の時代です。寇謙之(こうけんし)(365~448)が道教を体系化して北魏の保護を受けて発展しました。

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世界帝国の形成.講談社現代新書
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谷川道雄著。 講談社新書のシリーズは歴史展開を理論中心に描くので、直接授業に利用できないのものが多いが、この本だけは読んでおきたい。時代をうごかしていく人々の意識や倫理観にまでさかのぼり、歴史のうねりをダイナミックに描いている。
曹操や竹林の七賢など、何を課題としていたかが描かれており、非常に参考になった。

第32回 魏晋南北朝 おわり


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