こんな話を授業でした

世界史講義録

   第33回  隋 

   長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋です。
隋という国がどうやって登場してきたのか見ておきましょう。

 話は北魏にさかのぼります。北魏の孝文帝が漢化政策をおこなった話を前回しました。実はこの漢化政策に不満を持った辺境地域の軍人たちがいて、かれらの反乱によって北魏は東西に分裂しました。この軍人たちは辺境防衛で苦労をともにして強い団結力を持っていた。人種的には鮮卑系などの北方民族と、北方民族化した漢族が渾然一体となっています。

 この軍人たちが北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団になるのです。かれらは質実剛健な雰囲気を持ち続けます。東魏、北斉政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱化していきますが、北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化にあまり影響されなかったのです。

   隋の建国者は楊堅(ようけん)です。隋の文帝ともいいます。
 この人は北周の皇帝の外戚で、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てます。もともと楊堅も北周の皇帝家も北魏時代の軍人仲間のグループなんですね。だから、王朝が隋に代わっても基本的な政策の変更はありません。支配者層の顔ぶれもかわらない。
 その後、楊堅の隋は北斉、陳を滅ぼして統一を成し遂げるのです。

 楊堅は漢民族といわれていますが、生活文化はかなり北方民族化していたようです。奥さんは独孤(どっこ)氏という鮮卑族の有力貴族出身の人ですしね。
 隋という統一王朝は、中国が北方民族のエネルギーを吸収消化して生まれたものと考えたらよいと思う。

   いままで、中国文化とか漢民族とかいう言葉をあまり説明もせずに使ってきましたが、中国文化というのは常に周辺の民族の文化を取り入れて発展してきたものだし、漢民族というものも、周辺民族を取り込んでその範囲がどんどん広がってきているモノなんですね。
 漢帝国が崩壊してから隋の統一までの長い分裂時代に、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら一回り大きくなったというイメージがあります。
 先走りますが、隋がすぐに滅んだあとを継ぐのが唐です。唐はものすごく広い範囲を包み込んで大唐文化圏とでもいうものをつくりあげます。日本からも遣唐使がどんどんいくでしょう。阿倍仲麻呂、聞いたことがありますか。遣唐使で唐にいって、すっかり唐の皇帝に気に入られて向こうで官僚として出世するの。唐というのは、その人間が何民族かなんていうことは全然気にしない国なんですね。
 北魏、西魏、北周という流れの中で、いわゆる中国人と北方民族が融合していった、その流れが隋、唐という国の基本的な姿勢にもあらわれていると思います。

隋の政策

   隋の政策です。

 都は大興城。長安と覚えてもらっても結構です。

 土地制度は北魏より引き続いて均田制を採用。

 税制は租庸調制。均田制によって国家から土地を支給されている農民を均田農民といいます。均田農民が土地を支給されるかわりに、国家に対して納めるのが租庸調(そようちょう)です。
 租は穀物で納める税。庸は労働力で納める税。一年のうち一定期間政府に労働奉仕します。調は各地の特産物などで支払う税。

 さらに均田農民には兵役があります。均田農民によって編成される兵制を府兵制といいます。

 というわけで、均田制と租庸調制、府兵制はセットで実施されて効果が上がる制度です。これによって、王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れることができたわけです。北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が隋の時代に実が結んだのですね。

   官僚登用制度として絶対に覚えておかなければならないのが「選挙」。今の選挙とは全然意味が違うからね。これは試験による官僚登用制度です。やがて、この制度が発展してのちの宋の時代に科挙(かきょ)と呼ばれるようになります。隋の時代は選挙で採用される官僚の数はまだまだ少ないようですが、家柄によらず人物を選ぶ試験を始めたということはすごいことですよ。6世紀のことですからね。20世紀の日本だって試験で国家公務員を採用しているんだからね。同じですよ。

 貴族も官僚として活躍していますが、隋の時代からは貴族出身官僚を地方官に任命しなくなっている。地方に地盤を持たせないようにしたのです。貴族は豪族的な面をどんどんなくして、王朝に寄生する存在に近づいていきます。
 後漢滅亡後の課題であった皇帝権力の強化はこういう形で実現していくのです。

   4世紀におよぶ分裂の間に江南地方、長江南方の地域ですね、ここは南朝によって開発されて農業生産が伸びていました。隋はここを中国北部に結びつけるために大運河を建設します。南は長江南方の杭州から現在の北京近くまで全長1500キロメートル。
 大運河は南北中国の経済の大動脈として以後の社会に欠かせないものとなっていきます。のちの唐の繁栄はこの運河のおかげといっても言っても良いくらいです。

   文帝楊堅を継いで隋の二代目の皇帝になったのが煬帝(ようだい)です。この人の名前ですが、日本では読み癖として「ようてい」とせずに「ようだい」と読んでいます。本によっては「ようてい」とふりがなをつけているものもありますから、どちらが正しいというものではなくて、伝統なんですけどね。
 煬帝は暴虐な皇帝であるという評価が一般的で、帝という字を「てい」と呼んであげずに、おとしめる意味で「だい」と読むようになっているのです。煬という文字も、非常に縁起の良くない悪い意味の字です。隋に代わった唐にとって煬帝を非難して自らの王朝を正当化する必要もあったのでしょう。
 実際の煬帝はそれほど悪い皇帝だったかというと、贅沢三昧をするのが悪いとすれば普通に悪い。南朝ではとんでもない皇帝はいくらもいましたから悪さ加減もそこそこ。

 ただ煬帝が人民を徹底的に徴発したのは恨みを買いました。大運河の開削工事で農民を人夫として徴発した。普通土木工事に駆り出されるのは男と決まっているのですが、大運河開削には女性も動員された。これは前代未聞だという。
 それから、対外戦争です。高句麗遠征を三回おこない、全て失敗しました。この戦争とその準備で多くの人民が死んでいった。
 高句麗は隋の東北方面、現在の朝鮮半島北部から中国東北部にかけて領土を持っていました。煬帝は遠征のための物資をタク郡(現在の北京付近)に集めるのですが、南方から物資を輸送するために黄河からタク郡までの運河を掘らせた。やることが徹底している。土木工事と対外戦争はセットになっているんですね。 
 このような民衆の負担の激増で、各地で農民反乱や有力者の反乱が起きて隋は滅びることになるのです。

高句麗遠征

   高句麗遠征の話をしておきます。

 南北朝時代、中国の北方で大きな勢力を持っていた遊牧民族が突厥(とっけつ)です。トルコ系の民族で突厥という名はトルコを音訳したものです。この突厥は隋が成立するのと同じ時期に東西に分裂して、東突厥は隋に臣従しました。ところが、高句麗は隋に臣従しない。
 それどころか、隋に隠れて突厥に密使を送ったのがバレたりする。そこで、煬帝は高句麗遠征を企てたわけです。

   第一回高句麗遠征が612年。110万をこえる隋軍が出動した。攻め込まれる高句麗は必死です。国家の存亡がかかっているからね。この時は、隋軍は無理な作戦がたたって敗北、撤退しました。これは「薩水の戦い」の絵です。領内に深入りした隋軍を高句麗軍が破った戦いを描いたもので、韓国の歴史教科書に載っているものです。現代画ですが兵士たちの装束は古墳の絵などを参考にしています。

 韓国や朝鮮民主主義人民共和国いわゆる北朝鮮では隋の侵略を三度も撃退したことは民族の栄光の戦いなんですね。私の高校時代ですが、ラジオを真夜中に聞いていると外国放送が入る。日本向け平壌放送というのがあって、その中の歴史番組で大々的にやっていました。
 現在の韓国や北朝鮮の人たちが高句麗人の直系の子孫かどうかは簡単には言えないんですがね。

 第二回目の高句麗遠征は613年。この時は後方で物資輸送に当たっていた担当大臣が反乱をおこして撤兵。隋の政権内部の乱れが目立ってきます。また、各地で民衆反乱が起きはじめていました。

 第三回は614年。この時には、民衆反乱が大規模になっていて、高句麗遠征どころではなくなっていた。高句麗側はそれを見越して形だけの降伏をして、煬帝はそれを機会に撤兵しました。
 各地の反乱はますます激しくなって、煬帝は大混乱の中で親衛隊長に殺されて618年に隋は滅びました。

   隋の煬帝は倭国との関係で有名なエピソードがありますね。607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡った。かれは、国書を煬帝に渡すんですが、その冒頭の文句が「日出(い)づるところの天子、書を日没するところの天子に致(いた)す。つつがなきや・・・」。
 これを読んで煬帝は激怒した。もう二度と倭国の使いを俺の前に連れてくるな、と。なぜ怒ったかというと、この文面は中国の皇帝と倭国の王が同格であつかわれているからです。中華的発想では、周辺民族は中国よりもランクが下、中華文明を慕ってやってくるものでなければならない。倭国の手紙はそのような外交的常識から外れたはなはだ無礼なものなんですね。

 ところが、怒ったはずの煬帝なんですが、翌年には裴世清(はいせいせい)という使者を倭国に派遣して友好関係を続けているのです。
 なぜか。ちょうどこの時期は、高句麗遠征の準備を進めているときです。高句麗、新羅、百済そして、倭国と東アジア諸国の緊張感が高まっているんですね。隋としては高句麗を孤立させたい。もし倭国との外交関係を切ってしまったら高句麗が倭国と同盟を結ぶかもしれない。そうなったら、外交上も軍事上もややこしいですね。
 だから、個人的な怒りとは別に外交上はキッチリと倭国を押さえているわけだ。

   問題の国書を出したのは聖徳太子といわれています。聖徳太子はこの文面が隋に対して失礼なものだと知らなかったのでしょうか。知っていたけどちょっと突っ張ってみたんでしょうか。

 聖徳太子の時代、多くの仏僧が朝鮮半島から倭国にわたってきていました。大和朝廷からみれば朝鮮半島は先進地帯です。積極的に仏僧を受け入れていたのでしょう。
 そのなかに聖徳太子が師と仰いだ慧慈(えじ)という仏僧がいます。実はこの人、高句麗僧。高句麗から渡ってきている。この慧慈が例の国書を書いたのではないかという説があります。
 国書は「日の出づるところ」と倭国のことを書いている。だけど、冷静に考えてみると日本列島に住んでいるわたしたちにとって、ここは「日の出づるところ」ではないね。倭国を「日の出づるところ」と考えるのは、西方から見る視点です。中国を「日没するところ」とするのは同じように中国よりも東方からの視点です。
 そう考えていくと、国書を書いた人物の視点は倭国と隋のあいだにある。そこは高句麗です。

 高句麗僧慧慈にとって、倭国と高句麗とが軍事同盟を結ぶことが望ましい。そのためには倭国と隋のあいだにトラブルが起きると都合がよいです。聖徳太子の信任を受けた慧慈はそういう下心を持って国書を書いたのではないか。
 また、煬帝も倭国の無礼に対して怒りつつも、倭国を高句麗側に追い込まないように注意している。
 わずか数行の国書の文面から倭国をも巻き込んだ国際関係が読みとれるなんて面白いですね。

 ところで『隋書』という隋の歴史書には608年に倭国におもむいた使節の記録がある。この時に使節は倭国王と、その妃、王子に会ったと記録されている。変でしょ。聖徳太子は王ではありませんね。推古天皇は女性ですよ。一体誰に会ったんだ。正式な隋の外交使節を倭国政府はあざむいて聖徳太子を王と紹介したのでしょうか。また、この時に帰国した小野妹子は隋の国書を途中で紛失した、ということになっている。
 このあたりの倭国の記録には腑に落ちないことが多いです。

7世紀初頭の東アジア

   東アジアの諸国を整理しておきましょう。

   高句麗は紀元前1世紀後半に鴨緑江という川の流域で成立した国です。ツングース系扶余族の国家。この国が飛躍的に領土を拡大したのが広開土王(位391~412)の時代。 この王の業績を記念して立てられた石碑が「広開土王碑」。この碑文には倭の記事も出てくるのですが、読み方に関していろいろな説があるのと、碑文そのものの改竄(かいざん)説があって問題の多い石碑です。が、有名なものなので名前だけは知っておいてください。5世紀初頭の東アジア諸民族の貴重な資料です。中華人民共和国吉林省集安に建っています。

 高句麗は隋の攻撃には耐え抜いたのですが、結局、次の唐によって滅ぼされました(668年)。

   このとき唐とともに高句麗を攻撃したのが新羅(しらぎ、しんら)です。
 4世紀後半に朝鮮半島の東南に成立した国です。高句麗と百済に圧迫されていた新羅は7世紀半ばに積極的に唐の文物を取り入れて国政改革をおこない、唐との結びつきを強めます。最終的には唐と軍事同盟を結び、660年には百済、668年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した。
 ただし、唐は朝鮮半島の直接支配を目指したので、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い払うために676年まで戦いつづけることになります。

   百済は朝鮮半島西南。4世紀前半の成立。この国は高句麗、新羅と比べて大和朝廷との関係が非常に深い。唐、新羅連合軍によって滅ぼされたあと、倭国の援助を受けて復活を目指します。663年の白村江の戦いがそれ。しかし、倭軍は負けて百済再興はできませんでした。

   倭です。3世紀魏に邪馬台国が使者を派遣したことは以前に話しましたね。そのあとは倭国が5世紀南朝宋に使節を送っています。中国の王朝に官職を授けてもらうことによって朝鮮半島や日本列島の対立勢力の中で有利な立場を確保しようとしたようです。宋の歴史書には五人の倭王の名が記録されているので、これを「倭の五王」といっています。
 それ以後は隋の時代まで倭の記録は出てきません。

 なぜ南朝の宋にだけ記録されているかというと、宋だけは山東半島まで領土を拡大しているんです。日本列島から百済を経由して比較的簡単にたどりつくことができたのでしょう。

 隋のときに倭国は遣隋使を送ります。これはさっき言ったとおり。やがて、隋・唐の高句麗遠征、高句麗・百済・新羅の三国をめぐる国際関係の中で新羅と同じように内政改革をおこなわざるをえなくなる。これが、645年の大化改新といわれる改革。
 日本という国号を使うようになるのは7世紀後半からです。それまでは倭国と呼ぶのが正しいのです。

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古代東アジアの民族と国家
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李成市著。
専門書で高価ですが、私のような素人でも充分理解できます。
今回の、高句麗をめぐる国際関係に関しては、大いに参考にしました。
隋の煬帝(ようだい)中公文庫 宮崎市定著。
いつもながら、語り口のうまさと、明快な論理展開には、脱帽するばかり。隋という時代が、自分の手の中に入っているような気になります。


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